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『洋梨とフリージア』(ショートストーリー)

作・Jidak

自分が臆病な人間だって、気づいてしまう瞬間ってないだろうか。
私にはあった。
1年前。
つきあってた人が、私をとても大事にしてくれる人で。
こんなに愛されたことがないっていうほど愛を与え続けてくれて。

毎日が幸せすぎて、
もったいないほど、幸せの絶頂すぎて。

いつからか、怖くなった。

「こんなのずっと続くはずない」
「いつか終わってしまう」
って、結果、割と不幸な毎日で。
ほんと面倒くさい、愛され慣れてない人間は。

で、どうしたか。

逃げた。
何も言わずに。
携帯の番号も変えて。

幸せのその向こうなんて見たくない。
彼はサイコパスだったかもしれないし。

今もずっと彼のことが好き。

だけど、
愛が底をついたかもしれない現実や、
サイコパスな彼を見ずに済んだから
逃げたのは正解。
ああ、面倒くさい私。

でも。

もし再会してしまったら?

そう、今、ここ。

カフェで、イヤホンしてパソコンに向かっていたら、
いつの間にか隣に二人組が座ってて、
私の側にいる人が、かなり、限りなく彼で。

彼が愛用してたスニーカーを、今、私の視野がとらえている。
紐の先っぽにシルバーの飾り? そんなのをカスタムでつけてて、
それ。
今見てる靴、まさに、それ。

イヤホンを片方とってみる。
そう、この声。
もったいないほどの愛で包んでくれたのは、この声。

まずい。
ここは逃げるしか。

さらなる確認作業を。
横目でちらっと手を見る。
右手の薬指にリング。
私がプレゼントしたシルバーのリング。
まさか、まだつけてるなんて。

仕事仲間と来ているようだ。
ああ、この声が私に愛をくれた、
なんて余韻に浸っていては、逃げるタイミングを失う。
今日キャップをかぶっててよかった。
マスク、万歳!

そっとパソコンを閉じ、顔を上げないまま、
彼とは逆のほうから席を立つ。

ジョーマローンのイングリッシュペアー&フリージア。
熟した洋梨の官能的なみずみずしさと、フリージアの優しい香り。
彼が好きだった香りを、私はずっと身に纏っている。
香りは記憶をとどめる。
この香りが、幸せのピークを維持してくれる。
これでいい。
この1年ずっと心穏やかだったし、
これからもそうやって過ごすのだ。

ドアが開いて、次々とお客さんが入ってくる。
人の流れが外の風を運んできて。

あ……!

香り。
彼に届いてしまったかも……

レジが終わり、ちらっと振り返る。
彼がこちらを見ながら立ち上がったところだった。

あわてて店を出る。
走った。逃げるように。

後ろで、ドアが開く音がした。
力強い足音が近づいてくる。

洋梨とフリージアめ。

(終わり)

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(2022年6月10日配信)


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