おちょこと一合徳利

高瀬 甚太

 長い間、病院に入院していて姿を見せなかった加茂剛一が、久しぶりにえびす亭に姿を見せたのは八月初旬の暑い日だった。
 長期入院が影響してか、加茂さんはずいぶん痩せて、老け込んで見えた。五十代半ばなのに十歳は老けて見える。そんな加茂さんが痛々しくて、マスターも店の客たちも加茂さんに声をかけるのをためらった。
 遠慮がちな店の空気を察してか、加茂さんはわざとらしく声を張り上げて言った。
 「どないしたんや。そんなお通夜みたいな顔をして。入院している間、わし、ずっとここへ来たいと思い続けてきたんや。ようやく実現したのに、そんな辛気臭い顔、並べられたら落ち込んでしまうやないか」
 ――元気な時、加茂さんはえびす亭でも一、二を争う酒豪の一人だった。とにかく酒の呑み方が半端ではない。一時間ほどの間に日本酒一升瓶一本を呑み尽くし、ビールを五、六本を軽く呑み尽くしてしまうほどで、加茂さんはその間、酒の肴はほとんど口にしない。加茂さんの異常とも思える酒量はそれどころではなかった。目を覚ますと同時に朝酒と称して日本酒を枡で呑み、会社に出ると、昼休みにはご飯を食べずにポケット版のウイスキーを空にして、仕事を終えるとえびす亭に立ち寄り、うわばみのように酒を呑む。家に帰れば日本酒を熱燗で五合ほど空ける。それがほとんど毎日のことなのだから肝臓にかかる負担は当然のことながら大きかった。
 そんな加茂さんが肝機能障害の診断を受けたのが今年の春のことだ。最初は通院治療を受けていたが、酒が止まないものだから一向に良好な結果が生まれない。半ば強引に入院命令を受け、三カ月ばかり入院して退院したのがついこの間のことだ。
 えびす亭に出入りする看護師は、加茂さんはよくなったから退院したのではなく、入院治療してもどうしようもなく、手遅れだから病院から放り出されたのではないかと推測したが、真偽のほどはわからない。
 加茂さんには子供が二人いる。一人は大学生で一人は高校生だ。どちらも男の子だが、加茂さんを見ているせいか、二人とも酒に興味を示さない。奥さんは加茂さんより二歳下で、昼間、会計事務所で働いている。夫婦仲は悪くはなさそうだが、加茂さんの口から、子供の話は出ても奥さんの話が出たことはなかった。

 「酒を呑まない加茂さんなんて、陸に上がったカッパみたいなもんやな」
 退院して以来、加茂さんは毎日のようにえびす亭にやって来るが、一滴も酒を口にしたことがない。そんな加茂さんを見て、加茂さんの病気を知らない口さがない連中が冷やかす。
 呑まないのであればえびす亭に来なければいいのに、と誰でもが思うのだが、加茂さんはそれでも毎日のようにやって来る。ウーロン茶をオーダーし、おでんを一口二口食べる。おでんを食べながら加茂さんの目はえびす亭で酒を呑む男たちに注がれる。羨ましそうな視線を送り、寂しそうに茶を口にする。
 加茂さんと大の仲良しといえば、何と言っても庄司保さんだ。手が合うというか、気が合うというか、庄司さんも加茂さんと一、二を争う酒豪で、以前、加茂さんが元気な時は二人、どちらが強いか、酒の呑み比べをしたものだ。甲乙つけがたいというのがえびす亭の面々の評価で、二人の呑み比べを見たいと言って、えびす亭に通う連中もいたほどで、酒豪として有名な二人だった。
 年齢は加茂さんの方が少し上で、ソップ型の加茂さんに対して庄司さんはアンコ型、対照的な二人は何をやるについても異常なほどのライバル心を燃やすが、でも、決して喧嘩などはせず、仲はよかった。
 加茂さんが入院している時、えびす亭で唯一、加茂さんを見舞ったのが庄司さんだ。一個、数千円もする高価なメロンを手に加茂さんの病室にやって来た庄司さんは、加茂さんに、
 「早く治してえびす亭に来いよ。あんたがいないと寂しいがな」
 とけしかけた。発奮材料にするつもりの庄司さんだったが、その思惑は見事に外れた。加茂さんはその時、すでに病気に負けていた。
 庄司さんは加茂さんの病気がどの程度のものなのか、知ってはいなかったが、きっと治ると信じていた。
 
 加茂さんの奥さんは、入院中、仕事をやりくりしながら病院に付き添った。アルコール中毒で肝機能が弱っている、このままでは肝硬変になり、そのうち肝臓ガンになるか、肝不全で亡くなってしまう、と医師に脅かされて、加茂さんの酒を辞めさせたのも奥さんだ。病院のベッドの中でも酒を辞めようとしなかった加茂さんだったが、奥さんの涙には弱かった。
 「私より先に死んだら、私、どうするの。酒を呑むと寿命が縮まる。十年生きるのが三年持たない、と先生が言ってはった。お願いだから酒を呑まんといて」
 勝気な奥さんは、結婚以来、加茂さんの前で涙など見せたことがない。その奥さんが涙の粒を溢れさせて加茂さんに言う。
 ――その日から、加茂さんは酒を一滴も口にしなくなった。
 加茂さんと奥さんは、定時制高校の同級生だ。十八歳で入学した加茂さんと十五歳で入学した奥さんは一緒のクラスになった。
 加茂さんの実家は広島の小さな島で、中学を卒業してすぐに大阪の金属工業の会社に就職した。加茂さんは、その工場で工員として働くようになるのだが、三年目に高校へ行きたいと思うようになり、金属工業の会社の社長に直訴して定時制高校への進学を許してもらった。加茂さんの仕事は定時で終わるのが難しく、会社の了解を得ておかないと学校へ行くことは難しかった。
 加茂さんは高校へ入ってすぐに奥さんを好きになった。明るくて健康で、しかも奥さんは頭がよかった。全日制の高校でもトップクラスで合格する学力を持っているのに定時制進学を選んだのは、母一人子一人の境遇で、母親に心配をかけたくなかったためらしい。
 高校四年生の夏に、本格的に交際するようになった二人は、互いに励まし合いながら高校を卒業した。卒業してすぐに二人は結婚する。奥さんは働きながら夜間の大学で経済を専攻し、加茂さんは相変わらず金属工業の工員として働いた。
 二人が結婚をすることに支障はなかった。真面目でよく働く加茂さんを奥さんの母親は可愛がり、自分の息子のように接したし、加茂さんの実家も、美人でやさしく働き者の奥さんを見て、もろ手を挙げて賛成した。
 加茂さんが酒を口にするようになったのは、二五歳の年からだ。奥さんのお腹が大きくなって母親の元へしばらく帰ったことがあった。その時、加茂さんは初めて酒を口にし、こんなに美味しいものが世の中にあったのか、と感動したという。以来、加茂さんは酒に夢中になってしまった。
 加茂さんは元々、体が丈夫で自信過剰なところがある。そのため、無茶な呑み方をしても一向に懲りない。奥さんは、加茂さんのそうしたところをこれまであまり注意して来なかった。できるだけ自由にさせてあげたい。そう思ってきたからだ。ただ、加茂さんが入院して、その後、奥さんは後悔した。なぜ、厳しく注意してやらなかったのかと――。
 定時制高校時代、加茂さんは油で汚れた真黒な手と顔で学校に来ていた。仕事を終えてすぐに来たのだろう。手や顔をゆっくり洗う暇がなかったのだ。休み時間になってようやく加茂さんは洗面所で手と顔を洗った。奥さんがそれに気付いてタオルを差し出すと、加茂さんは「ありがとう」と言って笑顔を見せた。奥さんは、真面目で一生懸命な加茂さんをその時から意識するようになった。
 結婚後も加茂さんは懸命に仕事に励んだ。酒を呑むぐらい許してあげなければ、そう思って放っておいた。体の丈夫な人だからと安心していた。入院するまで、奥さんは体調の変化にまるで気が付かなかった。医者に言われてようやく気が付いた。女房として失格だと、その時、奥さんは強く思った。
どうにかして加茂さんの身体を元通りにしなければ、そう思った奥さんは、退院してからはずっと加茂さんの体調管理に気を配り、酒を呑むことを禁じてきた。

 加茂さんの子供たちは、二人とも奥さんに似ている。特に上の息子は奥さんにそっくりと言っていいほど良く似ていた。経済学部に進んだ奥さんを見習って、上の息子は国立大学の経済学部に進学した。頭のいいのも奥さんゆずりだ。下の息子も兄と同様に国立大学の経済学部を目指している。担任の話では、油断さえしなければ大丈夫だろうということなので、来年の春には兄と同じ学舎に通っていることだろう。
 加茂さんは、高校を卒業するのがやっとで、頭はあまりよくなかった。その分、体力を使って仕事をした。出世は望めないが、元気なだけが取り柄だった。子供たちはそんな加茂さんを見て、どう思っただろうか。
 加茂さんは、家族の中で頭が悪いのは自分だけだと卑下していたが、子供たちも奥さんもそんなことは全然思っていなかった。真面目で頑張りやで、やさしい加茂さんは、奥さんにとっても子供たちにとっても誇りに思える旦那だり父親だった。
 酒を呑んでも、加茂さんは一向に変わらなかった。酒乱にもならず、特別な変化を見せない加茂さんの酒は、周囲を楽しくする酒だった。それゆえに家族も周囲も加茂さんの酒を止めることができず、誰一人として健康を害していることに気付かなかった。

 酒を呑むことだけが楽しみにしてきた加茂さんは、他にこれといった趣味を持たない。朝起きて、それが習慣になっている加茂さんは枡を探し、日本酒を注ごうとする。その酒も枡も今は捨ててしまって手元にない。奥さん手作りの肝臓にやさしい朝食を食べるのだが、加茂さんはそれではあまり元気が出ない。工場に行っても、退院してからは現場監督のような仕事に就いている。つまりは指導者だ。長い間、現場で作業をしてきた加茂さんは、現場で働く方が性に合っていると思っていたし、人を指導する器ではないと思ってきた。現場で働く仲間を眺めながら、加茂さんは現場を巡回し、そこはかとなく襲ってくる老いを感じ、いつしか職を辞する機会を考えるようになっていた。
 ――生きていて何が楽しい。
 自問自答する加茂さんは、ついぞ考えたことがなかった死を意識するようになり、死後の世界に思いを馳せるようになった。
 ――そんなある日のことだ。えびす亭でいつものようにウーロン茶を呑んでいる加茂さんの元に、庄司さんの急死が知らされた。知らせに訪れたのは、庄司さんの二十歳になる大学生の息子だった。
 「こちらに加茂さんはいらっしゃいますか?」
 庄司さんに似て、背の高い男の子だった。顔も似ていなくはない。
 「私だが――」
 答えると、庄司さんの息子は、加茂さんの前に立ち、ぐっと噛みしめていたのだろう、熱い涙を瞳の奥に溜め、
 「庄司隆と申します。本日、正午、父が亡くなりました。危篤の中で父が加茂さんの名前を呼んでいました。多分、会いたかったのだと思います。それで知らせに伺いました」
 加茂さんの目をしっかりと見つめて言った。
 「庄司さんが急死? どうして――」
 加茂さんは信じられない思いで庄司さんの息子を見つめた。ここ一週間ほど姿を見せていなかったとはいえ、庄司さんはえびす亭で大酒を喰らい、加茂さんを大いに刺激した。病気の兆候など、どこにも見られなかった。それなのになぜ――。
 「五日前、仕事先で事故に遭い、病院へ運ばれました。突然、落下してきた数本の鉄の棒に襲われ、頭を強く打って―。一時、意識を回復し、安心していたのですが、その時、加茂さんのことを話していました。心配するから事故のことは知らせるな、と。加茂さんは俺の大切な友達だ、とも言っていました。そして、昨夜、突然、悪化して、再び意識を失い、正午、家族が見守る中で息を引き取りました」
 加茂さんは人前も構わず絶叫した。そして声を上げて泣いた。自分より先に庄司さんが逝ってしまうなんて、そんな理不尽なことがあってはならない。顔を覆って、カウンターに突っ伏して加茂さんは恥も外聞もなく泣き崩れた。
 その日の夜、庄司さんの通夜が営まれた。傷心の加茂さんもその席に出席し、祭壇に飾られた在りし日の庄司さんを見て、再び泣いた。
 「早く治してえびす亭に来い」
 そう言っていた庄司さんの言葉を思い出した。退院してすぐにえびす亭に顔を出した加茂さんが酒を呑まずにウーロン茶を口にしていることを知った庄司さんは、呑んでいた酒を下げ、ウーロン茶に切り替えて加茂さんに対した。
 「俺に気を使わないで、遠慮なく酒を呑んでくれ」
 と、加茂さんが言うと、庄司さんは、
 「加茂さんが呑まないのに、自分だけ呑んでも美味しくない」
 そう言ってウーロン茶を口にした。
 庄司さんともう一度、酒を酌み交わしたかった――。
 その夜、加茂さんは朝まで眠れない夜を過ごした。

 退院して一年、加茂さんの体調は劇的によくなっていた。この間、酒を断つ努力をしてきたことと、食事療法、あらゆる面で節制を心掛けてきた効果が如実に表れ、加茂さんは病院の検査で医師が驚くほどの成果をみせた。
 「このままの調子を持続すれば、少しぐらいなら酒を口にしても大丈夫ですよ」
 と医師に言われるまでになった。
 加茂さんは、その報告を奥さんにし、その後、庄司の墓に出向いて報告をした。
 「一時、死にたいと思って、死に場所を探していたのに、お前の方が先に逝ってしまいやがって――、俺は死ぬチャンスを失ってしまった。お前の好きだった日本酒だ。一升瓶をここへ置いておく。たっぷり呑んでくれ」
 墓石の前に日本酒を置くと、蓋が開いて、日本酒がぐんぐん減って行くような錯覚を覚え、加茂さんはしばし見とれてしまった。天国にいる庄司さんは、天国に行ってもやはり大酒呑みなのだろう、そう思って加茂さんは酒の瓶を撫でた。残暑の風が、一瞬、ひんやりと感じられ、加茂さんは思わず周囲を見回した。墓石の並ぶ一帯に赤トンボが舞っていた。
 加茂さんの体調はほぼ元気な頃に戻った。大幅に体重が減った分、以前よりさらによくなったといった印象が加茂さん自身にもあった。医師からは、少しぐらいなら酒を口にしてもいいとは言われていたものの、加茂さんはそれを実行しなかった。酒を口にする勇気が湧いて来なかったのだ。
 ある夜、庄司さんや加茂さんと双璧だった黒田金吾という酒豪の男が、えびす亭で日本酒の呑み比べをしていた。まだ三十代の若さということもあるが、黒田の酒の呑みっぷりは実に豪快で見事だった。速いだけではない。実に美味しそうに、喉をぐびぐび鳴らして呑む。相手の男が激しく酩酊しているのに、黒田は平気で、何ともない顔をして酒を呷っていた。
 相手の男はすぐにダウンし、黒田が勝利した。呑み比べでは、負けた方が勝った方の勘定を払うことが鉄則になっている。酩酊した相手の男は、黒田の分まで支払うと、這う這うの体でえびす亭を去った。
 「ものたりないなあ」
 黒田はそうぼやいて辺りを見回した。誰か、自分と勝負しないか、そんなふうな眼差しでえびす亭の面々を見つめている。そのうち、黒田の目が加茂さんのところで止まった。
 「加茂さん! 加茂さんがいるやないですか。一つ、私と勝負してくれまへんか」
 黒田は、加茂さんが肝臓を悪くして酒を断っていることを知らない。それを見たマスターが黒田に声をかける。
 「黒田さん、加茂さんは病気になって酒を呑まれへん。勝負なんかできるかいな」
 マスターがそう言った時、店のガラス戸が開いた。
 「父さん、やっぱりここにおったんか。母さんが探していたよ」
 加茂さんの長男、大学生の息子がえびす亭に入って来て加茂さんに言った。
 「加茂さんの息子さんでっか? 何やったら息子さんでもよろしいで。かかってきなはれ」
 酒に酔った黒田が加茂さんの息子に言う。
 「黒田さん、息子は酒を一滴も呑めませんのや」
 加茂さんが黒田に説明をすると、黒田が息子を挑発する。どうやら黒田はかなり酩酊しているようだ。
 「ええ機会や。息子さん、わしと勝負しまひょ。あんたが勝ったらお父さんの分、わしが払います。負けてもあんたに払わさへんから心配せんといて」
 断ると思いきや、加茂さんの息子は、
 「わかりました」
 と言ってグラスを手にした。加茂さんがあわてて息子を止めようとするが、息子は笑って、「父さん、大丈夫だよ」と言う。
 「父さんの代わりに勝負をするから、勝負が終わったらぼくと一緒に家に帰って。母さんが待っているから」
 母さんが待っている? そうか、今日は奥さんの誕生日だった――。忘れていたことを加茂さんは恥じた。
 「さあ、いきまっせ」
 黒田が加茂さんの息子のグラスに日本酒をなみなみと注ぎ、自分のグラスにも同じように注ぐ。加茂さんは息子から目が離せない。無理をしないようにと言い聞かせると、息子は、笑って「大丈夫だよ」と言う。
 黒田は相変わらずいい呑みっぷりだ。ぐいぐい、ぐびぐび、二杯、三杯とグラスを空けて行く。息子の方はどうだろうか。加茂は恐る恐る息子に目をやると、何と言うことか、息子が黒田以上のピッチでグラスを空けていく。
酒になどまったく興味がなく、家でも呑むところなど見たことがない。それなのに、息子の呑みっぷりはどうだ。黒田に負けない、いや、黒田をはるかに凌駕する呑み方で圧倒しているではないか。
 「まいった」
 先に降参したのは黒田の方だった。黒田はそのまま床に崩れ落ちた。息子は物足りなさそうな顔をして黒田を見ている。
 「さすがは加茂さんの息子や!」
 えびす亭の面々から声が飛び、拍手が飛んだ。
 圧倒的な差で勝利した加茂さんの息子は、
 「すでにかなりの酒を呑んでいましたからね。その差です」
 と黒田を擁護する。
 「お前、いつの間に酒を覚えたんだ」
 加茂さんが聞くと、息子は、
 「遺伝だよ」
 とこともなげに答えた。
 大量の酒を呑んだというのに息子は素面の時とまったく一緒で、何も変わりがない。
 息子の呑みっぷりに感心しながら、加茂さんが息子と二人で家路に向かう途中、突然、息子が立ち止まり、嘔吐した。加茂さんが背中をさすってやると、しばらくして息子は元に戻り、
 「やっぱり、少し無理をしていたみたいだ」
 と言って笑った。
 家に戻ると、奥さんが玄関まで迎えに出て、
 「酒を呑まなかったでしょうね」
 と加茂さんに聞いた。息子がすかさず、
 「ぼくが代わりに呑んだ」
 と話す。奥さんはやれやれといった顔で息子を見る。どうやら奥さんは息子が酒に強いことを知っていたようだ。
 「あなた、今日は何の日か知っていますか?」
 台所に置かれたテーブルの椅子に座ったところで奥さんが聞いた。
 「お前の誕生日だろ。忘れててごめん」
 加茂さんが謝ると、奥さんは首を振る。
 「私の誕生日は明日。今日は二人の結婚記念日」
 そうだった。結婚したのは、奥さんの誕生日の前日だった。何年になるのだろうか。それさえも忘れている。加茂は奥さんに謝った。
 「申し訳ない。結婚記念日だということをうっかり忘れていた」
奥さんは、加茂さんをとがめることなく、包みを加茂さんの前に差し出した。
 「これは何だ?」
 加茂さんが聞くと、奥さんが
 「開けて」
 と言う。いつの間にか、二人の息子が加茂さんの周りに集まっていた。加茂さんが包みを開けると、中から意外なものが現れた。
 「これは――」
 包みの中に入っていたのは、おちょこと一合徳利だった。
 「早く、お酒を呑めるようになってね」
 奥さんは加茂さんにそう言った後、
 「でも、一合徳利で我慢するのよ」
 と言って加茂さんの手を握った。辛苦を共にしてきた女房ならではの思いやりのある言葉に、加茂さんは一瞬、喉を詰まらせた。
 「父さん、俺たちと一緒に呑もう」
 そんな加茂を見て、二人の息子が声を揃えて言った。
 「ばかもん、お前はまだ高校生じゃないか」
 加茂が怒ると、弟の方が舌を出して兄に救いを求めた。奥さんが笑う。加茂も笑った。
 いつか、四人でえびす亭に行こう。妻に子供たちに、私の憩いの場を見せてやりたい。加茂さんは心の中でそうつぶやき、奥さんにもらったおちょこと徳利を大切そうに腕の中に抱えた。
<了>


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