時間の風景‐地域の今と過去とこれからを知る‐(静岡県中部)

静岡県内で発行する「地域情報誌coocgane」内の人気コラム「時間の風景」。過去から…

時間の風景‐地域の今と過去とこれからを知る‐(静岡県中部)

静岡県内で発行する「地域情報誌coocgane」内の人気コラム「時間の風景」。過去から現在、そして未来に向けて流れる時間を風景のように書き出したい。私たち地域の歴史や事業が、時間や場所を越えてつながっていく…そんな思いを共有できたら嬉しく思っています。

最近の記事

本の風景「アカシヤの大連」清岡卓行(1970年)

終戦  1945年8月15日終戦。中国全土に暮らしていた日本人の生活は一変した。家を追われ、捕虜収容所に送られた。帰国のめどが立たないまま、劣悪な環境の中、多くの子供や赤子が死んだ。過酷な集団生活は1年に及んだ。  しかしこの時代、「大連」(だいれん)の日本人は比較的自由で、特に土木工学系の仕事に就いていた家族は優遇されていた。そこでは、三年間ではあったが、日本人の子弟向けの「大連日僑学校」も開講されていた。後に「分光学者」として著名な「岡武史」氏は、その学校で「非常に影響

    • 本の風景「チャタレイ夫人の恋人」ロレンス(1928年)

      ペンギンブックス 学生時代に生活していた学生寮は、四人部屋が4室の小さな和やかな寮だった。ある日、同室の先輩が一冊の本を「これ読んだら面白いよ」といって貸してくれた。それはペンギン・ブックスの『LADY CHATTERLEYS  LOVER』だった。英文の文庫の数か所は、繰り返し読んだかのように手垢で黒ずんでいた。僕の手に負える代物ではなかった。その頃、日本語訳『チャタレイ夫人の恋人』は、多くのページが「××××」で隠されていた。彼はその後九州のある大学のドイツ語教授

      • 本の風景「人間失格」太宰治(1948年)

        読書月間   2023年読書月間に「小中高生が読んだ本ランキング」(『読売新聞』10・28)が特集されていた。驚いたことに高校生男子の一位は太宰治の『人間失格』だった。太宰治は高校生を中心に支持を集めたと記されていた。太宰の死以来、彼の作品は。人生に悩む若者たちの永遠のバイブルであり続けているのだった。人気女優の吉永小百合ファンが「サユリスト」と呼ばれ、現在、村上春樹ファンは「ハルキスト」と呼ばれている。太宰治ファンは「ダザイスト」と呼ばれた。彼らは決まって長髪で、一見自堕

        • 本の風景「老人と海」ヘミングウエイ(1952年)

          老人  ある時期まで「老人」とは遠い存在だった。50歳の時、「50年」の数字に驚いた。60歳になったとき「老い」が言葉から身体に染みてきた。70歳になった時、遂に「老人」の仲間になった。しかし「75歳」の時に役所から送付された、あの「後期高齢者」保険証には愕然とした。思えば、友人たちの訃報がしばしば舞い込み、時間が止めどもなく早く過ぎていく。 老人と海  「彼は年をとっていた」。老人の名はサンチャゴ。老人の船が84日間も魚を捕れなかった。85日目の朝も、老人は一人で漁に

        本の風景「アカシヤの大連」清岡卓行(1970年)

          本の風景「モオツァルト」小林秀雄(1946年)

          批評家の表情  「小林秀雄」(1902~1983年)の講演を聞いたことがある。題目や講演内容は忘れてしまったが、酔っぱらって電車(汽車?)に乗り、客席の間を走りながら小便を流し、最後にデッキで放出した、その解放感を熱心に喋っていたのを思い出す。聴衆は真剣に聞いていて、彼のそのいたずらっぽい表情は忘れられない。 過日、新聞に『小林秀雄 没後40年』の記事が、「日本精神史の代表格」との副題をつけて掲載されていた(『読売』2023・7・18)。あの講演が、実に半世紀以上も前だったこ

          本の風景「モオツァルト」小林秀雄(1946年)

          本の風景「実存主義とは何か」サルトル(1940年)

          ジツゾール  「ジツゾールしてる?」「今日はとてもジツゾールできないな」こんな会話を交わした日々があった。「元気?」程度の意味だったが、「実存してる」を日常化する、その会話が秘かにカッコよかった。実存は青春の重要な断片だった。  1966年9月、ジャン、ポール・サルトルがパートナーのボーヴォワールを伴って来日した。「実存が第二の性を連れてきた」と、日本中が湧きたった。 実存主義とは何か   サルトル(1905~1980年)は語る。「実存は本質に先立つ」と。ペーパーナイフ

          本の風景「実存主義とは何か」サルトル(1940年)

          本の風景「個人的な体験」大江健三郎(1964年) 

          神話のはじまり  大江健三郎(1935~2023年)が旅立った。88歳だった。四国の谷間の村に生まれ、東亰大学時代に『飼育』(1958)で芥川賞を受賞。そして、文学的にも政治的、社会的にも戦後世代としての発言を強めていった。25歳で結婚。長男の誕生(1963年)。ここから大江文学の「神話」がはじまる。 現物  「まず、現物をみますか」・・・。「バード」というまだあだ名で呼ばれる主人公の初めての子供だった。「外観見たところ頭がふたつあるように見えますよ」。赤んぼうは「巨大な

          本の風景「個人的な体験」大江健三郎(1964年) 

          本の風景 『赤と黒』スタンダール(1830年刊)

                電車で  ある日電車の中で、一人の若者が文庫本を床に落とした。眠ってしまったらしい。一瞬、文庫本のタイトルが目に入った。『赤と黒』だった。その瞬間「ジュリアン・ソレルとマチルダ」の名前が浮んだ、それは、半世紀以上も前に読んだ小説だった。今読んでいる小説の主人公すらなかなか覚えられない昨今、それは衝撃的な瞬間だった。マチルダがジュリアンの首を抱くシーンが浮かんできた。  その頃、中央公論社から赤い表紙の『世界文学全集』が出版された。それを片手に、電車で通学した。幼

          本の風景 『赤と黒』スタンダール(1830年刊)

          僕の『時間の風景』

          アウシュビッツ 「死だった。大人達がひそひそ囁き交わしていた秘密はセックスについてではなく、死についてだった。ルート・クリューガーは記す。彼女は1942年10歳の時、オーストリアの自宅からナチ強制収容所に連行された。アウシュビッツをはじめ三カ所の収容所に移され、脱走に成功したのは13歳の時だった。終戦後アメリカに渡り、ホロコーストについて問い続け、十数年の後、アウシュビッツを訪れる。そこで彼女が見たものは「修復をほどこした過去の恐怖の残りのような展示」「感じやすい同時代人は、

          「蝶蝶は歌う 三浦環」おはなし

          父と娘  牧之原市平田寺に、三浦環(たまき)をモデルにしたNHKの連ドラ「エール」の記念の歌碑がある。歌碑には『聲(せい)―鶯(うぐいす)は西や東へ舞ひつれどやはり嬉しき故郷の梅』と印されている。環は明治十七(1884)年、父猛甫(もうほ)と母登波(とわ)との間に東京芝で生まれた。父猛甫は、駿東郡下朝比奈村(御前崎市)で造り酒屋を経営していた。明治十四年上京、明治法律学校(明治大学)に入学し、卒業と共に、当時日本での最初の公証人試験にパスする。女性関係は絶えず、郷里の女性に5

          タヌキの存在証明

          悪役狸(たぬき) 人々は日常生活の異変を「狐狸の仕業」と呼んできた。中国には「狐狸」という妖怪が棲んでいた。日本では「キツネ」と「タヌキ」となった。同じ妖怪でありながら、稲荷様にも祀られるキツネと比べるとタヌキは分が悪い。   波津(牧之原市)に宝泉寺という寺があった。長らく無住の寺で荒れていたが、夜中になるとチラチラと灯火が漏れ、大きな物音がする。そのため村人は近付かなかった。ある日、旅の侍がこの寺に泊まった。夜中、ランランと燃える眼の武者が現われた。侍は手元の弓を引き絞

          「空海と弘法大師その非俗と俗」のおはなし

          弘法大師の井戸  平安の頃、一人のみすぼらしい僧が、その旅の途次、咽喉の渇きを覚えて一軒の農家に一杯の水を乞うた。しかしその乞食の風体に断られる。やむなく歩き続けるが渇きに耐えかね、そこに見た農家に水を求めた。その家の年老いた婦人は旅の僧を快く迎え入れ、遠くの谷川から水を汲んで来て旅の僧に与えた。僧はその冷たい水に渇きを潤した。そして、飲み終わって言った。「私が良い井戸を造ってあげよう」と。その僧はあたりを歩いて杖を立て、「ここを掘るように」と言い残し、旅立った。婦人は不審

          「神々のざわめき」のおはなし

          原の権現さん かつて牧之原台地(島田市)に「原の権現さん」があった。この権現さんは今井信郎ら帰農士族らの尽力によって建立されたのだが、逸話が残る。久能山東照宮にあった二体の「家康像」のうち一体を牧之原の士族たちの郷社にしようと、今井は資金援助を勝海舟に訪ねた。「その木像を祀ると何かになるのかぇ」勝は言った。「東照宮様の御恩に報い奉る一心」と答える今井に、勝は「ソンナ事なら、おれは真平御免だよ」と答えた。今井は火の如く怒って帰った(『海舟座談』)、と伝えられる。こうして家康を祀

          「魔女伝聞」のおはなし

          悪たればんばあ 大井川流域の寸又川山腹に『悪たればんばあ』という山賊がいた。多くの手下どもを従え、「長い髪を振り乱し、吊り上がった目でにらみつけ」、村々を襲った。収穫の時期には作物はごっそりと奪われた。抵抗する村は皆殺しにあった。収穫物を奪われ、追いつめられた村人たちは、団結して闘うことにしたが、戦いの勝ち目は薄かった。勝ち誇った山賊たちが酒宴の後眠りこけた隙に、村の若者が山賊たちの弓の弦を切った。そして必死の総攻撃、慌てた山賊たちが散りじりになるなか村人たちは、悪たればんば

          「美肌地蔵様」のおはなし

          美肌地蔵ここに  島田駅北口広場を通り過ぎ、サンカク公園の斜め向かいのビルに、黄檗宗寿真庵がある。そしてそのビルの谷間の小さな広場に「美肌地蔵様」がおわす。寿真庵の創建は元禄時代に遡り、三百年以上の時を経る古刹であるが、昭和五五年の土地区画整理事業で、現在のビルに移転した。  その昔、寿真庵がサンカク公園にあった頃、美肌地蔵は境内に置かれていた。そのころから「多くの娘さんがお参りする姿」が見られ、また、「子どものできものが治るようにと熱心にお参りを続けた人」も多く、お参りの

          「消えた映画館」のおはなし

          ときめきの看板  それは密かな楽しみだった。友人宅へ向かう五丁目(島田市)の街かどの、信号待ちに見る映画の看板だった。極彩色で、女性の白い肌に、「情事…」「人妻の…」等々の文字が並んでいた。無論、映画館に入る勇気は無かった。ただ密かなときめきであった。ある日その「ときめきの看板」が忽然と消えた。区画整理事業によって街並みは一新され、その交差点の街かどにはジャスコショッピングビルなど高層ビルが建った。(今はそのジャスコも消えた。)町中のどこを探してもあの看板を見ることは無くなっ