見出し画像

汚れつちまつた悲しみに

気づけば記事投稿が2ヶ月ほど空いてしまっていて愕然とした。

その間、なにしてたんだっけ?

思い返しても、特別忙しかったとか、大きなトラブルに見舞われたとかがあるわけでもなく。

つまり、ごくごく普通にいつもどおりの日々を暮らし、本を読み、まとめ、あれこれ考えごとをしていただけではあるのだ。


でも困った。

これはあらゆる人の人生のどの任意の2ヶ月を切り取ったとしても言えることだと思うけど、2ヶ月前の自分といま現在の自分とでは、その中身がかなりの部分で異なっているはずだ。

自分自身の実感としても、2ヶ月前のものごとの捉え方と、いまのそれとではかなりの違いがありそうだ。

世間を眺める視点だったり、真理探求への構えだったり、世界の空気をじっさいに感じるときの肌理だったりが、ぜんぜん変わっているのだ。

現に、われわれ人間の身体を構成する分子のある程度は、この2ヶ月で古いものから新しいものへと交換されているはずだ。

生化学的には、というより、物理主義的な唯物論の立場から見れば、2ヶ月前の「わたし」と、いまの「わたし」は、まったくもって同じ「わたし」ではないことになる。


この間に、多少なり記事投稿がなされていれば事態はまだマシと言えた。日々の経験の流れを記憶へと不断に統合していく再帰的な自己関係の過程で、連続的で同一的な自分自身がもうちょっと保てたはずだからだ。

よくテレビのクイズ番組でやってる、写真の一部が徐々に変わっていくけどわかるかな?という問題。あれも、細かく静止画を入れ込んでいけば同じ写真と見紛うけれど、間の枚数が少ないとすぐに違うものとわかる。フレームレートが低いとカクカクで、高いとなめらか。記事投稿は、自分自身のfpsの設定だ。


すでに投稿されているnote記事が、そしてそれのみが、このアカウント上での自己を構成している場合、この断絶は、つねに嫌悪感を催すものである。

人からどう読まれ、どう見られるかということではなくて、純粋に美学的な観点で。

過去エントリのすべてが、全部なんかちょっと違うなと思えて、それらすべてを新鮮な視点から書き直したいと心底思える。そんな面倒なことは自分は絶対にしないということもまた分かっているし、じゃあ盛大にツイ消しするかといえばそれも嫌だ。

N階の微分方程式をサラリと解いていくようにして、変わっていくことそれ自体が表象だよね、差異の運動だよね、とピュアに処理するのも難しい。差異の運動がなんの、どんな運動なのかも、よく分かっていないのだ。


単一のID/アカウントを礎にして何かを発信するとき、この問題は重大だ。生身の人間の総体よりも、その表象の解釈/修正可能性は大幅に縮減されている。

そう考えると「故人」もほとんどアカウントみたいなものだけど、歴史的に著名な学者はすごい。本を書いて、永遠に紙面の上に固着してしまうこと、それが下手したら数千万人に読まれることを受け入れる勇気。常人には及びもつかないレベルで自らが日々刻々と変わっていったはずなのに、その思索が20年スパンとかで前期-後期と荒く分類され、中期はよくわからないエッセイを幾つか書いただけでしたとか言われながら、別に恥じらいも怒りもせずに静かに墓の下に眠っている。


偉人が受けるプレッシャーには到底及ばないものの、人が生きてなにかを発するとき、この厭気はおのずから付いて回るのだろう。これをスルッと消化してしまうのでなく、なおかつ差異を軽はずみに肯定するのではなく、無期限の延期、無条件の留保への否定性として前に進むことも大事なのかもしれない。

実際これまでも、なんやかんや年に1,2回は投稿が途絶してきたのだった。その都度に自分なりのペースを再定義して書いてきたのだ。

ごく普通の生の営みと倦怠とを、自らの自然の生の周期性として愛せる地肩も今はそれとなくあるのだし、とりま、またぼちぼち書いていこう。

汚れつちまつた悲しみに
今日も小雪の降りかかる
汚れつちまつた悲しみに
今日も風さへ吹きすぎる

汚れつちまつた悲しみは
たとへば狐の革裘かはごろも
汚れつちまつた悲しみは
小雪のかかつてちぢこまる

汚れつちまつた悲しみは
なにのぞむなくねがふなく
汚れつちまつた悲しみは
倦怠けだいのうちに死を夢む

汚れつちまつた悲しみに
いたいたしくも怖気おぢけづき
汚れつちまつた悲しみに
なすところもなく日は暮れる……

中原中也「汚れつちまつた悲しみに」

頂いたサポートは、今後紹介する本の購入代金と、記事作成のやる気のガソリンとして使わせていただきます。