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北大路魯山人1


フランスの美食家といえば、ブリア・サヴァラン。日本の美食家といえば、北大路魯山人ではないでしょうか。その伊吹を感じられる「星岡茶寮」最後の料理長松浦沖太さんが書き残してくださった。『魯山人 味は人なりこころなり』日本テレビ出版をご紹介しましょう。
魯山人本人とのエピソードが生き生きと描かれています。ほんの一部ですが
こころがブラッシングされていく感じです。是非お読みになってほしいです。今回は少し長くなって申し訳ありません。魯山人についてはもっと紹介したいとおもっているので、1としました。

 庖丁の切り口一つにも人間が出る。
 「陶器に限らず、絵でも字でも、また料理でも同じことでありますが、
例えば庖丁をもって魚を切る。すると、その切った線ひとつで、料理が生きもし、死にもする。気の利いた人がやると、気の利いた線が庖丁の跡に現れ、俗物がやると俗悪な線が残る。これは単に、刺身包丁が切れるとか切れないとかいうことでもなければ、腕がよいとか悪いとかいうものでもありません。それは、その”人”の問題であります。
 要するに上品な人がやれば、上品な線になり、上品な姿を現します。書などでは、これがことにはっきりと分かるものでありますが、料理でも同様であります。私などそれで非常に苦しみます。自分が本格に修養していないと、いくら職人的に熟達したところで本格のものはできないからであります。これは要するに、書でも絵でも陶器でも料理でも、結局そこに出現するものは、作者の姿であり、善かれ悪しかれ、自分というものが出るのであります。」

※作ったものは、その人の味が出るもの。同じレシピでも同じ味には絶対ならないのです。JIN

 「そこで、美味い料理を作る条件といたしましては、肉類でも魚類でも野菜類でも 酢、醤油でも塩、砂糖でも、材料の良質なものを選ぶが第一でありまして、次に料理法の概念を養うこと、第三に食器で極端な例を申しますと、例えばいかにうまいライスカレーでありましても、薄汚い椀にでも入っておりますならば、味覚食味を考えるいとまもなく、感情的にもうたくさんだという気持ちになるようなものであります。
でありますから、食器を吟味いたしますことは、決してぜいたくではないのであります。
 その人々の経済状態に従いまして食器を選ぶことは、目をよろこばせること、食欲をよりよく刺激しますことにおいて、趣味の満足ができますところ、むしろ、必要なことと考えるのであります。食器の適当なものも、飲食を美味にする働きをもっておりますが、まだそのほかに座敷のよいのも、環境・景色のよいのも、食事相手のよいのも、一家団欒の平和な会食も、酒ならばお酌する人のよいのも、いずれも皆、ものをうまく頂ける働きをなすものでありますから、味覚栄養に重きを置く人々は、この辺の注意を等閑にすることはできないのであります。
 これらのことは、ちょうど婦人の衣服、化粧、髪飾りのようなものでありまして、いかに、美人であるからと言って、身も振り構わずにはおられませんと同様のものでありまして、食物もうまく食べるには、相当の身づくろいや、周囲の環境を注意する必要があるのであります。

※すべては、こころのもちようなどと言うけれど、こころは環境や人や、言葉などから影響を与えあって、受け合っているから、純粋なこころをみんなが持ちあえればいいのだけれど、赤ちゃんは言葉を知らないから、自己主張を一生懸命するけれど、言葉では傷つかない。表情や暴力は別だけどね。
 マナーという、礼儀は人間関係の距離と共通認識になっているなら、お互いにこころを傷つけないルールになる。そうやってきたけど、知らない人も増えてきた。だから人間関係の距離を現代は少し広くとった方がいいと思うし、デジタルコミュ二ケーションのチカラを借りながら、関係が破綻しないようにしてほしい。時代の価値観の違いや好みの違いがあっても、自分の意見として、絶対ではない。しかし人間関係のコアな部分は変わらないのだから。思いやる気持ちの関係があってこそ。年賀状、年始の挨拶がメールやTV電話などのオンラインになっても。JIN

 よく人によりまして、容れ物(いれもの)を食うんじゃないとか、座敷で腹を張らすんじゃないとか言うムキもありますが、まことに一を知って二を知らざる言葉のように存じます。しかしながら、割烹をいたします場合において、一番なによりも肝心なことは、真心を籠めることであります。親切の塊であるところの真心を籠めますことは、
自分の見識となりまして、ひとり料理の場合にかぎりませんが、割烹の場合にも、この心を籠めねばならぬということが秘術であり、要訣であるのであります。

 彼の有名な越後の高僧良寛禅師は、殊に料理屋の料理と書家の書、歌人の歌は嫌いだと申されました。これは営利本位、すなわち商売的に製作されましたものは、料理にいたしましても、書にいたしましても、歌にいたしましても、おのずから客観的にできておりまして、主観的作品であらねばならぬはずのものが、主観的には、なにものも尚ぶものが内容に含まれていない、すなわち、芸術的な良心がないところの死作品は無価値であると、良寛禅師が一言をもって喝破されたのであります。
 むべなるかな、私どもから見ましても、料理屋の料理や書家の書は、否定せざらんと欲するも否定せざるを得ないのでありまして、良寛禅師の喝破されました言葉を推服いたしますと同時に、まったく共鳴を感ずる次第であります。
 昔、漢の時代に陸積(りきせき)という人がおりまして、あるとき牢獄に投ぜられたことがありました。そのときのこと、陸積が今で言う差し入れの弁当が届けられた中の一つを見まして、
 「この弁当は自分の慈母が差し入れてくれたものに違いない」と言って、うまがって食べておりましたので、役人がいぶかりまして、なぜにお母さんがこしらえたということが解るのかと訊ねますと、肉の切り方と言い、煮方と言い、ごはんのできあんばいと言い、お母さんでなければ、このように真心の籠もった親切な料理はできないはずであるからである-と答えたのであります。後で役人が調べますと、果して陸積の母が作ったことが判りました。
 新婚早々の際、花嫁が作ってくれる料理は、新婚はもちろん、親族のものもうまいと舌に感ずるご馳走ができるのであります。実に真心の結晶が入っているからであり、双方が至純でありますから、少々大げさな物言いになりますが、芸術的感応とでも申すべきものがありまして、粗末といえども、美食としての生命が存するのであります。

都会で口がぜいたくになっております者でも、田舎に帰りました折り、帰省を心から待っていてくれた純な里人がこしらえてくれた芋の煮ころがし、真黒な餡餅でさえうまいのは、実に精神的にできている賜物にほかならないのであります。
 この真心の所有者に加えるに、よい材料を与え、その上に料理の法を教えますときにおいては、鬼に金棒となりまして、ここに初めて芸術的作品ができ上がりまして割烹の権威となるのであります。来客を迎えて、なにか近くで丼飯でも取れなんて面倒がるようでは、到底問題にならんのであります。また、料理が上手でありましても芸術作欲の良心がマヒしておりましては、結局、料理屋の料理に堕するのでありまして職人の賃仕事に陥るのであります。

 美術で申しますと、せいぜい工芸美術品でありまして、純正芸術とはならないのであります。従って人に感激を与える神力がないのであります。
 このような次第で、作家すなわち作る人間の心がけ一つで、料理も芸術と言い得られるのであります。現に私の体験に徴しましても、同じ鰹節と同じ昆布と同じ味噌とを用いましても、七輪を並べて味噌汁を作りましても、結果においては、うまいまずいができるのであります。」
 
 
「弱冠二十二歳で星岡の料理主任というのだから、珍しいことだ。だがこれが、果して良い事か悪いことか、それは別だ。それが果して幸福なのか、不幸なのか、それは今後の問題だ。少なくとも、俺は料理主任になったなどと思ったら駄目だね。料理人になるかならぬかはこれからのことなんだ。ただそのチャンスを与えてあるんだよ。
 人間なんて修行をするのも同じだが、松浦は味覚を磨いていくんだね。平凡なことを言うようだが、慢心しないことだ。人間はどこまで行っても先がある。これでいいと悟ったつもりでも、また、それがいけないという時が来る。そういうときにまた別の悟りが出ないといかん。ところがややもすると君らの年輩では、いい気になりがちなものだ。こんな事を口で言ったって分かる時が来なければ分からんのだが、そういう点がこれから先一番大事な問題なんだ。
 いいかね。料理は悟ることだよ。こしらえることではないんだ。名人の料理人というのはこれなんだね。結局人間の問題なんだ」
 
 [松浦沖太]
 先生のこの言葉は今この年になって本当に実感することができるのです。
 探求すればするほど日暮れて道遠しの感があり、今更のように知らぬことの多いのに驚き、「生涯」かかってもなお、知り得ぬことが多く残るだろうと思います。
 それだけにまた、探求の楽しさはたとえようもなく、私を励ましてくれるのです。

 あとがき
 いわゆる職人さんというのは頑固一徹、融通が利かないというイメージがあるようですが、私の経験から言えば、一流の職人にはそんなところはありません。
 いわゆる職人臭さがないんです。一人前になると肩で風を切って歩くとか、言葉づかいから髪形まで変わる、それが職人臭さというものだと思います。
  本物の職人にはそんなところはありません。また、頑固一徹な方は頑固一徹に見せて、他人を圧していく、そういう人は意外と思われるかもしれませんが、腕のほうは利かない人が多いようです。
  将来うんと伸びる人は、素直な人、謙虚な人。陰にこもるような人は腕のほうも上達しない人が多いようです。平凡な言葉かもしれませんが、常に努力しながら前向きに積極的に生きること、このことが一番大切なような気がします。料理人のこころが料理に反映されるように、その人のこころ・意志が人生をも支配するのではないでしょうか…。

※※感動しますよね。なによりこころが洗われる。柔よく剛を制す。
  体裁を整えるということは一般には大事なことではあるけれど、
  権威や肩書は、目的ではなく後から他人が判断するだけ、自分のこころ
  だけに集中して、こころを作っていくことです。
食べ物を皿にのせるのであって、意味なく食べもしないものを置かないこと。食べる人を思いやるこころです。
また、家庭生活においても、民藝の柳宗悦先生の「用の美」を思い出します。大切だからと使わないものじゃなくて、使ってこそ意味と美がある。
それは、使う物に対しても、思いやるこころです。
いつもこのような気持ちを忘れないように精進したいと思います。JIN

  画像の金目鯛の煮付けは勝手なイメージで載せてます。すみません。


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