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紙の本だからわかること、電子化された資料だからわかること


はじめに

 どちらかというと本の活字にお世話になってきた世代。長年にわたり書物から栄養をすいとり生きてきたのかもしれない。もちろんどうにかこうにかまがりなりにもパソコンをつかえるし電子化された文章を利用する。

両者をつかいくらべ、すこしだけ気づいたことをあげてみる。

きょうはそんな話。

ひさびさ図書館へ

 ひっこしの混乱でみつからないでいたもちものが、このところ意外な場所からちょくちょく顔をだす。

いっしょに移転先につれてきたはずが、もとの家に置きっぱなしだったことも。図書館利用カードもそう。ようやく見つけたので利用しようと思い至った。移ったさきのマンションは、この車でよくおとずれていた施設の目と鼻のさきと気づいた。じつにあるいてすぐの近所だとごく最近知った。これもたびたびの散歩のおかげ。

利用カードをつくったのはおそらく20年以上まえ。12,3年ほど借りていない。現在ではシステムがちがうかもしれない。いや、きっとべつのやりかたのはずと、念のためこのカードとともに運転免許証をたずさえてむかった。

本を借りる

 図書館の受付にむかうと案の定、カードが古いので本人確認からとなった。ついでに住所がかわったので、そのてつづきにはいり、案の定運転免許証を所望された。もってきてよかった。あとはすんなりてつづきが済み、本を借りれる状態に。

そこでひさしぶりに小川洋子さんの小説2冊と家の法律関係の本の計3冊を借りる。ここはけっこう利用者が多く密なので館内では開かずにリュックに入れてもちかえる。5分たらずで家へたどりつく。

活字をみると

 やっぱり紙の本はちがう。このところどちらかというとパソコンをひらいてネット上で文字を追う。紙の活字を借りてまでふれるのはひさしぶりといっていい。ここ十数年で新聞をやめ、テレビを見なくなり、定期購入する雑誌などもなくなった。

書棚6つほどの書物の多くは売りに出したり、しかるべきところへ寄付したり、ヒトにゆずったり。ほんのカラーボックスふたつぶんだけもちこんだだけ。それも学習サポートで生徒におしえるために必要な本やテキストがほとんど。新刊の書物はまず手にしない。どうしても必要ならば中古で買う。

借りてきた本をひらく。やっぱり本の活字は独特。いま読みすすめている位置が記述のどのくらいにあるのか一目瞭然。目次にもどったり、あとがきや作者紹介のところをふりかえったり自由。

電子化されたものは

 一方、電子化された文章はそれはそれでつかいみちがある。使われた用語の検索をctrl+Fなどのコマンドで一目瞭然。どのあたりでどの頻度でつかわれているかよくわかるし。その位置をさがしだすのはかんたん。そのまま音声にだしたり、翻訳アプリを併用したりも容易。これまでできなかった、やりにくかったことがさまざまできるようになった。

紙の本とのちがいはいま読みすすめているのがどのあたりかつかみづらいこと。付箋やしおりをつけたり確認をしたりが容易でないこと。書物の中身より操作法に思考が分散してしまう。一般的なノートパソコンの画面は横位置なので、縦書きの形式の場合は上下が画面から切れて読みづらい。

おわりに

 ほんとうはどちらもつかえるといいのだろう。図書館や古本屋の本はどれほどのヒトに読まれてきたかが紙のほころびぐらい、やわらかくなりぐあいでよくわかる。これはさすがにいつもまっさらの電子化された書籍にはないところ。

どこを熱心に読んだのか、気になったのかそれぞれのページへの時間の蓄積がかんじられる。とくに辞書はそう。つかえばつかうほど紙がめくりやすくなりつかいごこちがよくなる。

いまだ電子化されていない本のほうが多いし、網羅されていない。古い書物を所望するならば古書店か図書館の書庫にむかうほうが早い。わたしはおそらく新旧でいうと古いもの好きの部類かもしれない。

なんでも使い古しでかまわないほうだし、むしろあじがあっていいと思うほう。本だって新刊でなくていいし、流行のものには興味がむかわない。ベストセラーは十数年たてばその真価を判断できると勝手に思いこんでいるし、じっさいのところ古書でパラパラめくるぐらい。その意味ではすでに「化石」の部類かもしれない。


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