タロットで占うバーの女

高瀬 甚太
 
 JR天満駅から北へ入り、路地を抜けてしばらく歩いたところで、井森公平は、急に腹痛をもよおした。その前の打ち合わせで食べたものが悪かったのだろうか。我慢してもう少し歩こうと思ったが、便意を催してそんな状況ではなくなった。とても我慢が出来そうにない。仕方なく居酒屋にでも入り、トイレを借りようと思ったが、午後8時という時間帯もあってどこも満員で入ることができなかった。これ以上、どうすることも出来ず、思い余って飛び込んだ店がスナック「紫苑」だった。
 カウンターだけの暗い店だった。客は一人いるだけで鬱蒼とした感じが漂っている。カウンターに荷物を置き、
 「トイレを貸してもらえますか」
 と断って男女共用のトイレに飛び込んだ。
 急な腹痛の原因は下痢だった。ひと通り腹の中のものを下すと楽になり、トイレを出て手を洗った。
 カウンター席に戻って水割りを頼み、改めて店内を見渡すと、普通のスナックではないような気がしたので、ママに訊ねた。
 「この店、はじめて入りましたが、普通のスナックと雰囲気が少し違いますね。どんなお店なんですか?」
 ママが笑い、続いてカウンターに座っていた、小太りの中年男性も笑った。
 「そんなことも知らないでこの店に入って来たの?」
 六十歳を少し超えたと思われるふくよかなママが着物の袖で口を抑えながら井森に言った。井森は、急な腹痛でこの店に飛び込んだことを正直に話した。
 「この店は「占いバー」なんですよ」
 ママはにこやかな笑顔で井森に話した。
 占いバー……、そう言われてみると、そんな感じがしてきた。壁面にタロットカードのような絵が貼られ、店内は異様に暗い。ママの顔もよく見ると占い師のように見えてくる。
 「このお店に入られたのも何かの縁、どうです。占ってあげましょうか?」
 カウンター越しにママが囁くように言った。
 元来、井森は占いが好きな方ではなかった。これまで占いをしてもらったことがほとんどなく、してもらいたいと思ったことなど一度もない。
 「いや、結構です。私、占いはあまり好きじゃないんです」
 断ると、ママは、
 「あなた、出版関係の仕事をしてらっしゃるのね」
 と井森の目をみて言った。
 「ど、どうしてそれを!」
 「編集長なのね。文章を書くのが好きなんでしょ」
 ママは井森のどこをみて言っているのだろう。なぜ、井森の仕事がわかったのか――。
 「でも景気はあまりよくないようね。経営もずいぶん苦しいみたい」
 「それはまあ、苦しいですけど」
 「生まれ年と生まれ月、生まれ日を言って、できれば生まれた時間帯も」
 そう言ってママは井森の前に紙とボールペンを置いた。
 勧められるままに井森は白い紙に生年月日と生まれた時間帯を書いた。
 「なぜ、私の仕事や現在の状態がわかったのですか?」
 ママは笑みを浮かべて、
 「霊感とでも言うのかしらね。人を見ただけで漠然とだけど見えるものがあるの。その人の過去の大罪とか、現在の生活、仕事――、でも、本当は霊感だけでは成立しないの。占いをしてはじめてわかるものがある。でも、占いはあくまでも生き方の参考にすべきものよ。信じる信じないはその人の自由だけれど」
 その時、井森は産まれてはじめて占いをしてもらおうと決心した。カウンター越しにママの前に座り、覚悟を決めた。
 タロットカードをカウンターに並べると、ママは真剣な眼差しで井森を見た。
 
 タロット占いには、22枚のカードだけを使う大アルカナと、小アルカナと呼ばれる56枚のカードを合わせて計78枚で占う二つの方法がある。
 ママはカードを裏向けにしてカウンターの上に置き、シャッフルすると、数枚を引いて机の上に並べ、表向きにした。
 ――あなたは不思議な感性を持ってらっしゃる。人とは異なる発想があって、それがこれまでのあなたを支えてきた。不思議なことに、あなたほどさまざまな霊現象に出会った人はいない。通常は霊に取り込まれて破滅する人が大半だけれど、あなたはそうではなかった。それは多分、あなたの精神の強さとそれをカバーする友人に恵まれてきたせいでしょう。
 でも、いつまでもそれが通じるわけではありません。単に運がよかったというだけで、慢心すると偉い目に合ってしまいます。現にあなたは近い内に大事件に遭遇するでしょう。その時のあなたの対処次第であなたの運が尽きる可能性も十分考えられます。慎重に取り組むことですね。
 
 ママはそのことを井森に伝えてタロットカードを仕舞った。聞いている井森には何のことだかさっぱりわからなかった。
 「その大事件に遭遇する確率はどの程度でしょうか?」
 気になったので井森は聞いた。
 「ほぼ99%の確率です。せいぜい気を付けることね」
 なおも詳細を訊ねようとしたが、新規の客が入って来て、それっきりになってしまった。
 ママの言う大事件が一体何か、気になったが、確かめる術がなかった。料金を払う際、確かめようと思ったが、気にするのもどうかと思い、正規の料金の他にカード占いに対する心づけを支払い、井森は店を出た。
 
 ママが占った大事件らしきものが起きたのはそれから三日後のことだ。
 仕事を終えた後、一杯呑もうと思い立ち、井森が天神橋筋商店街を北の方角へ向かって歩いていた時のことだ。行き交う人の中から強烈な叫び声が聞こえた。人の波が大きく崩れ、さらに追い打ちをかけるような悲鳴が聞こえたかと思うと、井森の方へ叫びながら一直線に向かってくる一人の男がいた。
 血走った目と野獣のような叫び声、手に包丁のようなものを持っている、と気付いた時はもう遅かった。突進してきた男の体当たりを受けて、井森は路上に仰向けになり、その場に倒れた。鈍い痛みを感じて腹部を探ると血が噴き出している。男は倒れた井森の上に跨り、なおも包丁で井森を突き刺そうとしている。激しい痛みと恐怖のあまり、井森はそのまま失神した。
 気付いたのは病院のICUの中だった。激しい血液の流出と腹部の刺し傷が意外に深く、内臓を著しく損傷していたため、井森は死の一歩手前にいた。
 ――手術を受ける井森を、冷静に観察している井森がいた。魂が肉体を離れ、幽体離脱しているのだと井森は知った。魂が吸い寄せられそうな激しい力を感じ、それに逆らっている井森がいる。占いバーのママが言った大事件とはこのことだったのか、とその時思った。
 死というのは案外、呆気なくやってくるものだと感嘆した。井森の生命が一進一退で、予断を許さない状況であることは手術の様子を見てよくわかった。
 手術を受けている井森のそばを浮遊しながら、井森もまた自身を吸い寄せようとする強い力と闘っていた。少しでも力を弱めれば井森の魂は天上に向かって消滅する。それが井森の実感だった。
 井森の魂には、生きることへの強い意志だけしかなかった。過去も未来もなく、今、この時を生きる、強い生への思いだけが井森の魂のすべてを支配していた。
 浮遊する力が徐々に弱まり、空気の中に消滅しそうになった時、井森の魂は、突然、浮遊を中断した。
 手術が終了し、医師がマスクを取り、疲れた顔を覗かせ、安堵の吐息を漏らした。看護士が静かに手術台の井森を移動させて行く。
 医師が手術室を出ると同時に、手術の経過を心配し、集まっていた人たちが一斉に医師を取り囲んだ。その中には、井森の父母、弟、離婚した元妻とその子ども、友人たちが数人いた。
 「手術は成功しました。しばらく安静にしておく必要がありますが、生命の危険はなくなりましたので安心してください」
 医師の言葉を聞いて、医師を取り囲んだ人たちは一斉に肩を撫でおろした。
 
 井森が退院したのは一カ月後のことだった。しばらく休養を必要としたが、体調は完全に元に戻っていた。原稿を書くことや、パソコンを触るぐらいのことは無理なく出来たので、編集の仕事は普通に出来た。
 犯人は井森を狙ったものではなく、シャブ中で幻覚症状を起こした通り魔的犯罪だと後になって知った。この時、被害にあったのは井森一人だけだったこともあり、警察は当初、怨恨によるものではと想定して、犯人と井森の接点を探ったらしい。だが、当然のことながら接点は何もなく、井森もまた犯人に心当たりがなかったため、改めてシャブ中による通り魔事件と断定して幕を閉じた。
 事件のおかげで井森は少し有名人になった。原稿依頼が相次ぎ、井森の出版した本もそれなりに売れた。体調が万全になったのが事件から三カ月後のことだ。酒を呑んでもいいと医師から許可が出たので、天六の占いバー「紫苑」に行くことを思いついた。
 しかし、確かに存在したはずの場所にその店はなかった。確かにここにあった、そう確信して探したが、看板は別のものだった。
 「こちらに『紫苑』という占いバーがあったはずですが、ご存知ありませんか?」
 「紫苑」の存在した場所に建っている、うどん屋を訪ねて聞いた。うどん屋の店主は、首を傾げて、
 「知りませんねえ……。いつ頃の話ですか? 三カ月前ですか、うちはここで十年やっていますからねえ。どこか、他の地域と場所を間違えたんじゃありませんか」
 と説明した。だが、井森には、「紫苑」がこの場所にあったと確信できるものがあった。周囲の状況に見覚えがあったからだ。
 そこで周囲の店にも聞いて回った。だが、どの店もうどん屋の主人と同じ回答をした。
 狐につままれた思いで、仕方なく井森はその場所を後にした。
 
 ――半年後のことだ。その日、井森は友人と共に京橋の街を歩いていた。寂れた裏通りにやって来て、そこで一軒の店を見つけた。
 入るのを拒む友人をなだめながら、少々酔いが回っていた井森は、固く重苦しいその店のドアを開けた。
 「いらっしゃいませ」
 薄暗いカウンターだけの店だった。どこかでみたような店だと思ったが、意を決して店内に入るとカウンターの中にママらしい女性がいた。
 「どうぞ、こちらへ」
 和服を着たママがカウンターを指差す。井森と友人は椅子に座り、揃って水割りを注文した。
 水割りをカウンターの上に置きながら、店のママが井森の友人に向かって言った。
 「あらあら、こちらの方は大学の先生なんですね。憲法学者ですよね」
 友人が驚いてママに訊ねた。
 「どうして、私の職業を知っているのですか?」
 「いえね、私、霊感があって、人を見ただけで何となくその方の職業、現在がわかるんですよ。でもね、霊感だけでは限界がありますからこうやってタロットを使って――…」
 ママはタロットカードを静かにシャッフルし始めた。
 それをみて、井森はハッとした。興味深くカードを眺める友人の肩を抱くようにして、
 「知成、出よう」
 そう言って、金を払うと友人を連れて急いで店を出た。
 「何だよ。何で出るんだよ。占ってもらうところだったのに」
 外に出ると、友人は肩に置いた井森の手を払いのけるようにして怒った。
 「占ってもらわなくてよかったよ。占ってもらっていたら、きっとお前も私と同じ目に遭ったはずだ」
 「おまえみたいに刺されるっていうのかよ」
 友人はわけがわからないといった表情で井森をみて、なおも怒りを隠せないでいた。
 しかし、駅に着く頃にはその友人の怒りもいくらか収まった。酔いが醒めた井森は友人を見送った後、立ち飲み店にでも行こうと思い、再び京橋の街を一人で徘徊することにした。
 ふと思い付いて、井森は先程、友人と共に入った店の前を通ると、案の定、その店は影も形もなかった。店のあった場所には、バーとは似ても似つかないそば屋が立っていた。
〈了〉

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