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AHoyH(アンノーン)について -ライブ配信の描き出し方-

ここでは阿部和重『AHoyH(アンノーン)』に関して述べていく。

ライブ配信とは
アンノーンではライブ配信についての描写があるが、この描写はいささか不十分であると考える。

その理由は、「視聴者からのコメント」が全くないことになっている、あるいは描写が省略されているからだ。

すでに録画したものを配信する主にYouTubeのようなスタイルであればコメントは後からつくので、コメントの描写はあるいは省略してもよいだろう。しかしライブ配信では、配信者の発言と視聴者のコメントとのやりとりは本質的だ。

配信者が言葉を投げかける、それに対して視聴者が反応してコメント打つ。あるいは視聴者のコメントを受けて配信者がコメントをする。これこそがライブ配信の醍醐味であり、このコミュニケーションの巧拙が配信者として大手になるか、過疎るかの分かれ目となる。

あるいは作者はライブ配信をする配信者そのものに焦点を当てるため、あえてコメントを通した視聴者とのやり取りを描かなかったのかもしれない。だが、それは失敗だ。

なぜなら、それはライブ配信をよく知らない読者には通じるのかもしれないが、ライブ配信をしていたり視聴したりしている者には強烈な違和感となり、この小説自体のリアリティを疑ってしまう結果となるからだ。

特に、最後の「黙って回線を切れ」の表現はいただけない。配信者と視聴者のつながりは、たとえ配信を切っても失われない。配信者が永遠に配信を止めることになるまで、視聴者は配信者の次の配信を待ち続ける。回線を切ったらどうしたと、反発さえ食らいかねない。

この小説には、絶対に視聴者からのコメント、そしてそれへの配信者の対応を入れるべきであった。

配信者のリアリティ
一方、ライブ配信者の描き方には一定のリアリティが感じられた。

作品の中に配信を切り忘れるシーンが述べられている。また、配信する部屋の汚さが描写されている。

実はこれらは、現実のライブ配信においてしばしばみられる。配信を切り忘れるシーンを集めたコラ動画などはYouTubeでよく目にするだろう。また、ライブ配信する前に部屋の掃除くらいするだろうと思うだろうが、意外と部屋は汚い。

このあたりをきちんと描いているのは、ライブ配信をよく見ている者にとっても納得がいくだろう。

視聴者の暴走
なお、ライブ配信においてはしばしば視聴者の暴走が見られる。その結果、配信者に危険が及ぶケースもみられる。

ただし、現実のライブ配信の世界ではカメラの遠隔操作という事態には至っていない。視聴者にとって、そこまで手間をかける価値はないと考えるのであろう。

代わりに、もっと直接的な手段が取られる。つまり、配信者の部屋の間取りや外の景色から住所を特定し、直接配信者の家に訪問するのだ。これは、いわばネットから現実への越境といえる。

この作品の舞台はロシアなので、日本人の読者にはそうした直接的な暴走は想像しがたい。したがって、カメラの遠隔操作という暴走行為が描かれたのであろう。

今後、私を含めてライブ配信を題材にした小説を書く人が数多く現れるだろう。その際にはアンノーンを先行者として参考にし、あるいは他山の石とすべきだ。