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表現は迂回する-文字数の消失と無常の風

これからの時代、文字数というものの意味が薄くなっていく。

書きたい内容を10文字で書いて、ChatGPTに「これを2,000文字で表現して」と言えば2,000文字で出てくる。逆も然りで、1万字で書いた内容を任意の文字数に圧縮するのに30秒もかからない。

あらゆる情報が、10文字でも1万字でも即時に表現し直される。しかもそれが結構読めちゃうのだ。文字数は伸縮自在で、分量の多い少ないは、さしたる意味を持たなくなる。同じ情報であれば、当然すくない文字数で伝わるほうが効率が良いので、文字数には減少への圧力がより働くようになるし、現在社会のいたる所に埋め込まれている「◯文字以上で記述せよ」という指示はこれまで以上に白けた空気で、虚ろに響いていくだろう。

これまでであれば、書き手がまず核となる内容を箇条書き3行で書き、それを努力して1冊の本へと膨らませて読者のもとへ届けていた。読者はそれを努力して始めから終わりまで読む。

これからは、始めの箇条書き3行はテクノロジーの力で一瞬にして1冊の本へと変換される。それを今度は読者のほうが、箇条書き3行へと苦もなく要約し、摂取する。

ChatGPTに聖書の要約をしてもらう

3行で生まれ、3行で消える。伝達される情報の端と端は全く同じフォーマットなので、これを仲介するテクノロジーはそもそも不要なんじゃないかとも思う。たぶんこれまでも、不要だったんだと思う。コヘレト書が始めから短歌で詠まれていたら良かったのに。

ビジネスでのプレゼン資料とかも、内容そのものを端的に表現することを離れて、相手への配慮や儀式的な側面が表現として積み重なっていき、最終的に何十ページに膨らむことが多い。そうしたものをぜんぶ端折って、なんの気兼ねもせずに3行で送って3行で受け取る。さすがに取引相手に3行だけで送るのは失礼かなとなっていたものが、どうせ自動で最後に3行になるなら始めから3行でいいや、となる。

そりゃあ本当に伝達すべき情報が箇条書きで100行分あるようなものもある。でもそういうものは稀だ。それにしたって、平文5万文字で手渡されるよりも箇条書き100行で手渡される方がマシなのだ。

流行りの本の要約サービスなんかは、来る今日を準備するものだったんだろう。読み手が本を消費するスタイルや文化として、或いはもっと直接的に、件の要約テクノロジーが提供する要約パワーの元のデータとして。

あらゆる体裁が消え、本音の時代へ。これでいいじゃないか。世界はもっとずっと効率的になる。情報は高速で頭上を飛び交い、その分ぼくらが寝ていられる時間が増える。


しかし、文字数を巡る話はこれに尽きない。

シグナル/ノイズ比(S/N比)というものがある。もとは音響学とか制御工学とかでよく使われる概念で、伝達される信号のなかでノイズが入っている割合が多いと質の低い信号、少ないと質の高い信号として、品質の評価や改善のための指針とするものである。これは高ければ高いほどよい。

だが情報デザイン分野では、勝手が少し違っている。情報デザインとは、主に人間同士のメディアを介したコミュニケーションにおいて、どのような表現を行えば内容が適切に伝達されるかを考える実践学の領域である。インフォグラフィックというのを目にしたことのある読者は多いと思う。ああいうのもその表現の一例である。

情報デザインにおいては、SN比は適切なバランスを保つべきものとされている。例えばパワポのスライド。過度な装飾や不要な情報をゴテゴテに盛り付けるのは当然NGなんだけれど、それとは逆に、なんと必要な情報だけを端的に記述して伝えようとするのもNGとされる。聴衆の興味を掻き立て、視線を誘導し、感情的なインパクトを与えるには、箇条書き3行だけのテキストオンリーなスライドでは不足である。シグナルだけでは、足りないのだ。

より有機的で機能的な表現は、効果的なノイズを含む。大きく空けられた余白は、情報の観点から見ればノイズである。しかしスライド上の大きくシンプルなメッセージを最大限に強調し、目に親しく、機能的である。かっこいいフォントや文字サイズ、文字色などは、情報伝達の観点から見ればノイズである。しかしそうした装飾がまったくなされていないスライドを見るのは、耐え難い苦痛である。つまり良い表現とは、一定程度のノイズを含むものである。

「空」は完全な「無」と概念的に混同されやすいが、実際には無限の可能性を蔵している。

鈴木大拙


またひとつ、洋の東西を問わず、人は古くからレトリックという表現手法を使い続けてきた。鴨長明『方丈記』の冒頭を見てみよう。

行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し。

『方丈記』鴨長明

川の水の複雑な流れになぞらえて、世人が翻弄される無常のイメージが一瞬にして読者の脳内で立ち上がる美しい書き出しは、要約するとすべて消えてしまう。「・人生や家財は変化し続けます」とだけ書かれた文章は、果たしてわれわれ読者に効率的な学びを提供していると言えるだろうか。


またひとつ、文脈主義というものがある。意味は、つねに必ず、個々の脈絡の中でのみ理解されうるという立場である。しかし文字数が足らないので、このへんで。


こう見ると、「情報」という概念の難しさ―また本稿での使い方の淡白さ―と、「意味」の内包-外延の緊張関係の豊かさとが、際立ってくるように感じる。

虚しさ知る
コヘレトの言葉
意味探し
人生の風
過ぎ去る瞬間

ChatGPT(GPT-4)


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