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独学考#3:その理想主義を捨てよ

およそ人がなにか物事に取り組み始めるとき、圧倒的な作品や才能や努力に触れて感動し、それ自体が持つ熱気に当てられて行動を起こすということがあると思う。その熱量が自分に乗り移り、同じように素晴らしいなにかを成し遂げたい、そのために同じように頑張ろうと決意することがあると思う。

自分も、「5万冊の本を読んだ人」とか「図書館に3年寝泊まりして資料編纂した人」とか「毎日20時間ものを書き続けてる人」とかの話を見かけると興奮するし、歴史上の天才達のエピソードも大好きだし、自分もこういうのになりたい!!とかすぐ思ってしまうたちである。

また世間ではよく、大きな夢や志を持てと言われる。自分の可能性を制限するなと諭される。目標を立ててそれに一心不乱に邁進することが大事であると、耳にタコができるぐらい反復される。

なので、熱狂的に理想を追って成功を目指していくべしという主張は、個人が生きていくなかで何事かに取り組む上ではごくごく当たり前のこととして了解されているものだろう。特に、頼まれてもいないのに何らかの道で独学を志す人々は、その定義からしてすでに"意識高い系"であるわけだし(!?)、大抵なにかしら壮大な目標を追っかけているはずである。

なにかを始める動機として、あるいは原体験として、こういう熱気をはらんだ情動はすごく大事なものだ。

そうなのだけど、取り組む対象が複雑で難しく長期に渡る実践が必要なものであればあるほど、この熱量だけではやっていけない。そしてしばしば訪れるこの"熱病"や夢想、そして大きすぎる目標なんかはえてして、学習者にとっての導きの糸としてよりもむしろ、自らの足を絡め取る網の目としてネガティブに働く事が多い。

なぜといえば、突発的な熱気はいちど寝れば3割ほど減衰する(※当社調べ)し、無謀な計画は必然的に遅延を生むし、彼我のあまりの差にメンタルが挫けることが基調となってしまうから。

厄介なのは、すごいものに憧れて奮起したり焦ったりしてしまう心性というのは人間精神のわりと本能レベルの作用であるという点。ネットが無かった昔ならまだしも、昨今のSNSやらなんやらの普及によって世界レベルにすごいものが自分の手元に溢れかえっている。

かなり意識的にこういう類のものから生じる心の動きにブレーキをかけないと、色んなものをその場その場の興味でつまみ食いしては離れ、またつまみ食いして、、、を繰り返して人生が終わりかねない。

より一般的な「継続力」みたいな話に関連しては、以前この理想と現実の取り扱い方の思想的な核心部分から具体的な実践方法まで、『小さな習慣』の書評に事寄せてクソ長記事で言葉を尽くしている。自分のnote記事のなかでは最上位レベルでまともに有益な事を真面目に熱弁している記事なので、参照されたい。

目標と一言でいっても、自身の現実的な制約やリソースを俯瞰的に冷静に評価して設計された目標と、ノリと前のめり感によって出来上がった目標とでは意味合いはもちろん異なる。ただ、いずれにしろ「目標」という事柄の本質として、自身の現状からの意志を持った飛躍を含まざるをえないのは明らかである。

結局、それはある種のロマンティシズムであり(未来の自分に対する)自己陶酔であり、英雄主義の快である。例えるなら、サッカー日本代表が勝ったときに自分が勝ったわけでもないのに日本人であることを誇りに思う心持ちと近い。現実的な生身の自分の諸条件を冷静に見つめたとき、そうした崇高さとは程遠いものを我が身のうちに数多く見出すだろう。

また例えば、「1万時間の法則」と聞くとなんだか夢があってワクワクするが、生存バイアスや擬似相関(第三の因子)の存在に多分に影響されていようし、そんな時間は現実には捻出できないのだし、足元の行動から見ると具体的なようでいて極めて観念的で抽象的な説に過ぎない。

『フランス革命の省察』を著した社会思想家エドマンド・バークは、革命派が主張する理念より、それの帰結に大きな影響を及ぼす、現にいま国家を取り巻いている具体的な状況をこそ省みよと喝破した。また、後のオルテガは革命を「抽象概念が具体的なるものに反旗を翻そうとする」(『大衆の反逆』,岩波文庫)ものとして、それと対置される「歴史的理性」を説いた。

熱に浮かされた全面的革命、崇高な理念による悪しき現実の徹底的打倒という心性は、その後に訪れる単調で反復的な日常的国家運営の日々を歩みぬくことが出来ない。急進主義や革新思想は、長期的で継続的な行動実践とは真逆にあるものなのである。

そもそも、よくエピソードに挙がるような狂気的な実践ができる人は、ある意味でギフテッドと言ってよい。言い方は悪いが、完璧に"憑かれている"。大体「物心ついて気がついたら博士課程いたわ」みたいな具合いである。

自分の周囲でも何人か思い浮かぶけれど、一番最初に衝撃を受けたのは学部の同級生の1人。外目にはごくフツーの爽やかイケメンなんだけど、家に遊びに行ったら物理化学の教科書が授業で指定の『アトキンス物理化学』だけじゃなく市販されてる外人名の教科書シリーズが全て揃っていて、本棚を一段丸々埋めていて驚いた。ムーア、マッカリーサイモン、etc…内容はめちゃくちゃ重複してるだろうし、講義でも使わない、それぞれが上下巻で分厚いやつが10冊以上、新書で買ったら総額5万はゆうに超えるものを、である。ものすごく地頭がいいとか才気溢れるってタイプでは無かったけれど、そいつは物理化学をひたすらやり続け、成績はずっとトップクラス。そして今は大手化学会社で研究者をしている。

傍目からはなぜその対象にそこまで執着するのか全然わからず必然性も感じられないのだが、興味を持つとか目標設定して行動計画を立てて関心を維持して、、、みたいなのは一切なしに、彼の実存としてそれに取り組まざるをえない人たちなのだ。よく「努力する才能」とか言うけれど、この場合には努力という言葉すらそぐわない。彼らにとっては、そうすること自体が、生きているということなのである。生きる前提が端からぜんぜん異なっている。

残念ながら(?)世の中の99%はそうではないし、そうでない側の人間にとって自分がそのタイプではないことは少し反省を加えれば容易にわかるだろう。勉強法を主題として云々しようとしている時点で、筆者もそっち側の人間ではない。取り組む方法の効率性なんぞは、そうした人たちからすればあくまで二次的なことである。

こういう人たちを見ているとついつい憧れてはしまうけれど、自分と比較して「かっこいい・・・自分も頑張ろう!」と思うのは単なるカテゴリー錯誤である。自分と物理化学のアイツとは別のレールを走っていて、そもそもが比較対象ではないのである。

なので、自分のこれまでの人生を歴史的理性によって省みて、余計な革命的精神は打ち消しながら現実的に一歩ずつ進んでいくという心構えを、学習者は持たなければならない。その熱気は独学の道を歩むものの心を幾度となく捉えようとするだろうが、そのたびごとに振り払うのである。その情動はたとえ自然本性に即したものだとしても、出口がないものなのだから。

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