短編小説「追憶のマーメイド」

 鬱蒼とした森の中に、春の日差しが降り注いでいた。

 木漏れ日を全身に浴びながら林道を進む。足を踏み出す度に、土

の匂いがたちのぼる。空気にさえ、味があるのではないかと思うほど、

濃縮された自然の息吹に全身を包まれている感じがした。

 中之原町に引っ越しをしてから十日あまりが経った。かつて東京で

暮らしたこともあったが、やはり自分には「適度な田舎」が合っている

のだなと実感している。

 大学を卒業してすぐに入社した印刷会社は、不況のあおりを見事

に受け、三年で倒産した。何のツテもコネもない自分が、さほど時間

を空けることなく再就職出来たのは、単に運がよかっただけだろう。

 仕事は、中堅事務機器メーカーの保守営業だ。リース契約をしてい

るオフィスをまわり、備品や消耗品の交換、保守修理、新商品の営業

などを行う。楽しくもないが、特別大変な訳でもない。仕事を生活に

必要なお金を得るためのルーチンワークだと考えれば、悪い仕事で

はなかった。

 「香川さんって、休みの日は何してる人?」

 昨日の夕方、オフィスで机を並べる経理の長野に訊かれた。彼女

は見た目こそ女性ファッション誌から飛び出して来たようなギャルだ

が、実に仕事の出来る女だ。

 「ええと、本を読んだりとか、映画を観たりとか」

 嘘ではないが、当たり障りのない答えを口にしたのは自覚している。

さすがに、知り合って数週間程度の同僚に「私、小説を書いていま

す」と告白する勇気はない。

 「どんなジャンルの映画?」

 「うーん。ファンタジーとか、ホラー系、かな」

 「ふーん」

 彼女は、それっきり何も言わず、紫色に塗られた両手の爪をまじま

じと眺めていた。

 「ホラー好きならさ、あそこに行ってみれば?ニシキ沼」

 向かいのデスクの福島が、書類を書きながら、顔をあげずに言った。

彼は香川の教育係だった。二歳になる一人娘を溺愛していて、ことあ

るごとに携帯で撮った娘の動画を見せたがる以外は、気の良い先輩

だ。

 「ニシキ沼、ですか?」

 「そうそう、中之原が誇る唯一の観光名所」

 「あれって、観光名所なんですか?」

 長野が口を挟む。

 「名所であることは、間違いないだろ」

 「そのニシキ沼っていうのは、何が有名なんです?」

 自分を置き去りにして会話を進める二人を制して、訊ねた。

 福島が書類を書く手を止めて、こちらを見た。

 「ああ、自殺だよ。自殺の名所」

 ある条件を満たすと水の色が変わるから「二色沼」、巨大な錦鯉の

主がいるから「錦沼」、村人を襲う二匹の鬼が住んでいたから「二死

鬼沼」など、「ニシキ沼」の由来は諸説ある、らしい。

 中之原町の北西、隣町との町境となっている山田山の中腹に、そ

の沼はある。

 人気のない森の中にたたずむ静かな沼だが、それを見下ろす高

台にある展望台が自殺の名所と化しているらしい。

 展望台から水面までは、およそ二十五メートル。沼の底には、粘着

質の泥が数メートルの高さで堆積しているため、勢いよく沼に落ちた

自殺志願者は、頭から泥につっこみ、抜けなくなってしまうそうだ。

 かつては、知る人ぞ知る隠れ自殺スポットだったらしいが、昨今の

大不況や高速道路の開通などで、ニシキ沼を終焉の地に選ぶ者が

急増しているのだという。

 自殺する気など毛頭ない。では、そんな気味の悪い場所に何の用

があるのかと問われれば、「きっかけが欲しい」というのが理由にな

るのかも知れない。

 大学の頃から小説を書き始め、何度か新人賞に応募した。良くて最

終候補の一歩手前という地味な戦績だが、細々と続いている。小説

執筆は、香川にとって、お金のかからない趣味であり、ささやかな夢

といった存在だった。

 応募しようと思っていたホラー系小説の新人賞の締め切りが、一ヶ

月後に迫っていた。未だプロットはおろか、アイデアさえまとまって

いない。正直、あせっていたところに、「ニシキ沼」の話を耳にした。

怪奇スポットに行けば簡単に物語ができあがるなら楽で良いが、今

は現状を少しでも変化させられる「きっかけ」が欲しかった。

 そういう風に言い聞かせて家を出たが、実際のところは机の前で一

向に進まない筆に思い悩むのが嫌だっただけなのかもしれない。

 半分朽ち果てた案内板に書いてあった通り、そこから五分ほどで展

望台に到着した。

 色あせた東屋と木製のベンチが並んでいるだけの簡素な展望台だ。

胸元くらいまでの鉄製の手すりがあり、その先は断崖絶壁だった。

 正直、高いところは苦手だが、腰が引けながらも手すりを握った。

 風もない穏やかな日だ。水面に動きはなく、晴れ渡った空と雲を映

す鏡のようになっている。

 この手すりを乗り越えて、何人もの悩める者が身を投げたのだ。

 香川は霊感の類を、これっぽっちも持ち合わせていなかった。中

学校の修学旅行では、同じ部屋にとまった全員が座敷童を目撃した

と言っていたのに、香川だけは、その後ろ姿すら見られなかった。

 少しだけ勇気を出して、手すりに寄りかかってみる。上半身を折っ

て、首を伸ばし、真下をのぞき込む。

 両足の膝の辺りを、何かに捕まれた。と思った瞬間、香川の体は宙

を舞っていた。 

 何かを考える余地もなく、香川は水面を突き破って沼に落ちた。無

数に生まれた水泡が、香川を包み込むようにして上昇していく。耳鳴

りがして、鼻に水が入った。空気を求めてあえいだら、たらふく水を

飲んだ。

 わき出る涙に目をつむった。ああ、死ぬのかなと思った瞬間、襟首

を捕まれ、ものすごい力で引っ張られた。

 やがて、顔が水面に出た。日差しを真上から浴び、顔をしかめる。

 体は勝手に水の中を進み、やがて岸に上がった。水揚げされたマ

グロのように、引きずられていく。頭が重かった。すべての知覚がぼ

んやりしていて、ひどく眠い。

 「うおーい。生きてるか?」

 遠くで声が聞こえた。野太い男の声だった。

 薄目を開けると、目の前に黒い毛玉があった。だんだんと近づいて

くる。唇に触れようかという間際で、それが「髭面」であることにはたと

気がついた。

 香川は身をよじって転がり、近づいてくる髭面を回避した。勢いそ

のままに立ち上がろうと上体を起こしたが、立ちくらみがして膝をつ

いた。

 「おっ、生き返った」

 髭面は、日焼けした顔にしわを作って笑っていた。見事なM字型

を作っている頭髪とたわしのように堅そうな髭。ぐっしょりと塗れた作

務衣の胸元からは、ちぢれにちぢれた胸毛が飛び出している。体躯

は小さく手足は短いが、がっしりとしていて安定感は抜群だった。

 「いったい、何がどうなってるんですか?」

 香川は絞り出すように言った。声を出すと、胸がつぶされるように

痛んだ。

 「何がって、お前。落ちたのさ、あそこから」

 髭面は、にたにたとした笑みを貼り付けたまま、フランクフルトみた

いな太い指で上を指した。

 指先からずっと上を見ると、岩肌の露出した断崖が空へと続き、そ

の先端に、さきほどまで自分が立っていたはずの展望台が見えた。

今になって、背筋をじわじわと冷たいものが通り過ぎていく。

 「俺、落ちたんですか?」

 「ああ、落ちた。正確に言えば、落とされた」

 「落とされた?誰に?」

 「誰にって、俺に」

 髭面は、今度は太い指で自分の丸い団子鼻を指した。

 香川は、混乱した。髭面の男は、香川が展望台から「落とされた」と

言い、落としたの自分だと言う。それは、いったいどういうことなの

か?

 だが確かに、沼に落ちる直前、自分の足をつかむ、あの毛むくじゃ

らの太い腕を見た記憶がある。

 「な、なんでそんなことするんですか?」

 話して分かるような常識人とも思えなかったが、他に言葉が出てこ

なかった。

 「いいだろ?ちゃんと助けたんだから」

 髭面は飄々と言って、犬のように体をふるわせ、体についた水分を

飛ばした。

 男は全身ずぶ濡れだった。よく考えてみれば、二十五メートルも上

から香川を落とした張本人が、その人間を沼から引っ張りあげられる

訳がない。出来るとしたら、それは「本人も一緒に飛び降りた場合」だ

ろう。

 「あんた、頭、おかしいんじゃないの?」

 一刻も早くこの男から離れないと危険だと、本能が警鐘を鳴らして

いた。香川は周囲を見回して帰り道を探したが、林が広がるばかりで

抜け道すらない。

 正面に向き直ると、すぐそこに髭面が立っていて、しっぽを踏まれ

た猫のように飛び上がった。

 「どうだ、今の気分は?」

 髭面がつぶやいた。

 「は?何言ってんの?」

 「死を間近に感じてこそ、生の重みが理解できるというものだ。お前

の身体と心は、今、生を取り戻した喜びで満ちあふれているはずだ」

 香川は、髭面の発する圧力に押されるように、後ずさった。踵で踏

んだ枯れ枝が、パキンと場違いな軽い音を立てた。  

 「生が欲しいだろ?」

 「いったい、何がしたいんですか?もしかして、健康食品のセール

ス?こんなところで?」

 「売るんじゃない。お前にやろうって言ってるんだ」

 「何をくれるんですか?いりませんよ何にも」

 背中が巨大な岩にぶつかった。髭面の血走った目が、香川を正面

から射ぬいた。

 「お前にくれてやろうと言ってるんだ。永遠の命を」

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