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中国の市場で感じたモノの価値を見る力

中国の市場で買い物するのは、本当に苦手でした。

今でこそ、中国も随分スーパーやコンビニも増えましたが、以前は、何か買い物しようとすると、近所の市場に行かなければならず、その度に憂鬱になっていました。

というのも、市場では、多くの店舗で値札が出されていないのです。店先の台、路上の一角に無造作に置かれた商品の数々。一見するとどの店舗も同じ物が並んでいるように見えます。この中から、自分のお目当てのものを選び出し、値段交渉をして購入するのです。

中国語のレベルが中途半端だった時は特に最悪でした。少し中国語で話しかけると、向こうは「こいつはいける!」とばかりにガンガン中国語で押してきます。下手な中国語を話すから、外国人であることはバレバレの状態。

「中国の市場では方言を話せ。標準語を話したら値段をふっかけられるぞ」などと言われますが、「標準語を話す外国人」の客なぞ、それ以下。鴨がネギを背負ってお鍋に出汁を注いで待っているようなものなのです。

「何が欲しいんだ?」「こっちのにしておけ、大きいぞ」「安いよ!今なら◯元だ」「は?もう十分安くしているよ」「勘弁してよ。この辺では大体これが最低価格だ」「大体、ウチは◯◯から最高のものを仕入れていて…」「最近は物流費も高くなっていて…」「これも一緒にどうだ?」等等…。

この時、ガイド本などでは「相手の言い値の半値から交渉スタートしてください」と書いてありました。なので、とりあえず何でも半値で言って交渉を始めていました。しかし、早口でまくしたてられる中国語に振り回される内、段々とトランス状態になってきて、大抵最後には高値で大量に購入してしまって、歯軋り後悔していました。

だから、地元出身の中国人が一緒に買い物に付き合ってくれる時の心強さといったらありませんでした。どの友人も、一緒に市場をまわると「これはいい」「あれはダメ」と的確に指示をくれます。その度に自分も一端の目利きになったような気分に浸れたものでした。

当初、友人たちの交渉力はすごいと感じていました。方言で何を話しているかは聞き取れないものの、店主と和かに何回かやり取りしたら、すぐに条件をまとめて教えてくれます。「中国人同士の高度な交渉術には敵わない…」と思ったものです。

しかし、その内に、自分が敵わないのは交渉術ではなく、もっと根本的な所にあるのではないかと考えるようになりました。それは「目の前の商品の価値を判断する能力」です。

日本では、大体日本中どこのコンビニに行っても、同じ商品は同じ価格で販売しています。また、スーパーにしろ、コンビニにしろ、商品の前には値札が付いていて、消費者はそれを見て買うか買わないか判断するだけになっています。通常は、例えばチョコレートが100円で売っていたら、その価格自体が妥当かどうかということには疑問を抱きません。悩むのは「今、自分が100円をチョコレートに払うかどうか」です。これは、日本の流通が高度に発達しているということで、とても素晴らしいことだと思います。

しかし、そもそも市場というスタイルの売買では異なります。同じように見える商品も、店舗ごと、商品ごとに値段が異なります。しかし、それは考えたら当たり前のことです。それぞれの店舗は仕入れている先が異なります。その先には異なる生産者がいます。大規模に経営する農場の農作物があれば、庭先で収穫しただけのものがあります。同じ品種でも土が変われば品質も変わるでしょう。産地が変われば、物流にかかるコストも変わります。本来、モノの価値やコストというのは、日々一つ一つ異なって当たり前なのです。そうしたそれぞれの事情を抱えた商品を持ち寄っての「市場」なのです。

そうなると、消費者として持っておくべきものは、「この商品にはどのくらいの価値があるのか」という自分なりの価値判断基準です。「これいくらですか?」と聞いて、今の自分にその金額が払えるかどうか考えるのではなく、むしろ全く値札のない世界で「この商品はどのくらいの価値がある」と判断した上で、無数に異なる商品の中から自分の価値観に合う商品を選び出していく作業です。

つまるところ、売り手と買い手の接点である市場における売買の基本というのは、この販売者の事情と消費者の価値基準との間の交渉ということになるでしょう。

私は中国の市場で、「半額から…」というマニュアル通りの交渉をして、正解の価格を導き出そうとしていました。ミカンならミカンの、TシャツならTシャツの正解の価格があって、それを外国人向けに騙しにかかってくる売主を相手に、何とか正解の価格に辿り着くのが交渉だと考えていました。

一方、市場についてきてくれた中国の友人たちは、皆、自分の中に「これにはいくらくらいを払う」という基準があって、その基準に合う商品を探しているようでした。当時は流通が未発達だったこともあり、同じような商品でも、場所によって、日によって、店舗によって、価格が変わるような状況でした。こうした感覚は、そんなところで生活をしていたら当たり前に培われる感覚なのかもしれません。

しかし、これは、投資というマーケット(市場)の世界でも、全く同じことだったな…、と最近思うのです。世の中には、価格の正解なんてものはない。「自分ならどのくらいの価値があると考える」と考えてから、世の中の価値を判断し選んでいく。この主体性がなければ、結局、不必要なものを大量に買わされて、歯軋り後悔するだけに終わるのだろうな、と思うのです。





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