懺悔屋3 廓の女

高瀬 甚太

 「木下登美子と申します。職業はマッサージ師で年齢は五二歳になります。恋愛なんて縁のない人間ですが、それでも愛し、愛された大切な、そして忘れられない過去があります。その懺悔をさせてください」
 犯罪以外の懺悔なら何でも聞くよ。それが仕事だから、そう断って話を聞くことにした。多くの人間には、胸に秘め続けた過去がある。それを話して、少しでもすっきりするのなら大歓迎だ。そう言ってやると、木下登美子は笑顔を浮かべて話し始めた。

 ――私は、静岡県伊豆市の出身で、高校を卒業してすぐに大阪へやって来ました。静岡と言えば就職は東京というのが一般的ですが、私は東京よりも大阪に興味があって、就職するなら大阪でとずっと思っていましたので、躊躇することなく大阪へやって来たわけです。大阪には遠い親戚がいて、その人の紹介もあって黒門市場に古くからある菓子店の事務員として働くことになりました。
 黒門市場は、大阪を代表する、天下の台所とも称される昔ながらの市場です。朝から夜まで人が絶えない活気のある場所で、とても賑やかな場所です。
 でも、賑やかな場所で働くのも考えものです。田舎者の私は、就職してすぐに都会の毒に呑みこまれてしまいました。
 同じ市場の惣菜を扱う店に、私と同年代の勝間玲子という女子が働いていて、年代が近く、店が近くだったこともあって、すぐにその子と仲良くなりました。
 ところがその勝間玲子はとんでもない女の子だったのです。まだ十代だというのに、酒は呑む、タバコは吸う、それだけではなく、男遊びの激しい女性でした。れでも私にしたら大阪へ来て初めての親友です。仕事が終わると、ほとんど毎日のように彼女と一緒にディスコに通いました。
 玲子は、いつもディスコで知り合いになった男の子とホテルへ行って夜を明かします。でも、私は知らない男とホテルへ行くなんてこと出来ませんでしたから、途中で玲子がいなくなった頃を見計らって寮に帰って眠る、そんな毎日を送っていました。
 働き始めて三カ月目のことです。支店長の小西に呼ばれて厳しく叱責されました。夜遊びが過ぎると言うのです。私が夜遊びをしていることは店の人には知られていないはずでした。それがどうしてわかったのか、不思議に思って小西支店長に尋ねると、勝間玲子の名前が出ました。
 「惣菜屋で働いている勝間を知っとるやろ。あの娘、売春容疑で警察に捕まったんや。その時、勝間と一緒にお前がディスコへ行っていることがわかって、一時はお前も売春容疑で名前が挙がっとったんや。だが、勝間が、お前は関係ない。一緒に店に行っていただけや、と言ってかばった。その後の調べでお前の容疑は晴れたが、これからは一切、そういった場所に出入りをしてはならん。午後11時以後は寮から出てはならんぞ。いいな」
 小西が心配するのも無理はありません。でも、玲子がいなければ私一人でディスコになど行くことはありません。おかげで私の生活は一変して、店と寮を往復するだけの毎日になりました。
 菓子屋といっても問屋ですから、府内はもちろんのこと、地方の店に菓子を送らなければなりません。結構忙しい毎日なのですが、店と寮の往復だけでは出逢いもなく退屈します。半年も働くとそんな生活に次第に飽きてきました。
 玲子はその後、保釈され、大した罪にはならなかったものの黒門市場で働くことが出来なくなり、私には何の連絡もなく、ひっそりと田舎へ帰ったと聞きました。私は玲子に対して感謝こそすれ、何の怨みもありません。出来れば会ってお別れがしたかったのですが、残念でなりませんでした。
 転機がやって来たのは一年後のことです。
 府内守口市に銘菓を扱う老舗の菓子店があるのですが、その店の主人から直々に私に声がかかり、うちで働かないかと声をかけていただいたのです。その店は旧くからの得意先で、私もよく知っているお店です。でも、これまでその店の主人とは直接話しをしたこともありませんし、話す機会もありませんでした。私は事務職なので納品伝票を書いたり、請求書を起こしたりするだけのことです。だから、なぜ私にと不思議に思いました。
 老舗銘菓『しぶや菓子店』は大正時代から続く大阪でも高名な菓子店で、中でも「和菓子乙姫」は最高級の和菓子としてよく知られています。私の勤務する店でも取引をしていて、ダントツの売上を示している人気商品です。
そんな店で働かせてもらえるなんて、ことの真偽はともかくとして有頂天になっていました。
 そんなある日のことです。
 「登美ちゃん、こちらへいらっしゃい」
 店の奥さんに呼ばれて店頭に出ると、『しぶや菓子店』の若社長が店の奥さんと共に待っていました。若社長は四十代前半と聞いていますが、禿げ上がった額や小太りの肉体を見ると、もう少し年齢がいっているようにも思えました。確か、既婚者のはずです。
 店の奥さんは、若社長を案内して近くの喫茶店に入りました。呼ばれたもののどうしていいかわからず突っ立っていると、
 「登美ちゃんも一緒に来るのよ」
 店の奥さんが手招きします。わけがわからないまま、私は二人の後について喫茶店に入りました。
 「しぶや菓子店の渋谷誠さん、登美ちゃん知っているわよね」
 店の奥さんが私に若社長を紹介しました。得意先ですから名前も顔も知っています。
 「はい、お得意先ですからお顔は存じ上げています」
 そつなく答えると、若社長が私を見て、ニタッと笑いました。脂ぎった赤ら顔に気味の悪い笑顔が浮かび、気味が悪くて一瞬、身を引きました。
 「渋谷さんがね、登美ちゃんを見初めて、嫁に来てくれないかと言っているのよ」
 店の奥さんの言葉に一瞬、鳥肌が立ちました。もうすぐ成人を迎える私と若社長では二十歳以上、年が離れています。
 「若社長は確か結婚していましたよね」
 と敬遠気味に店の奥さんに尋ねると、奥さんは、ケラケラと笑って、
 「心配することないわよ。若社長、二年前に離婚しているから」
 と言います。
 「ええ、今は独身ですよ。二年前にちょっとしたいさかいがあって女房とは離縁しました。子供が二人いますが、どちらも人見知りしないたちなので安心してください」
 若社長はそう言いますが、私にしてみたら迷惑な話です。
 「奥さん、すみません。私、まだ結婚する気になれません」
 断るなら早い方がいいと思い、はっきりと伝えました。
 「何言っているのよ。私なんか、この店に嫁いだ時、二十歳になっていなかったわよ。それにこんないいお話し、なかなかないわよ」
 店の奥さんはすっかりその気です。
 「本当にありがたいのですが、私、その気になれませんので。申し訳ありません」
 と、立ち上がって若社長に深くお詫びをしました。奥さんは不快な表情で私を見つめ、若社長の表情も先程とは打って変わった険しいものになり、厳しい目つきで私を見ます。
 その笑顔のない顔を見て、若社長の人間性を垣間見た気がしました。
 結局、この話は流れましたが、店の奥さんは若社長と何か裏契約でもしていたのでしょう。その日から途端に私につらく当たるようになりました。
 退職しようと決めたのは、そんなことがあった日から一カ月後のことでした。少しお金も溜まっていたので、北区天神橋一丁目にアパートを借り、店を退職したその日から仕事探しに奔走しました。
 仕事はすぐに見つかりました。本町の卸の雑貨店です。その卸店で事務を担当することになり、働き始めたのが五月、その卸店の一番忙しい時期でした。
 仕事は忙しかったものの同年代かもう少し上の人たちがたくさん働いていたのですぐになじむことができ、店の人たちとも楽しく会話が出来るようになりました。中でも営業の田中康介という私よりも五歳上の男性とは店の慰安会で仲良くなり、一緒にご飯を食べたり、休日に遊びに行くような仲になりました。
 康介は九州出身で会社の寮に住んでいました。交際するようになって三カ月目に私は康介と結ばれました。誠実な人柄に好感を持ったのです。関係が出来てからというもの、康介は私の部屋に入り浸るようになり、やがて寮に帰らなくなり、ずるずると一緒に暮らすようになりました。半年後には寮を引き払って私のアパートで暮らすようになったところで、結婚の話が出ました。
 しかし、康介にはその気がまったくありませんでした。今のままの方が気楽でいいと言い、ついには仕事場の他の女性にちょっかいをかけ始める始末です。誠実な人柄と思ったのは私の見誤りでした。
 暇があればパチンコ店に行き、金を浪費し、あげくは私に金をせびるようになった康介が、私の留守中に保険証と印鑑を持ち出し、私の名前でサラ金から金を借りたと知ったのは、一年が明けてからのことでした。
 サラ金の会社から督促状が届いて、初めてそのことを知った私は彼を問い詰めました。最初はとぼけていた彼でしたが、私の追及に逃げ切れないと思ったのか、とうとうすべてを白状しました。
 「金が借りられなくなって返済が滞ったので、思い余ってお前の印鑑と保険証を盗み出した。すぐに返済して迷惑がかからないようにしようと思っていたが駄目だった。許してくれ」
 許せるわけがありません。私は彼に毎月のサラ金への支払い5万円を私の元に振り込むよう約束させ、彼を家から追い出しました。
 何度も頭を下げて土下座までして詫びる彼を、その時の私はもう信じることが出来ませんでした。
 振り込んで来たのは最初の一回だけで、会社を退職した彼はそのままどこかへ消えてしまいました。200万円の負債を私に遺して――。
 安月給の私に5万円の返済は大変な負担となりました。たちまち生活が困窮し、払えども払えども一向に減らない負債に押し潰されるような毎日を過ごしました。電気がストップし、食べるものにも困り、普通の生活が維持できなくなったのです。何度も死を考えました。手首をリストカットし、流れる血をぼんやりと見つめていたことも何度かありました。でも、死ぬことは出来ませんでした。
 このままではどうしようもない。今の会社に勤めていては返済できない。この時、私は死ぬぐらいだったらと、一大決心をしました。
 廓に入ったのは会社をやめてすぐのことです。入るのも簡単ならやめるのも簡単、そういう場所だと聞かされた私は、借金を返済できたらすぐにでもやめようと思っていました。
 年齢が若かったことと、覚悟を決めていたこともあって、私はたちまち人気者になりました。さまざまな男に身体を弄ばれ、性の世界を漂流する。快楽など感じるはずがありません。それでも私は必死になって耐えました。
 200万円の借金は三カ月足らずで返済することが出来ました。完済した時の安堵感は例えようもないほど嬉しいものでした。
 借金を返済したらこの仕事をやめる、そのつもりでいました。でも、普通の仕事をやっていて稼げる金額ではありません。もう少し金を貯めてからやめよう。そう思って続けることにしました。でも、お金はどれだけ稼いでも貯めても満足することができません。もう少し、もう少し、そう思いながら三年間、廓のその店で過ごしました。金もずいぶん貯まり、生活にも余裕が出てきました。すると不思議なものです。仲間に誘われてホストクラブへ行ったのがきっかけで、ホストにすっかりはまってしまい、浪費を繰り返すようになってしまったのです。
 人間て馬鹿だなあ、と思いました。あれだけお金で苦しんで、死ぬ思いまでしたというのに、少し余裕が出てくると遊びにうつつをぬかし、ろくでもない男に金をつぎ込んでしまう。結局、気が付くまで数か月かかってしまいました。
 応援していたホストが私に金を無心するようになって、ようやく目が覚めた私は、以後、ホスト遊びはしなくなりました。過ちは繰り返すと言いますが、まさにその通りです。同棲していた彼に散々迷惑をかけられたというのに、今度もまた同じ過ちを繰り返すところでした。
 逃げれば追いかけて来る、の例えの通り、ホストもまた私を追いかけて来ました。多分、かなりの負債を背負っているのでしょう。それを私に押し付けようとしているのです。私が相手にしないとわかると、暴言の限りを尽くして去って行きました。
 私の仲間の中に、ホストの甘言に騙され、多額の金をだまし取られ、その上、負債まで背負わされた女性がいました。その女性は飛びましたが、その後、どうなったのか、私自身も同様の経験をしているだけに今も心配でなりません。
 再び転機がやって来たのは廓での生活が十年を過ぎた頃のことです。新人で入った私もこの頃はもうベテランの域に入っていました。そろそろ潮時だなと思い始めた時、運命の人と出会いました。

 この頃、私は仕事を終えると、食事方々、行きつけの居酒屋で酒を呑みながらゆっくり過ごすことを日課にしていました。その日の夜も、有線で流れる音楽を聴きながらカウンターで一人、酒を呑んでいると、喧嘩をしているかのような大きな声が店内に響き渡りました。
 どうしたんだろう。そう思って店内を見ると、若い男が店の店員に引きずり出されようとしていたのです。
 どうやら無銭飲食のようです。店員が男を外に連れ出し、警察に電話をしている声が聞こえました。
 店員に殴られ蹴られでもしたのでしょう。無銭飲食の男は傷だらけで顔から血が流れています。よくよく注意してみると、無銭飲食の男の顔に見覚えがありました。
 ――立花さんだ。どうして立花さんが……。
 高校時代のクラブの先輩の立花明彦さんです。ずいぶん時間が経っているのでわかりにくかったのですが、特徴のある目を見て気が付きました。
 「この人、どうかしたんですか?」
 駆け寄って店員に聞くと、店員は、怒り心頭の表情で私に言いました。
 「タダ食いしやがった。とんでもない野郎だ。警察に突きだしてやる」
 店員の怒りは収まりそうにありません。私は、店員に頭を下げて頼みました。
 「その人に代わってお金を支払います。おいくらですか? だから許してあげてください」
 地べたにぐったり寝ころがっている男は、チラリと私を見ましたが、私に見覚えがないのか、再び地べたに突っ伏しました。
 「金さえ払ってもらえば問題はないよ。警察にはうまく言っておく。その男をどこかへ遠くに連れて行ってくれ」
 店員は金を受け取ると、地べたに突っ伏している男に、
 「二度とこんなことするなよ」
 と捨て台詞を吐き、店の中に入って行きました。
 「立花さん、大丈夫ですか?」
 男の肩に手を置いてやさしく揺すると、男は名前を呼ばれたことに驚き、私の顔をじっと見ます。でも、私の顔に見覚えがないようです。無理もありません。バレーボール部は全員で五十人もいました。下級生で目立った活躍などしていなかった私のことなど覚えているはずがありません。
 立花さんは「ありがとう」と、礼を言ったものの、再びよろけて蹲りました。急いでタクシーを呼び、立花さんを乗せましたが、立花さんの自宅がわかりません。それにお金だって持っていないでしょう。同乗して立花さんの家まで送り届けることにしました。
 「運転手さん、少し待ってくださいね。この方に行先を確かめますから」
と断って、立花さんに自宅の住所を確認しました。
 「家――、そんなものないよ。逃げているんだ」
 ――逃げている?
 「ともかく友人の方でも結構です。この近くにお知り合いの方がおられたら、そこへお送りしますからおっしゃってください」
 しかし、立花さんは返答せず、そのまま眠ってしまいました。よほど疲れているか、殴られた痛みが響いているのかも知れません。
 仕方なく、私の自宅へ走らせてもらうことにしました。自宅へ連れ帰ってどうしよう。そのことばかり考えていました。先輩と言っても顔を知っているだけの間柄です。話したこともなければ指導を受けたことすらありません。それに私は立花さんのことを何も知りません。
 衣服を見るとかなり汚れが目立ちました。髪の毛もボサボサです。逃げていると言っていましたが、きっとずいぶん時間が経っているのでしょう。顔にも疲れの跡がくっきりと見えました。
 マンションの前に車が停まり、立花さんを起こすと、ようやく目を覚まし、「ここはどこだ?」と聞きますので、「どこも行くところがないとお聞きしましたので、私の自宅にお連れしました」と答えました。
 夜になると少しひんやりとする秋口の季節です。とても放っておくわけにはいきません。
 マンションの中に運び入れ、ベッドに寝かせました。傷は大したことはありませんでしたが、疲労の度合いが激しいようです。立花さんはそのまま眠ってしまいました。
 ――どうしよう……。
 正体なく眠っている立花さんを見つめながら私は困惑しました。この人に何があったかわかりません。でも、借金をして逃げていることだけは確かです。そんな人と一緒にいたら私まで巻き添えを食ってしまう。目を覚ましたら出て行ってもらおう。そう思いました、
 男に身体を売っている身とはいえ、私生活までだらしないわけではありません。男によっては私たちのような女に対して蔑むような目で見て、簡単に体を許すと思っている者もいます。私が体を売るのは、これが私の商売だからです。
 ソファでウトウトしていると、声がしました。目を開けると立花さんが目の前に立っていました。
 「きみが俺を助けてくれたのか。申し訳なかった」
 背が高く体格も立派な立花さんが、私の傍に立ち、謝っています。顔を洗ってスッキリしたのでしょう。その顔には昨日の疲れは見えませんでした。
「驚きました。先輩の立花さんにこんなところでお会いするなんて――」
 頭を掻きながら立花さんが絨毯の上に座り込みました。
 「情ないよなあ。無銭飲食で捕まるなんて。後輩に顔向け出来たものじゃない」
 「どうして無銭飲食なんてこと?」
 「名古屋で商売をしていたんだ。その商売がこの不景気で左前になって、借金が嵩んでね。高利の借金があって追込みが厳しくてね。逃げ出すほかなかった。それで大阪へ来て、食べるものにも困ってしまい無銭飲食をしてしまったというわけだ」
 高校時代の立花さんは女子高生の憧れの的でした。バレーに興じる立花さんの雄姿は今でも忘れることは出来ません。その立花さんには今はもう昔の面影は残っていません。ずいぶん苦労をしたのでしょう。
 「きみもバレー部だったと昨日言っていたよね。たくさん部員がいたから覚えていなくて申し訳ないけど、昨日は本当にありがとう。どれだけお礼を言っても言い尽くせない」
 再び、頭を下げて立花さんは立ち上がりました。
 「これからどうされるのですか?」
 「大阪で仕事を見つけて働くつもりだ。名古屋にはもう帰れないし、知り合いのつても頼めない。多分、追っ手がかかっているだろうからね」
 「でも、すぐに仕事も見つからないでしょう?」
 「きみに世話をかけるわけにはいかない。昨日、助けてもらったおかげで目が覚めたよ。一から頑張ろうと思う」
 帰り支度を始める立花さんに、思い余って声をかけました。
 「住まいがなければ仕事もみつかりません。私のところでよければ仕事が見つかって住まいを見つけるまで居てください」
 立花さんは私の申し出に一瞬、信じられないような表情を見せました。
「でも、一人暮らしの女性の住まいに俺が寝泊まりするわけにもいかないだろう。きみに迷惑がかかる。それに俺たち同じ高校の出身だとはいえ初めて会った仲だ」
 「……」
 「気持ちだけもらっておくよ。幸い肉体は健康だ。何とかなるだろう」
 笑みを浮かべた立花さんは、踵を返してドアに向かって歩き始めました。
 「待ってください。やっぱり心配です。仕事が決まり、住まいが決まるまで私の家に居てください」
 「でも――」
 困惑する立花さんを引きとめて、私は言いました。
 「構いません。私は立花さんが心配するような女ではありません。だから安心して仕事を探してください。それまでの間、私がお世話をします」
 私が廓で働く女だと知ったら、立花さんの態度も変わるのではないかと思いました。だから私は男に体を売って金を稼いでいる女だと、告白しました。
 「きみにはきみの生き方がある。どんな仕事であろうと俺は気にしないよ。ただ、俺はきみに甘えるわけには行かない。それでなくても俺は弱い人間だ。その弱さが商売を失敗させた」
 「だったらこうしてください。仕事が決まり、生活を立て直すまで立花さんは間借り人として私に賃料を支払ってください。お金が貯まり、やり直せるようになったら、私に遠慮することはありません。いつでもこの家を出て行ってください」
 あくまでも他人として生活し、お互いを干渉しない、深い関係にはならないことを誓って、立花さんは私の住まいの間借り人として生活するようになりました。
 一週間目に立花さんは仕事を決め、本町のコピー機販売代理店の営業マンとして働くようになりました。スーツとネクタイ、シャツ、靴など一式を私が買い揃え、プレゼントしようと思いましたが、彼はそれを固辞し、借用書を書くと言って私にそれを手渡しました。
 彼と一緒に暮らすようになって私の生活に以前にはなかった明るさが灯りました。彼は仕事を終えるとまっすぐ家に帰り、夜の仕事で家にいない私のために料理を作り、深夜遅くに帰宅する私にその料理を温め、食べさせてくれました。
 「名古屋の栄という街でイタリア料理の店をやっていたんだ。結構、流行っていたんだけどね。慢心があったんだろうな、ギャンブルに嵌って――」
 イタリア料理の店を経営していたことを知り、道理で料理がうまいはずだと感心しました。彼の作る料理は私の味覚にピッタリでした。彼は毎晩のように私のために料理を作ってもてなしてくれたのです。
 「いつかまた、レストランを開業するつもりですか?」
 聞くと、彼は小さく首を振って、「今のところ考えていないよ」と答えました。
 それでも休日になると彼は、ノートにレシピを書き溜め、塩の加減がどうの、胡椒がどうのとひとり言のように呟いていました。
 一カ月目に彼は初めての給料を手にしました。その少ない給料の中から、間借り賃として定めていた一万円を私に支払い、後一万円を食費として手渡そうとしました。しかし、私はそれを断りました。それよりも大切なことはお金を貯めて、早く独り立ちすることです。彼もそれをわかっていたのでしょう。何も言わず引き下がりました。
 一緒に買い物に行ったり、外食をしたり、時には遊園地に行くこともありました。私にすれば夢のような時間です。でも、夢の時間が長く楽しいほど、別れが辛くなります。三カ月後、彼は私に、「これが最後の間借り賃になると思う」と言って、深々と礼をしました。
 「本当に大丈夫ですか? 私はもう少し居てもらっても一向に構わないですよ」
 そう言って引き止めましたが、彼の決心は固く、
 「安手のアパートを見つけました。権利金も保証金もいらなかったので何とかやって行けそうだ。この三カ月、本当にありがとう。きみがいなかったら俺はどうなっていたかわからない」
 と言って、私の手を固く握りしめたのです。その手のぬくもりに私の心が熱く震えました。結局、彼は私との約束を守り、性関係を持たないまま三カ月を過ごしたのです。信じられませんでした。そのうち求めて来るだろう、そう思っていたからです。男性の性欲を毎日のように目の当たりにしている私には、約束事とはいえ、彼が私を求めないことに一抹の寂しさを感じていました。
 私は思わず、彼のふところに身を投げ出しました。彼に抱いてもらいたい。その気持ちが強かったのです。だが、彼は私を抱き締めて肩を背中をやさしく愛撫してくれたものの、それ以上、何もしようとはしませんでした。
さまざまな男の相手をしている私のことを汚らわしいとでも思っているのだろうか。そう思うと悲しくなりました。私は彼と暮らしたこの三カ月間で、生涯に一度あるかないかの愛を感じ、恋する思いを強くしていたのです。
 「木下さん。俺はあなたに出会って本当によかったと思っている。あなたに出会ったことで俺は自分を見つめることが出来た。この三カ月は俺にとってはとても有意義なものだった。ありがとう。心から感謝している」
 彼が述べる感謝の言葉は、そのまま私の言葉でもありました。私も彼に感謝し、出会ってよかったと思いました。でも、人としてそうでも男と女として、このまま別れるのは寂しい気がします。
 私はいつの間にか彼を思い、愛していました。その思いをどうしても形にしたかったのです。
 「最後に一度だけ無理を聞いてもらえませんか? 私を抱いてください」
彼は、そっと私の体を抱くとベッドに横たえました。十年あまり男に抱かれ続けてきた私の体が震えています。どうしてだろう。処女のように恥じらいながら彼を迎え入れたのです。
 その日を最後に彼は私の家を離れ、自活するようになりました。その後、何度か会う機会があったものの、私は彼に対してわざと冷たく対応しました。豹変した私の態度に最初は戸惑いを隠せなかった彼でしたが、そのうち徐々に連絡をして来なくなりました。

 立花はその後、七年の時を経て、大阪市内でイタリア料理の店を開店したと聞きました。店内には入りませんでしたが、夫婦で仲良くやっている様子が見えました。繁昌しているようで何よりです。
 立花が去った後、私も仕事を替えました。マッサージ師の免許を取って、今ではマッサージ師として生活しています。今でも独身です。結婚はこりごりだと思っていますが、好きな人が出来たらわかりません。今は毎日、毎日、趣味の絵画に勤しむ日々を過ごしています。でも、時々、想い出します。立花と暮らした三カ月のことを――。

 懺悔し終えると、女は明るい笑顔を見せた。「いい笑顔だよ、とってもいい笑顔だ」、懺悔屋の俺が女に言ったよ。「ありがとう」。女は再び笑顔を見せて、懺悔屋を去った。「グッドラック」その背中に俺は小さく声をかけた。
(了)


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