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日本の"自分で始めた女たち"#6 原田諭起子さん「世の中には、本当にいいもの、きれいなものがいっぱいある」

原田 諭紀子さん(アクセサリーデザイナー・プロデューサー)
第1回(全4回シリーズ)


地方で「国際企業戦略」ってどうやるの?
話ができる人に初めて会った。

原田さんと初めて会ったのは、偶然にも、前回インタビューした久保月さんのオフィスでした。
 
2016年、「国際企業戦略」のビジネススクールを卒業したばかりの私は、広告の仕事の傍ら、地方の産品を海外に売る方法や、海外の友人たちが扱う産品を日本で売る方法を探していました。当時は久保さんのオフィスにそんな話をしに行っていました。
何を見ても日本と海外をつなぐ方法が気になっていたある日、NHKの朝のニュースでピアニストのフジコ・ヘミングさんの特集がありました。海外で売れるってどんな気持ちだろうと思いながら見ていたら、演奏会の風景で、フジコさんが頭につけている大きなお花のコサージュに私の目はくぎ付けになりました。顔の半分はあろうかと思う大きさ。すごいな~、あんなのどこで売ってるんやろ?やっぱりパリだろうなぁ。
その時、私は彼女のコサージュがパリではなく高松の屋島で作られていることや、数日後にコサージュを作っている本人に会うことを、全く想像してもいませんでした。
 
原田さんは、海外で自分の作品を紹介するパンフレットを久保さんのデザインオフィスtao.に作ってもらったので、取りに来たのだそうです。「あ、ちょうどいいわ」と久保さんが私に原田さんを紹介してくれました。
高知の珊瑚や宇和島の真珠といった四国の宝石と、パリなどで集めたアンティークパーツを組み合わせたアクセサリー、コサージュを作っていると話す原田さんは、フジコ・ヘミングさんのヘッドドレスも作っているのだそう。あっ!数日前に見た演奏するフジコさんの映像がよみがえってきました。パリじゃなくて、屋島で作ってたとは!しかも目の前のこの人が!

そして私の目はパンフレットの珊瑚のピアスに吸い寄せられていたのです。原田さんの作るアクセサリーは、珊瑚も真珠もコサージュも妖艶な大人の雰囲気を纏っています。日本的でもあり、西洋のアンティークのようでもある。それは見たこともない美しさでした。
その後、私は原田さんと親しくさせてもらうようになり、原田さんのアドバイスをもらいながら、香川の小規模事業者の国内販路開拓や、海外販路開拓という、広告とは違う仕事に足を踏み入れることになります。
 
原田さんはご自身の経緯をnoteでも書いていらっしゃいますので、私は「自分で始めた」販路開拓から話を聞きはじめました。ここでのお話は、今月1月1日に発表された新ブランドにつながっています。全4回シリーズです。

原田諭起子さんプロフィール

Matsuyoiデザイナー、GRACEプロデューサー
岐阜県生まれ。大学卒業後、製薬系の研究者としてキャリアをスタート。結婚後、家族の転勤で香川に。和裁の仕事に携わりながらアンティークの美しい布たちでアクセサリー製作を開始し、Matsuyoiブランドでショップに卸し始める。2013年に株式会社松なみ創立。国内の百貨店などでの展示が評判を呼び、根強いファンが生まれた。2016年、アクセサリーの世界的な見本市ビジョルカの出展社に選出され、以降、毎年パリで展示会を行う。2020年はメゾン・エ・オブジェに出展し、その後パリのカリスマ的フラワーアーティスト・メイクアップアーティストのEmmanuel Sammartino氏とも作品のコラボレーションを行う。
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会社にして体制をつくらないとだめだと思った

中村 原田さんのお客様との出会い方とか、仕入れについて聞いてみたい。扱うものが宝石だからすごい金額が動きますよね?
 
原田さん 仕入れはね、自分の貯金を使い果たすみたいな感じですよ(笑)。
法人化する前はそんなに大きな仕事はなかったんです。会社にしようと思った頃から、百貨店や海外などの話が一気に来ました。2011年ごろです。
何者ではない自分が社会的に認められたり、大きい会社に対峙して大きい仕事をするためには、会社として体制を整えたほうがいいと考えました。人の見方が絶対に違うから、最初にやるのはそこだと思ったんです。今でも間違っていなかったと思います。
パリの展示会、メゾン・エ・オブジェやビジョルカにも出たんですが、法人として海外に出ていくと、信用度は非常に大きい。だから私は、形をつくることの大事さを言いたいです。

2020年1月、世界最大級の見本市Maison et Objet(メゾン・エ・オブジェ)に出展した時のMatsuyoiブース。
ディレクターに注目され、展示会の「シグネチャー」として大々的に紹介された。

原田さん 会社をつくるとき、母に「絶対に借金だけはするな」と言われました。自分もまだ不安定だったので、自分のお金で回せるだけで始めました。
事業立上げってどこかからお金を借りてやるじゃないですか。「大きくするんだったら借り入れてやるほうがいい」と言う人もいるけど、私はそれはやりたくなかった。
今思えば、借り入れではなく自分のお金だったから、ためらいなく材料を買えたし、それを思いっきりやれたと思います。自分で材料を探しに行って、自分がいいと思うものだけを買ってきたからここまで来れた、というのはあると思うんです。
 
中村 法人化するまでには何年?
 
原田さん  Matsuyoiになる前の職人時代が2年ぐらいあるんですよ。1997年に始めて、法人化したのは2013年。その頃はまだ地元でしか仕事していなかった。小さなお金を小さく回していたあの時代が一番大変でした。ここを出ないと自分が使い古されて終わるなと思っていました。
 
装苑に載って転機が来た
 
原田さん それがいきなり大きく変わったのは、雑誌の『装苑』に載ってからです。HPを見たと連絡が来て私のアクセサリーを誌面に大きく出してくれた。『装苑』では掲載したものを通販もしていました。そこでも売れたから、何回かに誌面に掲載してもらいました。
 
中村 私も『装苑』大好きでした。Matsuyoiのファッション性とクリエイティブが雑誌の方向性に合ったんですね。

Matsuyoiを代表する血赤珊瑚や宇和島の真珠から生まれたアクセサリー。そこに日本やヨーロッパのアンティークパーツを組み合わせて、唯一無二の世界観を作る。
ちなみに中村が最初に買ったのも血赤珊瑚の枝を活かしたピアス。身に付けると外国の方に特に褒められる。

原田さん その『装苑』を見て、ある百貨店が連絡をくれたんです。別の東京の百貨店からも展示会の話が来ました。でも開催時期が2011年の3月。震災があったのでこの話はなくなるんじゃないかと思っていたら、当時、イベントで一緒だった愛媛の業者さんが「何があっても行け」って言ってくださったんです。「あの百貨店が声をかけてくれるチャンスはめったにない。行くべきだ」と。

これが、自分の価値を考える大きなきっかけになりました。
もっと自分の価値を上げて値段も上げないといけないと思いました。「こんな値段、東京では通用しない」と言われて。でも自分の中では相当に上げたんですよ。
 
中村 値段を上げる前はどれぐらいだったんですか?
 
原田さん 真珠や珊瑚を使ったものが、いま、ピアスだと2~3万円です。当時はその5分の1、4分の1。それでも地方では「高い」と言われていた。
 
中村 えーっ本当に!?それだったら私買うわ。
 
原田さん いまのほうが素材も金具もずっといいものを使っているんだけど、それぐらい弱気だった。地方の価格だから仕方ないんだと。コサージュなんて自分の工賃も出ないんです。「これはやってられないわ。でもしょうがない、趣味程度に」・・・って本当に趣味の価格ですよ。数を売っても利益が残らない。
でも東京で、自分の作品に14万円の価格を付けたらすぐに売れた。それでも安いと言われたんです。一番気に入っていたイヤリングは5万円ぐらい。それもすぐ売れた。私の考え方が間違っている、根本から考え直さないといけないと思ったんです。
その後いろんな百貨店に出るようになって、値段も上げるようになりました。
 
中村 そうなるといろいろ変わりますよね。仕入れに使えるお金も増えるから、クオリティの高いものも買えるだろうし・・
 
原田さん 会社の資金は、素材と移動の費用でほとんど消えていたし、自分が持っていたお金もすべて出したので、結構な額を材料に使ったと思うんですよ。
美術館級の古い布も集めていたんです。でも、2020年に全部、手放しました。
 
 
(記事内の写真はすべて原田さん提供)
 
→第2回(2月14日公開)に続きます

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