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井戸川射子 柚子と檸檬「する、される」が「回遊する」運

あの人と出逢ったことで、「言葉(ことのは)」の葉っぱが繁りだそうとする「運」というものがあります。
その人の持つ「言葉(ことのは)」から「運」の葉っぱを繁らせ、樹木としての「運」からちいさな実りの「運」を握ら「される」時もあるようです。

井戸川射子の詩集を本屋で手にして、家に帰って、一気ビームで読み上げました。それからこんどはあの人の小説をまた開いてみた時、「柚子」と「檸檬」が湯船のなかでぷかぷか浮いているのを見るような気分になりました。
似てるんですよね、イメージが。
だから梶井基次郎の檸檬のことを思い出したのです。

それからというもの、井戸川射子の「詩」と「小説」がぷかぷかと爺虫のあたまの湯船なかで揺れて揺蕩っています。
子供の頃、お姉さんたちに混じってお手玉をしていた時のような気分でもあります。
女の子の遊びのなかでは、お手玉は結構したほうです。

「柚子です」「檸檬です」「柑橘類です」
「言葉の仲間です」
言葉のジャグリングが始まります。

柚子と檸檬を連想してみました。

井戸川射子が小説『この世の喜びよ』で第六十八回芥川賞を受賞した時、文藝春秋に載った『受賞のことば』が爺虫にとってとても衝撃的でした。一文でつなげた受賞の言葉でした。散文のようで詩のようでもありました。「檸檬」のようでもあり「柚子」のようでもありました。
引用してみますね。

《言葉を、すごく上手に使いたい、ながれていき楽しい、固定でき楽しい、言葉は忘れないでいようとする祈り、より合わす縄、借りて返し馴染んでいく布、素晴らしく長い距離を飛ぶことのできる、それ同士でぶつかり渡りと繁殖を続ける鳥、生まれてずっと真上から降り注いできた明かり、みんなの痕跡、私のことなど置いてどこかへ行ってしまう、誰かを守る丈夫な膜、吐き出しても体に少しは残るだろう、きっとどこかで行き延びるだろう、私の体は言葉ではない、でも今たとえば私はあなたの前に、言葉として存在している、言葉は一緒になって笑ってはくれないが、私の中から出てくる、自分の考えだけでパンパンの頭の中を通過する、あなたの前に、言葉として登場できて嬉しい、何か言って、上手に伝われば楽しい。》

とても長い引用となりましたが、これが「一文」だったので。その不思議さが素敵で魅力なのは、井戸川射子の言の葉の繋ながりが「意味ではなく感情や感覚。それらを味合わさせてくれる」からでしょう。
《ともかくささやかで篤実な主人公の女性による語りかけによるこの小説に、なぜこんなに心惹かれて夢中になってしまうのか、さっぱりわからない、それなのに大好き、という心もちにさせられてしまったのです》
 川上弘美が芥川賞選評でこのことに触れています。p274
 《言葉が組み合わされることによって生まれる何か》p274
まさしく言い当ててあります。川上さん。

ラストの方での「何か言って」を音韻イントネーション変えて読んだ爺虫は、「何か言って」と言われたような気がして、こうやって「あのひと」や「その人」や「あなた」や「きみ」に応える文章をいま書いています。

爺虫が応えていく時、井戸川射子が芥川賞受賞作『この世の喜びよ』の出だしでの人称と同じく「あなた」に応えるため、「あなた」という人称に拘って、「あなた」の前に「私」という人称を「バランス良く」置いてみます。「する」の後ろに「される」を出してみるのと同じく、呼応と反響が共振し始めるようです。バランスを執ることによって、詩のような響きが文体のなかに生まれてきます。言葉の組み合わせが作る、その綱渡りのようなバランス感覚が井戸川射子の文体を作っていきます。
芥川賞の選評で、川上弘美さんがそのあたりのところを「アンビヴァレント」という言葉を使ってうまく評してあります。
 《作品の持つメッセージ性や物語性などよりも、言葉が組み合わされることによって生まれる何か、音楽を聴いた時のような喜び。絵画を見た時のような驚き。意味でなく感情や感覚。それらを味わわせてくれるのが井戸川射子の小説なのだと思います》
   文藝春秋2023年3月号選評 p274

出だしに「柚子」が出てきます。「柚子」だとわかるまでにちょっとだけ「間(ま)」があります。この間合いは、例えば梶井基次郎のかの有名な作品『檸檬』のなかの「檸檬」が「私」の「袂」から出てくる時の「間合い」に似ています。

「あなた」は片手に握ってるものを「何かな?」と思わせる文体から「柚子」を登場させそれを後の方で「ポケット」に滑り込ませます。「バランス」良くふたつ。「左右均等」になるように。詩の文体「する、される」がバランスを紙一重で保っているのとおなじように。

《あなたは積まれた山の中から、片手に握っているものとちょうど同じようなのを探した。豊作でしたのでどうぞ、という文字と、柚子に顔を描いたイラストが添えられた紙が貼ってある。その前の机に積まれた大量の柚子が、マスク越しにでも目が開かれるようなにおいを放ち続ける。あなたは努めて、左右均等の力を両脚にかけて立つ。片方に重心をかけると体が歪んでしまうとは知ってからは、脚を組んで座ることもしない、腕時計も、毎日左右交互に着ける。あなたは人が見ていないことを確認しつつ片手に一つずつ握っていき、大きさ重さを微調整し、ちょうどいい二つをようやく揃えた。喪服の生地は伸びにくいので、スカートの両側についたポケットにそれぞれ滑り込ませると、柚子の大きさで布は幕を張り膨らむ。》
    文藝春秋2023年3月号 p292
     『この世の喜びよ』

井戸川射子は手に取った柚子の「重さ」と「質量」と「匂い」に「バランス」を取ろうと試みます。
ジャグリングですね。
「バランス」を取りながら、「柚子」と「檸檬」の動線を描いてみせます。

一方、梶井基次郎は、ジャグリングではなく、人間ピラミッドのように、本を積み上げ始め、天辺に、檸檬をバランス良く置きます。

《「あ、そうだそうだ」その時私は袂の中の檸檬を思い出した。本の色彩をゴチャゴチャに積み上げて、一度この檸檬で試したら。「そうだ」
 私にまた先ほどの軽やかな昂奮が返って来た。私は手当たり次第に積み上げ、また慌ただしく潰し、また慌ただしく築きあげた。新しく引き抜いてつけ加えたり、取り去ったりした。奇怪な幻想的な城が、そのたびに赤くなったり青くなったりした。
 やっとそれはできあがった。そして軽く跳りあがる心を制しながら、その城壁の頂きに恐る恐る檸檬を据えつけた。そしてそれは上できだった。》
    梶井基次郎『檸檬』角川文庫p11

今回井戸川射子の小説を読んでいて、言葉と言葉の繋ぎ合わせのバランスが危うさを内包するサーカスの出し物のように、「バランス」が微妙に重要になってくることに気づいたのでした。「バランス」という言葉やそれに関連する部分が何ヶ所も小説にでてきます。

《左右均等の力を両脚にかけて》 文藝春秋p292
《腕時計も毎日左右交互に着ける》文藝春秋p292
《微調整し、ちょうどいい二つをようやく揃えた》
  p292
《両側についたポケットにそれぞれ滑り込ませる》
《風呂の時に一つずつ持たせてやろう》
《大きなリュックにはバランスを工夫してつけているであろうキーホルダーが並び》p300
《だから放課後、帰って気まずくない時間ギリギリまで》  p300
《ここで目立ってしまうよりいいかと思い》
ケーキを半分に切る時は
《半分をラップから出し、少し勢いをつけて二つに割る。「ものすごい均等だわ」》p315
《ピンクと白の線でできたすき間を、手が塗っていく》
《お互いにぶつからないように走り回ってた》
 p335
《進む脚に力は均等に入る。》p335
ちょっと書き出しただけでもこれだけの箇所が「バランス」について書かれています。

風呂のなかで柚子は流れの中に集まってきます。それもまたこの小説が辿る「バランス」なのでしょう。

どこかで梶井基次郎の「感覚」がついてまわるのです。柚子であるがゆえに檸檬のイメージが「つく」「つかれる」と反響し合うのです。

井戸川射子の「言葉(ことのは)」はギリシア神話のダフネを題に冠した詩を読むと見えてきやすいような気がします。

ダフネはギリシア神話の神
アポロンに求愛されたダフネが自らの身を月桂樹に変える話ですよね。
井戸川射子の詩は「反響」をうたいます。言葉どおしがくっつこうとします、あとすこし、というところまで。そこに、バランスが生じます。サーカスのようです。
《想像の中で抱きしめる、受け止められる、息、止まるほど奥まで呼吸する。手の動きは遅すぎるのかもしれない。ぼくのせいだ。顔はどんな、形でも同じはずだ。》
追う、追われる、
夢の中のようですね。
またバランスから入ります。
《「そう、悲しいことは起きないように注意している。返事はそれでいいんだっけ?忘れていた、言葉はすべて反響だった。》
まだまだ「反響」します。
《ダフネ、ぼくのこと特別だって、思ったことなかったろうね》
《選択も反響で、体はなければ楽だろう》
で、ラストは
詩のなかの言葉と反響します。
《使ったことのある言葉をもう口にしたくない、そうか、次ぼくは自分のことさえ呼べなくなるな。大きく地面を踏んでも前に聞いた音がして、じゃあもう鳴らす意味はないか。悲しいことは起きないように注意している。意味ないこと知っている。》

梶井基次郎に反響させましょう。
ギリシア神話の部分がでてきます。
ゴルゴン。チーズのゴルゴンゾーラにも関係するのでしょうか。怪物です。アオカビの怪物だったら怖いですよね。目を見ると石に化せられてしまうといいます。メデューサもゴルゴンです。
梶井さんは果物屋の前に来ます。
《果物はかなり勾配の急な台の上に並べてあって、その台というのも古びた黒い漆塗りの板だったように思える。何か華やかな美しい音楽の快速調の流れが、見る人を石に化したというゴルゴンの鬼面—的なものを差しつけられて、あんな色彩やあんなヴォリュームに凝り固まったというふうに果物は並んでいる》
ラストのほうでは
梶井さんは
《変にくすぐったい気持ちが街の上の私をほほえませた。》
想像のなかでもう梶井さんはバランスを執ることができません。
檸檬色が覆ってきます。
《丸善の棚へ黄金色に輝く恐ろしい爆弾をしかけてきた奇妙な悪寒が私で、》
    梶井基次郎『檸檬』p12

檸檬と柚子
連想してきました。
井戸川射子の「柚子」から
「反響」
「バランス」
「積み木」
「柚子」と「檸檬」のイメージから
 ジャグリング
 あるいは
 お手玉あそび

まだまだ「回遊」は続いていきます。
爺は『この世の喜びよ』の中で、
《露天の季節風呂の中に入れられた、まだ硬く膨らみやへこみのある柚子がおそらく自分の形も気にせずに、流れでる湯の周りで集まる。》
あのあたりのなんでもない日常のシーンの柚子が好きですね。

       琥珀爺 拝

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