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〇〇菓子店は深夜に待っている・マカロン菓子店

 室外機の音が、遠くで唸りを上げていた。
 この人はその微量の騒音にさえも敏感だ。まぶたを閉じては開け、見えもしない室外機の音の方へ視線を這わせ、動きを止める。ただの室外機の音なのに、それ以外の意味合いを勝手に持たせて、しまいにはのびた下まつげに涙液が溜まり、ゆるやかに老いた肌を湿らせる。

「そんなに、悲しまなくてもいいでしょうに」

 わたしは途方にくれて、目の前の人に言うのだけど、残念ながら聞く耳を持たないみたい。仕方がない。この人は昔からそういうところがある。
 わたしは購入していたお菓子を、テーブルの上に置いた。気を遣って、しずかに、しずかに、そっと、元からそこにあったように、置いた。お店の人が紙箱に入れてくれたから、音が出なくてよかった。袋なら、紙でもビニールでも、がさがさと音がする。きっと、この人は怯えてしまう。

「お菓子、召し上がりませんか。めずらしいマカロンを、買ってきたのだけれど」

 声をかける。やっぱり、この人はわたしの方を向いてはくれない。焦点の合わない目で、窓の遠くや、部屋の端にある机上の写真を眺めている。せっかくの甘いものなのに、困った人。
 この人は、甘いものが大好きだ。和菓子より、きらびやかな洋菓子を好んだ。心の底から大好きなくせに、他人に甘いものが好きなことを知られるのを恥じる人だった。
 だから、お菓子を買いに行くのは、もっぱらわたしの役割。
 おそらく、わたしが洋菓子をそこまで好まないことを、この人は知らない。だって、わたしはこの人の好みに合わせ、いままで、洋菓子だってなに食わぬ顔で平らげてきたのだから。
 長年連れ添ってきても、互いのすべてを知ることはできない。自分以外は他人。そういう言葉がさも当然のように世に横行するのだから、どこの夫婦だって他聞にもれないのではないのだろうか。わたしだって、この人が仕事をしているときの振る舞いを知らない。世間に洋菓子を好むのを隠すように、わたしに対して見せていない部分は、この人だって、どこかしらにあるだろう。だから、似たようなものよね。

「わたし、お茶は入れられないの。あなたの入れた紅茶の方がおいしいのだから、これからは自分で入れてくださいね。冷蔵庫の中に、いつもの茶葉を置いていますから」

 聞こえていないとわかっていても、言葉にして伝える。やはり、返事はない。
 わたしに言われなくても、この人は自分で紅茶くらい入れるだろう。茶葉の種類や、蒸らす時間、湯の温度。すべて、こだわりの強いこの人から、教わったのだから。
 わたしは、お菓子の入った紙箱にふれる。箱のつるりとした感触を確かめたのち、ふたを少しだけずらして開けた。
 薄紅色と梔子色、若草色に唐茶色。
 やわらかな色で彩られたマカロンの生地は、左右で色が互いに異なっている。生地に風味があるので、色の組み合わせによって味が変わるのだと、店員のふくよかなお嬢さんが説明してくれた。
 味が複雑になって混乱しそうに思うのだけど、商品として店頭に出しているのだから、まとまりのある味になってはいるのだろう。きっと、見た目の良さだけではないはず。
 店員さんが、お行儀よくつめてくれたマカロンに、この人はいつ気付いてくれるだろうか。
 台所を見る。まな板は干されていて、お皿は棚で眠りについている。片付いていて、よかった。わたしが倒れたとき、落とした急須は割れてしまったのだろう。見渡すかぎり、見当たらなかった。
 物音を立てないように、わたしはこの人に近づく。
 きっと、このマカロンは左右同じ色や味でも、十分においしいのだと思う。
 でも、たがいちがいであるからこその美味しさや愛らしさだって、あるでしょう?
 わたしとこの人が、洋菓子に対して相違があっても、これまで夫婦としてやってきたように。
 買ってきたマカロンを、この人といっしょに食べたい。洋菓子の甘ったるさには、わたしの舌もいいかげん慣れたの。マカロンくらい、美味しく食べることはできる。話しかけても、この人は終始こんな態度だし、わたしもあまり時間はないのだけれど。
 ね、どうか、気づいて。
 味気ない白布がひかれた机の上にあるのは、わたしだけが写る黒縁の写真と、白木の位牌。そんな白黒の味気ない写真ばかり見ているこの人の視線を、マカロンへ向けるにはどうすればいいの。
 途方にくれたまま、わたしは、この人の横顔を見つめる。全体的に、少し、ちいさくなったように見える。この人も、老いたのだ。わたしも、この人と同じように、これからも、老いることを共有したかった。すうっと通った隆鼻、下がった口唇。まばらな睫毛、目尻の皺。こんなに時間をかけて、老いたこの人の顔を見つめつづけるなんてこと、わたしが生きているうちにしたことあったかしら。
 あ。目が、合った。
 わたしとこの人で、おたがいに見つめ合った。
 こうやって見つめ合っていても、この人の瞳にわたしは映らない。わたしの背後には、テーブルに置いた白い箱がある。この人の見つめる先は、わたしではなく、たがいちがいのマカロンの箱。やっと、お菓子に気づいてくれたのね。嬉しくて、寂しい。

「せっかく買ってきたのだから、召し上がってください」

 死んでしまったわたしの言葉は、生きているこの人には届かない。それでも、話さずにはいられなかった。
 白黒の写真の前から立ち上がり、ぞろぞろとテーブルにつく。この人の方が、わたしよりよっぽどおばけみたい。

「いつ、買ってきたんだ」

「いつかしら。わたしが生きているときかもしれませんし、亡くなったあとかもしれませんね。わたしにも、よくわからないの」

 この人ったら、マカロンに向かって、掠れた声で独り言なんてして。聞こえないとわかっていても、わたしはついこの人の独り言をすくい上げてしまう。やっぱり、返事はない。
 長年、連れ添って見つづけてきた手が、動く。ずらした外箱から垣間見える、たがいちがいのマカロンを、この人は静かにつまんだ。素手だし、お皿にも移さないのに、この人がマカロンをつまむ手は、慎重で、おくゆかしくて、それがいちばん正しいやり方のように見えた。
 そのまま、さくり。半分、たべた。飲み込む喉の動きを見届けて、わたしも真似をする。
 黒すぐりのすっぱさと、ミルクチョコの甘さ。
 ほら、このマカロン、やっぱり悪くないじゃない。あなた好みでしょう?
 それなのに、この人が、ぼろりとこぼしたのは、お菓子の感想でなくて、わたしの名前だった。何度も、何度も、わたしを呼んだ。わたしはやっぱり途方にくれて、この人がわたしを呼ぶたびに、律儀に何度も返事をした。まるで、この人と会話ができているような勘違いを、してしまいそうだった。
 この人とわたしが、たがいにふれあい、語り合うなんてことは、もうない。それなのに。

「紅茶を入れよう。飲むだろう?」

 この人がそう呟いて、棚から手に取ったのは、カップとソーサー。二人分だった。
 たがいちがいのマカロンの甘さは、口の中にいつまでも残ることはなく、そこに何もなかったように、あわく消えていく。

#小説 #短編 #掌小説 #マカロン

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