患者Pの日記

精神科医Tです。 患者Pの精神記録の情報漏洩アカです。

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最近の記事

カルテ21:人類滅亡(妄想)に打ち克ててた子ども時代

前回の話をした後ふと昔のことを思い出しましてね。 2012年のマヤ文明の人類滅亡を覚えてますでしょうか? 当然今みんな生きてるので起きなかったわけだし、そもそもマヤ暦のひとつの循環が終わるって話であって人類の滅亡に関して何も言ってないということだったんですよね。 でも2012年当時恥ずかしながら100%信じるとはいわないまでも「自分の人生が唐突に終わるのかもしれないのか、それが本当なら残りの人生は時限式爆弾だと予言されたようなものではないか」と怯えておりました。 ところで

    • カルテ20:バブルとか高度経済成長期に生まれてたら

      高度経済成長の時かバブル経済の時かはちょっと記憶になくて申し訳ないんですけど、その時代っていい大学までいけば後はエスカレーター式でいい企業につけるみたいな神話があったはずです。 それこそ社会契約のごとき物語のパワーがあったように見受けられます。 今の時世を見るとどうかというと親ガチャとか出生地ガチャをはじめとした「まず努力の土俵に立つために壁となってるもの」みたいな論があるような気がします。 ここでふと疑問が。先の話におけるエスカレーター式の神話があった世代のとある人間Aが

      • カルテ19:グレーゾーン

        やっぱり世にいうグレーゾーンというのが苦手です。 前にも同じことを言ったと思いますが、正直「いずれ出すための答えの保留」という側面がすっぽり抜けて「理屈をとっかえひっかえする場合わけ的思考」あるいは「ジョージ・オーウェル的な二重思考の産物」とごちゃごちゃになってないかというのがあります。 曖昧で世が成り立っているならせめてこのグレーゾーン定義自体をごちゃごちゃにしないで欲しいなという思いがあります。 もう一点こちらも前に言ったと思いますが、世の中の中にその社会を回すベクタ

        • カルテ18:夢で多分民族主義者になった話

          また夢の話なんですが、今回は夢の内容そのものに触れるわけではありません。 何を見たかは正直忘れました。というか見てない可能性もあります。夢見てないのって確かヤバイんでしたっけ? それはともかくとして。 自分は最近起きようとしても、ずっともぞもぞと夢の中のカオスな世界に戻りたいと起きられなかったりするんですが、 そのもぞもぞするなかで「変なエネルギー」が沸いたんですよね。 もぞもぞしてるので身体的なものではあるわけがありません。 いわば身体の機能とは関係ない真の意味で精神にの

        カルテ21:人類滅亡(妄想)に打ち克ててた子ども時代

          カルテ17:救われた夢

          なんだか今朝は変な夢を見ましてね。 いくつかの断章のように場面が切り替わっていって大半は覚えてないんですけど、ひとつだけ夜中に目が覚める直前のは明確に覚えてます。 どうやら自分はストレッチャーかなんかに運ばれてたんですけど、どうも姿勢からして起き上がってるようだけども視点が地面に置いたカメラから見たように低かったです。 それで看護師っぽい方が「少し注射をしますね」といって両方の人差し指に注射をぶっ指しました。 痛くないなと思ったけど主観時間で0.5秒くらい後から突き指した時

          カルテ17:救われた夢

          カルテ16:絶望すら無価値にせよ

          前に自分は「この世界は剥き出しの状態だと、無意義の集まりだ」みたいなこと言った(もしかしたら違う言葉かも)と思いますが、そこにある種の価値を見てる面があるのは一種の矛盾じゃないかと思います。 最近だと物語の作劇上で「負のご都合主義」という言葉があるので、その方面の比喩を用いた方が実像として近くなるかもしれません。 この世が無意義というなら、その無意義さすらも特権性があるわけもなく、無意義さを優位性を与えるのは撞着語法的なものではなく、真の無意義さから無意識に覆いを被せる防衛

          カルテ16:絶望すら無価値にせよ

          カルテ15:霧の中

          今日少し雨だったのですが少々霧の中にいる自分というのを頭のなかで幻視しました。 あの先行きの見えないあの感じが逆に世界から隔絶を与えてきて何故か安心する気がします。 といっても草っぱらのなかで先行きが見えないと本当の隔絶に実像が近いがゆえに怖いかもしれません。 集合住宅の中の霧が望ましい。 人間のためにつくられたというデザインから剥奪されたものが周りにあるとより隔絶感が増すからかなのか。 ほんの少し手が届く範囲が世界の全てというのは霧が包容力のあるぬいぐるみのようにのある

          カルテ15:霧の中

          カルテ14:「人間はどこまで家畜か」を読んだ

          今回診察というより読んだ本についての感想ですかね。 熊代亨の「人間はどこまで家畜か」という本です。 生物進化学で「自己家畜化」というものがあって、「人間が生み出した環境の中でより穏やかに、群れやすく進化していく」とのことで、それが人間にも、ひいては文化的な事象をとおしておこる"文化的な自己家畜化"について書いています。むやみやたらに殺しては奪うより、コミュニティ内でルールを築いて穏やかにするのも自己家畜化の一種です。 特に文化的な淘汰圧、選択圧のようなものでホントに人間

          カルテ14:「人間はどこまで家畜か」を読んだ

          カルテ13:可惜夢

          可惜(あたら)という言葉がありまして、意味が「残念なことに」という副詞でこれに夜を付け足した「可惜夜(あたらよ)」という「明けてほしくない夜」になります。万葉集で出てくるそうです。 万葉集なら情緒ありますが、気分が落ち込んでる人間にとっては全く違う切実なもんになるんじゃあないでしょうか。 最近夜が明ける、というか目を覚ます時に「起きなきゃならんのか」ってなります。 寝ぼけと言われればそれまでなんですが、敢えて言語化すると「意識」であることをやめたあの時間が終わるのが嫌だと

          カルテ13:可惜夢

          カルテ12:ローティのせいだ

          前に「精神障害を持ってる人の方が世界を正しく捉えていて、健常者の方が好意的に歪めて世界を捉えてる」という仮説があるらしいという話をどっかで聞いたことがあります。 正直これに関しては正しく捉えてる云々は思ってなかったわけですけど、バイアス抜きに世界を捉えるということは、「世界の側が美しくある義理はない」というように、この世界に対しての期待の一切が意義をなさなくなるようなことだと思います。 先ほど思ってないと言いましたがこう言葉にすると一種のバイアス抜きの思考を突き抜けること

          カルテ12:ローティのせいだ

          カルテ11:石とならまほしき夜の歌と希死念慮

          石とならまほしき夜の歌という中島敦の作品を知っているでしょうか。山月記で有名な方です。「その声は、我が友、李徴子ではないか?」の人の短歌です。R.Dレインの「好き?好き?大好き?」の訳者解説の中で引用されてたものなのですが、気になってその歌を読んで見るとその歌の中の石は有情の有機体と違って穏やかそうだなと思いました。 この石になりたいというのは自殺願望(というより希死念慮に近い)の形態近いものがあるかしらと思うことが時々あるのです。というか石になる以外にも幻想文学的なモチー

          カルテ11:石とならまほしき夜の歌と希死念慮

          カルテ10:幸せを科学で代替したい

          幸せは気持ち次第というなら、身体全体を幸せホルモンで充たす手(副作用はここでは考慮しないものとします)もその範疇にあると思うのですが、こちらは薬漬けのような印象を多くの人が抱くのではないのでしょうか。 しかし「気持ち次第」とて現実を改変できているわけではなく自分の精神のなかで完結してる点で自己洗脳の側面も多いはずなのに、なぜこちらを人間ならではの営為のように言われてるのか前々から疑問なのです。 しかも「睡眠の重要性」「健全な精神は健全な肉体から」「心は電気信号」のように唯

          カルテ10:幸せを科学で代替したい

          カルテ9:「鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎」の悪役たち

          1/10に「鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎」という映画をついに観たんですが、これが神と仏の救いを犠牲にした良脚本、良演出で最高の作品でした。 水木とゲゲ郎のバディものとしての魅力の話もあるのですが、今自分が語りたいのは作品の内包する寓話性と言いますか。 作品の舞台が昭和31年の因習が渦巻く哭倉村(なぐらむら)に主人公の水木が日本財界を牛耳っていた龍賀の当主の葬式に会社からの密命を帯びて向かうのが始まりなんですが、この哭倉村の実態というのが一筋縄では行かないんです。 物語が進むに

          カルテ9:「鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎」の悪役たち

          カルテ8:Doomer的初期症状

          最近アメリカで多いというDoomerになってる気がします。「憂鬱な若者」を指している言葉です。破滅的なペシミズムを持ってるという点でです。将来への希望的展望も見えない故の無気力というのもあるのか。 Doomerは核兵器や環境問題なので終末を迎えることをどこかで望むともありましたが、自分の場合それらがなくとも終末は訪れると思います。 それは世の無意味とは言わないまでも無作為さに全人類が心を蝕まれてしまうことです。 ここで断っておきますが、全人類に自分やdoomerが持ってるよ

          カルテ8:Doomer的初期症状

          カルテ7:真理的(心理的)な楔がない

          ニーチェの「神は死んだ。私たちが殺したのだ。」という言葉は有名ですよね。ツァラトゥストラはかく語りきの一文で科学が進歩して今までの拠り所のキリスト教の神は価値がなくなってしまったというのが背景にあるのですが、問題としたいのはその後の「超人思想」というものを打ち上げたこと。 いわば己が光たれという高説と言えるようなものなのですが、 ここで自分が思ったのは「神を否定し虚無主義を唱えつつも、その先に超人という新たな神を設定してはいないか」、です。 ちょっと前置きが長くなりましたが

          カルテ7:真理的(心理的)な楔がない

          カルテ6:偽中庸

          どうも私のような病気を持つ人間はものごとを白黒つけたがる特性があるというようなことを聞くのですが、白でも黒でもないグレーの領域探すという営みと似て非なるものが存在するのだと思います。 グレーの領域、つまり中間のものを目指すというのはアリストテレスの中庸や仏教系でいう中道などがありますが、こういうのはいわゆる可視光のスペクトラムのようにある事象に対して、ラジオのチューニングのように真ん中をつきつめる作業だとおもいます。いわゆる連続性というやつですね。アナログ的ともいう。 さ

          カルテ6:偽中庸