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「から」についての考察

 今回、「から」という言葉について取り上げる。結論を先に言うと、「から」は往々にして誤解を生むということを述べていく。

 個人的な話になるが、私が初めて哲学に興味を持ったのは、高校の倫理の教科書でデカルトの「方法的懐疑」に関する説明を読んだ時だった。

 ありとあらゆることを疑っていき、最後に今疑っている自分自身は疑いえない(これを疑うと、他すべてへの疑いがなくなるため)。教科書に書かれているこの説明(授業を受ける前に予習で先読みしていたのだが)を読み、「なるほど!」と感動したのだった。

 ただし、これをまとめたフレーズには違和感を持った。「我思う、ゆえに我あり」。えっ、ゆえに?思っているまさにその地点で、同時に存在しているのでは?ゆえにって、まるで思考と存在が切り分けられているみたいじゃないか。

 大学は、いろいろあって結局はとある滑り止めの私立大学の文学部哲学科に入学した。学科の新入生歓迎コンパがあり、昔のことゆえ酒を浴びるほど飲んで近くに住んでいる先輩の下宿で一晩を過ごすこととなった。

 そこでその先輩から、「星はあるから見えるのか、見えるからあるのか?」という問いを投げかけられた。いくら昔でも、こんな哲学的な話は通常しないだろう。おそらくは、新入生を試してやろうといった、先輩による「可愛がり」の一種だ。

 私はしばらく考えて、「あるから見えるのだと思います」といった。するとその先輩は自分の考えを言わず、「あるから見えるというのが唯物論で、見えるからあるというのが観念論だ」と言った。ヘーゲル的な見解だろう。実際その人はヘーゲル研究をしていた。

 私はその後何度かこの時の話を考えている。そして、ポイントはやはり「から」ではないかという結論に至った。星があるということと、見えるということを「から」で分けるのは、誤解を生みかねない机上の空論だ。現実は見えるとあるは重なりあっているのだ。

 その後、夏休みの学生バイトでとあるイベントのブース運営というおいしい仕事にありついた。おいしいというのは、そこには多数の女性コンパニオンがいたからだ。ただしコンパニオンはほぼ性格がきつく、すぐに敬遠してしまった。

 それはともかく、そのアルバイトを始める前に研修があり、朝のワイドショーでレポーターをしている女性のインストラクターからマナーなどを学んだ。そこで、「人は悲しいから泣くのではない。泣くから悲しいのだ」という話を聞いた。

 いわゆるジェームズ=ランゲ説に、この時初めて出会った。その後何度か同じような話を聞いたことがあるので、有名な説なのだろう。ジェームズは、あのプラグマティズムの哲学者のことだろうが、私はこの説を展開している部分を読んだことはない。

 それにしても、ここにも「から」が出てきている。実際には「人は悲しいから泣くのではない。泣くから悲しいのだ」という言い方はされていないかもしれないが、この「から」も誤解を生むだろう。

「から」で結んでしまうと、「泣く」と「悲しい」を別々に分けられるように聞こえてしまう。泣いている人に、「悲しい部分を切り分けてもらえませんか」といってもそれは不可能であろう。

「から」は、2つの事柄を結びつけるには非常に便利な言葉だ。因果性、連続性といった意味を容易に含めることができる。しかし、「から」を安易に使い、通俗的に流通させるのは非常に誤解を生みやすい。私のように、戸惑う人も出るだろう。

「から」ではなく、「すなわち」が現実に近い。「我思う、すなわち我あり」「星が見える、すなわちある」「泣く、すなわち悲しい」これらが真実だ。

 では、なぜ「から」を使うのか?ポイントは「動き」だ。「すなわち」ではただイコールと言っているだけで動きがない。俗にいうと、「エモさ」がないのだ。数学で「から」に相当する「ゆえに」でも⇒を使うように、「から」は方向性と動きが出てエモい。

まあ、正しさよりもエモさが優先されることもある、ということだろう。それこそソフィスト的だが。