ゆるぼんとえびすさん

高瀬甚太

 えびす亭の看板が付け替えられた。それまでえべっさんの顔が中心だった看板からえべっさんの絵が抜け、文字だけになった。
 「すっきりした看板になったのう」
 店へ入ってきた大工の辰巳さんがマスターに言った。
 「えべっさんにはよう頑張ってもろうたさかい、ちょっと休ませるんや」
 マスターがそう言って看板を書き換えたことを説明したが、本当はそれだけではないことを客のみんな知っていた。看板を変えたのはゆるぼんのせいだと――。
 えびす亭の常連に「ゆるぼん」という呼ばれる男がいる。年のわからない男で、四十代という者もおれば、六十代という者もいるといった具合で、その日、その時でずいぶん感じが違ってみえる。衣服のせいもあるような気がするし、髪型のせいもあるのだろう。また、躁と鬱の落差が大きいせいもあると思う。
 ちなみにゆるぼんの名前の由来は、ゆるぼんが初めてえびす亭にやって来た時、ゆるゆるのズボンを穿いていて、それが呑んでいる時にずり落ち、下着が丸見えになった。バンドをしてくるのを忘れたということだったが、以来、みんなからゆるぼんと呼ばれ、親しまれるようになった。
 ゆるぼんはえびす亭の中でもひときわ目立たない存在で、誰とも喋らないし、誰とも深く付き合わない。ただ一人静かにカウンターに立って酒を呑んでいる。それなのに店の誰もがゆるぼんの存在を熟知していた。彼が非常に上手な似顔絵かきだったせいだ。
 えびす亭にはゆるぼんの描いた似顔絵がところ狭しと貼られている。マスターを含め、すべてえびす亭に集まる人の似顔絵ばかりだ。特徴をよくつかんだその似顔絵を見て、描かれた人は思わず苦笑いをしてしまう。ゆるぼんがそれで商売をしているのかというとそうでもない。似顔絵はあくまでも趣味で、本来の仕事はペンキ屋だ。
 ゆるぼんの本名さえ、誰も知っていない。それなのに、無口なゆるぼんが店のみんなに親しまれているのは、彼の無類の愛想の良さから来ている。ゆるぼんは、声をかけられると誰に対してもどんな時でもニッコリ笑う。その笑顔が屈託なく明るくていいのだ。嘘のない笑顔って、きっとゆるぼんのような笑顔をいうのだろうなあ、みんなそう思ってしまう。それほどゆるぼんの笑顔は素敵なのだ。
 そんなゆるぼんがどうしても描けない似顔絵があった。誰を描いてもどんな人でも特徴をとらえた絵がすぐに描けるのに、その人物だけはどうしても描けなかった。ゆるぼん自身が不思議に思っていたし、他のみんなもなぜだろうと不思議に思った。
 その人物もまたえびす亭の常連で、名前を田中裕子と言った。有名女優に似た名前だけど、似ても似つかないといったら叱られるが、顔はともかくとして竹を割ったようにスッパリした性格で、店の男たちに親しまれていた。年のころは四十代半ば、夫に先立たれた未亡人だが、暗さは微塵も感じられなかった。
 「ゆるぼん、ウチも似顔絵を描いてよ」
 田中裕子がゆるぼんを捕まえてそう言った時、ゆるぼんはニコリと例の屈託のない笑顔をみせて頷いた。どんな似顔絵になるのだろうか、みんな楽しみにしていた。
 田中裕子は、特徴があるといえば特徴のある顔をしていた。いつもにこやかで笑顔が絶えず、えべっさんによく似た表情をみせていたから、誰もがすぐにできると期待した。それなのにできなかった。ゆるぼんは描きかけてはやめ、やめては描きを繰り返すばかりだった。
 ゆるぼんにも理由がわからなかった。描けない理由はまるでわからなかったけれど、ゆるぼんは描くことをやめなかった。田中裕子に会うたびに、顔のスケッチをし、写真を撮った。他の人ならそこまでやる必要はなく、ほとんど即興のように瞬時に描くことができた。それがゆるぼんの特技だった。それなのに今回はなかなか描くことができなかった。
 「不思議やなあ……。ゆるぼん、なんで描かれへんのや」
 マスターもそう言って不思議がった。それは他の人も同様だった。
 「まさかとは思うけど、ゆるぼん、田中裕子のこと好きなんちがうか?」
 酔っぱらった客の一人が思いつきでそう言った時、えびす亭の客、全員がはたと膝を叩いた。「そうかもしれん!」。全員が声を上げたのだ。
 「ゆるぼんは気が付いてないかも知れへんけど、好きやから描けへんのと違うか?」
 田中裕子は、美人ではないけど、性格はよかった。性格がそのままにじみ出たような顔をしていた。そう、まるでえべっさんのように。
 「私の似顔絵だけ、なかなか出けへんわ。どうしてやろ?」
 他の人の似顔絵はすぐに描き上げるのに自分の似顔絵ができて来ないことに、田中裕子が不満を漏らすことがあった。すでに三か月が経過していた。
 「田中さん、ゆるぼん、どない思います?」
 マスターがある時、田中裕子に尋ねた。
 「どないって……、どういう意味?」
 「男としてどう思うかっちゅうことでんがな」
 「男として?」
 「恋愛対象としてどうですか? と聞いているんですがな」
 「ええ人やと思いますけど……。恋愛対象としては考えたことありません」
 あっさり言ってのけた。これにはマスターも話の進展に興味を持って聞いていた人たちもがっかりした。
 「そうでっか。実はね、田中さん。田中さんの似顔絵だけなかなかできてきまへんやろ。あれはね、ゆるぼんが田中さんを意識して描かれへんの違うかって、みんなで噂しとったとこなんですよ。それでもし、田中さんにその気があっったら、と思うて聞いてみたんですわ」
 田中裕子は少し戸惑ったような表情をみせ、
 「マスター、それは何かの間違いですわ。ゆるぼんがウチを好きやなんてそんなことおまへん。ウチみたいなこんなブスの年増、誰が相手にしますねん」
 と言って笑った。
 ゆるぼんは独身で、ずっと一人暮らしだと聞いていた。マスターは未亡人の田中裕子との取り合わせは悪くないと考えていたので田中裕子にその気がないことを知って、少々がっかりした。

 それから一か月が過ぎた。田中裕子の似顔絵ができたともできていないとも聞かないまま秋になった。
 メニューを秋用に変更しようかと考えていたマスターは、ついでに気分転換も兼ねて看板も変えてみようと思いついた。
 親父の代からずっと続いている看板だから傷みが激しい。この際だからえびすの顔も描き換えようかと思い、マスターはゆるぼんに相談した。
 「ゆるぼん、店の看板新しくしようと思うてんねんけど、よかったら、えべっさんの顔、描いてくれへんか?」
 ゆるぼんは少し考えている風だったけれど、思いついたように言った。
 「時代も変わったことやし、文字だけでシンプルにいった方がええのと違いますか?」
 無口なゆるぼんにしては珍しくはっきりした物言いをするな、と思いながら、マスターは、「えべっさんの顔捨てるの勇気がいるなあ……」と不安気な表情をみせた。
 「えべっさんは商売の神様や。そのイメージが強うおます。でもマスター、この店は商売だけやのうて、いろんな幸福を運んでくれる店やさかい、 イメージを広げるためにも文字だけの方がええと思いますねん」
 「うちが幸福を運ぶ店?」
 マスターはキョトンとした顔をしてゆるぼんを見つめた。
 「この店は私にたいそうな幸せをプレゼントしてくれました」
 ゆるぼんは笑顔を満開にして、
 「マスター、まあ一杯やってください。みなさんにもどうぞビール一本ずつ。これは私からのプレゼント。幸せのおすそ分けです」
 と大判ふるまいをした。
 全員、ゆるぼんからいただいたビールを前に、わけがわからないといった表情をしている。
 「ゆるぼん、どないなええことがあったんや?」
 マスターが全員を代表して聞いた。するとゆるぼんは、
 「もうちょっと待ってください。もうすぐわかりますさかい」
 笑顔を満開にしたゆるぼんが、「みなさん、冷えているうちにパーッとやってください」と言ったものだから、店にいた全員が、
 「わけわからんけど、ゆるぼんに乾杯!」
 と言ってグラスを宙に掲げた。ちょうどそんな時のことだ。田中裕子が店の中に入って来た。
 「ごめん、ごめん。遅くなって」
 と言うなり、ゆるぼんの隣に立ち、やおら腕をからませた。
 マスターもそうだったが、全員が目を点にした。状況が把握できなかったのだ。
 「みなさん、私たち、つい先日、正式に婚姻届を提出してきました」
 ゆるぼんが真剣な表情でマスターほか全員にそう述べると、
 「なんや、それを早う言わんかいな」
 と、マスターが新しく栓を抜いたビールをゆるぼんと田中裕子の前に置いて、
 「おめでとうございます」
 と力強い声で祝福した。

 マスターが危惧していたように、やはりゆるぼんは、田中裕子を意識するあまり、似顔絵が描けなかった。そのことに恋愛経験の少ないゆるぼんはまるで気が付いていなかった。田中裕子もまた、ゆるぼんのそんな気持ちに気付いていなかった。田中裕子が気にし始めたのは、マスターから「ゆるぼんがあんたを意識してる」と聞かされてからのことだ。
 ゆるぼんから何度か、似顔絵を描くために、といって連絡をもらった。二人だけで話をすると、普段は無口なゆるぼんがよく喋る。よく見るとゆるぼんが亡くなった前の主人と話し方や笑い方が似通っているところがあることに気が付いた。
 照れ屋で気の弱いゆるぼんは、思っていることをなかなか口に出せないタイプだということを知った田中裕子は、それならと、こちらからモーションをかけることにした。
 ブスでスタイルもいいとはいえないけれど、料理を作ること、洗濯をすること、陽気なことにかけては自信のあった田中裕子は、ある時、ゆるぼんに言った。
 「ゆるぼん、ウチの似顔絵、慌てんでもええよ。一生かかって描いて。ウチが死ぬ時、完成させてくたらそれでええよ。それまで、ゆるぼんさえよかったらうちと一緒にいてよ」
 その言葉を聞いたゆるぼんは、ようやく自分の気持ちに気が付いた。
 「おれ、一生かかってあんたの似顔絵描くわ。最高の似顔絵描くさかい、ずっとおれのそばにいてほしい」
 それがゆるぼんの精一杯のプロポーズの言葉だった。
 田中裕子は未亡人だったで男の子と女の子の二人の子供がいた。どちらも大学を卒業して、息子は東京で、娘は札幌で生活している。二人とも結婚に反対はしなかった。ゆるぼんは初婚だったから問題はなかったけれど、一応、兄と姉には報告をした。もちろんどちらも喜んだ。ゆるぼんの母は八十歳を超えていたが、ゆるぼんが結婚するという話を聞いて、涙を流して喜んだという。
 こうして状況が整った時点で二人は籍を入れ、一緒に暮らすようになった。それが一昨日のことだった。
 えべっさんに似ている、人にそう言われるたびに田中裕子はひそかに傷ついていたようだ。それを最初に感じ取ったのがゆるぼんだった。ゆるぼんが田中裕子の似顔絵を描き始めると、どうしてもえべっさんに似てくる。えべっさんは好きだけれど、そのイメージで見られることに抵抗のあった田中裕子は、ゆるぼんが似顔絵を描き始めると、表情を変える。少しでも笑顔を見せるとえべっさんに似てくるからだ。そのことに気付いたゆるぼんもまた、田中裕子をえべっさんに似せまいと必死になった。そうすると、どんどん本物の田中裕子から離れてしまう。その繰り返しの中で、ゆるぼんは知らず知らずのうちに田中裕子を意識するようになっていった。
 
 そんなわけで現在のえびす亭の看板にはえべっさんが登場していない。文字だけにしたおかげで若い客が増えた。マスターがそう言って一人ほくそえんでいるのを見かけた客は多い。ゆるぼんと田中裕子は、結婚した後も足しげくえびす亭に通っている。変わったことといえば、ゆるぼんがよく喋るようになったことだ。
<了>


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