ちゅぱちゅぱの本の謎

高瀬 甚太

 風の勢いが増し、今にも雨が降り出しそうな、どんよりとした雲が空を覆っていた。こんな日は事務所でのんべんだらりと過ごすに限ると井森公平は思っていたが、約束があってはそうもいかず、正午過ぎに到着するよう大阪から神戸に向かった。
 阪神三宮駅で下車すると、地下街は人で溢れていた。三宮センター街もまた人が多い。そう言えば今日は土曜日だったと思い直し、土曜日の正午と約束した時の女性の声を思い出した。出来れば別の日にと思ったが、反論できない圧力をその声に感じ、仕方なく承諾した経緯がある。
 センター街から元町商店街に入ると、とたんに人が少なくなった。通常はセンター街に負けず人通りの多い場所だが、どうしたわけかこの日は人の出がそれほどでもなく、不思議に思いながら商店街の途中にある待ち合わせ場所の喫茶店「S」に入った。
 約束の時間より少し早めに着いたせいか、待ち人はまだ来ていなかった。朱色のスカーフを首に巻いているというのが目印で、さほど広くない店には七人ほどの客がいたが、そのうち女性は四人で、四人ともスカーフは巻いていなかった。考えてみれば、九月の半ばを過ぎたとはいえ、八月と変わらぬ暑さを記録していたこの時期だ。暑苦しいスカーフなど巻いていることのほうがおかしい。
 入り口に近い席に腰を下ろし、コーヒーを注文して待ち人を待った。見知らぬ客と待ち合わせをする際、気を付けなければならないのは、時折、時間にルーズな人がいることだ。たまにだが、約束を忘れてしまう人もいる。そんな時のために、予め相手に自分の携帯のアドレスを教えておくとか、あるいは相手のアドレスを聞いておくとかしなければ、遅れる時や急用があって来れない場合、電話で連絡がつく。
 15分待ったが待ち人は現れなかった。しかも一本の電話もない。あと五分待って連絡がなければ電話をしよう、そう思って残りのコーヒーを口に入れた。

  先週の金曜日のことだ。校了を終えて一息ついたところに電話がかかってきた。
 「極楽出版ですか?」
 と女性の声で聞くので「そうですが……」と答えた。すると相手は、「編集長さんいらっしゃいますか?」と聞いた。
 普段、この事務所には井森しかいない。編集長兼小間使いといった感じだ。
 ――はい、私ですが。
 と答えると、
 ――ご相談したいことがあるのですが。
 と言い、
 ――申し訳ありませんが神戸まで出向いていただくことは可能でしょうか?
 と、聞いて来た。
 ――どんなご用でしょうか?
 井森が問い返すと、
 ――お会いしてからお話したいのですが、それでは駄目でしょうか?
 と言う。
 ――いや、別に構いませんよ。
 と軽い調子で了解した。
 あの時、井森は女性の物言いに、何とも言えぬ違和感を覚えた。それが何だったかの、今持ってわからない。
 五分が経ち、電話をしようと携帯電話を手に持った時、
 「すみません。遅くなりまして」
 と声がした。二十代後半とおぼしき、首に朱のスカーフを巻いた女性が立っていた。初対面なのにまるで以前から自分を知っていたかのように女性は迷わず井森を見つけた。そのことを井森は奇異に感じたものの、店の中の客を見渡して納得した。年配の客は井森一人しかいなかった。
 「どうぞお座りください」
 と椅子に座らせ、井森は飲み物を注文するよう言った。
 「斎藤志穂と申します。よろしくお願いいたします」
 黒いスーツに朱のスカーフ、一見しただけでは斎藤志穂が何を職業としているのか、まるで見当がつかなかった。彼女は椅子に腰を下ろすとすぐに手元にあった茶色いバッグを手元に引き寄せ、本を一冊取り出した。
 「編集長、この本を見ていただけませんでしょうか」
 彼女はバッグから取り出した本を井森の前にそっと置いた。
 四六判の大きさだったが、ページ数は二〇〇ページに満たない厚さの古本だった。一見して洋書のようにも見えるその本の表に、『ちゃぱちゅちゅぱ』とタイトルが書かれていた。井森はタイトルに興味を持って表紙を開けた。タイトルの異色さもそうだったが、内容が気になっていた。何の本か、まるで見当がつかなかったからだ。
 独特の書体で書かれた中身は、宗教書のようにも思えた。
 「これは何の本ですか? 初めて見る本です」
 パラパラとページをめくりながら井森が感想を述べると、彼女は、
 「その本の出自について調べていただけませんか?」」
 と聞いた。
 「調べるといっても、私の手に負えそうにないですね」
 井森が即座に断ると、彼女の顔色が変わった。
 「もう編集長しか頼る人がいません。いろんな先生に当たってこの本を見ていただきましたが、確かな答えを出せる人が一人もいませんでした。あきらめかけていた時、ある人から、大阪にある極楽出版の編集長なら、もしかしたらわかるかもしれないと教えていただきました。それでお電話させていただいた次第です。本当は私が大阪へ行けばよかったのですが、事情があって神戸を出ることが出来ず、ご無理を言いました。もし、編集長に断られたら、私、どうすればいいか……」
 あまりにも真剣な彼女の表情を見て、なぜ、この本をそんな思いまでして調べなければならないのか――。その理由が気になった。
 「この本のことを調べたい、その理由を教えていただくことはできますか?」
 井森の問いに彼女は小さなため息を漏らし、か細い声で話し始めた。
 「こんな話をしてもきっと信じてもらえないでしょうが……」
 と前置きをし、彼女はコーヒーカップをテーブルに置いた。

 ――私の祖父は戦時中、朝鮮半島で日本語の教師をしていたことがあります。その時、一人のお坊さまに出会い、有り難い説教を受けたそうです。そ のお坊さまの説教は、日本の仏教のそれとは違い、言葉こそわからないものの、胸に深く染み入る独特の韻律があって、それに感動した父は、そのお坊さまが特別に制作したという1冊の本を購入しました。
 それがこの『ちゃぱちゅちゅぱ』です。やがて戦火がひどくなり、祖父は家族と共に朝鮮から日本へ帰りました。終戦を迎え、すべてを失った祖父は、敗戦の真っ只中の大阪で家族を養うために「すいとん」を売る商売を始めました。しかし、混乱した世の中で、祖父のような学者肌の人間が食べ物商売をやってもうまくいくはずがありません。商売に行き詰まった祖父は、家族を残して自殺を考えたといいます。
 その頃、家族は祖母と父、そして父の姉の四人家族でした。祖父は、家族のために残せるだけのものを残して、若い頃、よく登ったという金剛山へ向かいました。山の中にある木の枝に首を吊って死のうと決心した祖父は、その直前、急に本を読みたいと思ったそうです。その時、取りだしたのが『ちゃぱちゅちゅぱ』の本でした。
 何故、その本を持ってきたのか、記憶にないまま、祖父は、その本を読み始めました。すると、朝鮮のお坊さまの、あの独特の韻律が耳に響き渡り、呼んでいるうちに不思議と気分が高揚してきたそうです。
 高揚した気分は祖父に希望を持たせ、我が家に戻った祖父は、何かに憑かれたかのように猛烈に働き始めました。二年足らずのうちに実業家として世の中に君臨するようになった祖父は、やがて財を成し成功を掴みましたが、晩年、明らかに様子がおかしくなり、ある時、精神が崩壊しました。
 七十歳を境に、祖父は狂人と化し、入院後、ひっそりと亡くなりました。
 その後、『ちゃぱちゅちゅぱ』の本は、遺品として父の手に渡り、長い間、父はその本を本棚の片隅に置いていました。
 父は祖父の事業を受け継ぎ、会社をさらに大きくしましたが、ある時、興味本位に手を出した株が原因で、会社が傾き、倒産寸前のところまで追い詰められました。悩みに悩んだ父は、本棚に置いてあった祖父の遺品『ちゃぱちゅちゅぱ』の本を思い出し、祖父がその本を読んで人生を変えたことを思い出しました。
 その本を読むのは初めてのはずなのに、なぜか父の耳奥に、その本が奏でる独特の韻律が聞こえてきたそうです。その本を読んでいるうちに父もまた、祖父と同様に高揚し、湧き上がってくるものを感じたといいます。
 そのおかげかどうか、父は無事、苦境を乗り切り、再び実業家として歩み始めました。そんな父がつい最近、突然、倒れてそのまま亡くなってしまったのです。不審死ということで警察が調べましたが、とうとう死因はわからずじまいでした。その瞬間まで元気だっただけに、私たち家族は呆気ない父の死に呆然自失し、通夜葬儀もろくに行えなかったほどです。
 葬儀から一週間が経ち、ようやく落ち着いた頃、亡くなる直前に父から『ちゃぱちゅちゅぱ』と題した本を預かったことを思い出しました。
 以前、父からこの本について、祖父や父との関わりを聞かされていた私は、今、自分がこの本を持っていることが恐くてたまらなくなりました。きっと何かがこの本には潜んでいるはずです。それを知らずに持っていると、私もまた、いつか祖父や父と同じ運命を辿るのではないか、そう思うと恐くて怖くて――。それでこの本の秘密を調べてもらうためにいろいろな人を訪ね歩いたわけです」

――『ちゅぱちゅぱ』、冗談のようなタイトルの本ではないか。その本を手に取って一層興味が湧いた。
 「お願いします。どうかよろしくお願いします。その本を調べていただけませんか」
 校了を終え、しばらく時間があった。
 「一週間ほど預からせていただきますが、果たして私にわかるかどうか、お約束できませんが、それでもよろしいですか?」
 「結構です。それでもかまいません」
 斎藤志穂は大きく頭を下げた。

  その夜、井森は『ちゃぱちゅちゅぱ』を読破した。読破したといっても内容はまるでわからなかった。ただ頁をめくっただけに過ぎない。独特の書体文字で書かれた文章は文章ではなく、一つひとつの文字が何か得体の知れない物体のように見えた。しかもその文字を追っていくうちに不思議な感覚に囚われてしまう。次第に気分が異常に高揚して来るのだ。

 恐怖を感じて本を閉じた。すると高揚した気分はすぐに収まった。だが、高揚した気分は収まったものの、それでも何か、得体の知れないものに始終つきまとわれているような感覚に囚われ、その感覚は止むことなくずっと続いた。
 井森はもう一度、本を見直した。一体これはどこの国の文字なのか、言葉なのか、それから調べようと思った。一見、日本語のひらがなの羅列のように見えるが、もちろん日本の文字ではない。その日は何の糸口も見いだせず本を棚に置いた。
 翌日、井森は大阪市西区にある、大阪市立中央図書館に出向き、朝鮮半島の宗教にまつわる著作物を片っ端から読み、『ちゃをぱちゅちゅぱ』という言葉に関する記述がないかどうか調査をした。だが、どこにもそういった記述は見当たらなかった。
 次に、この本に書かれている内容が仏教か儒教か、その他の宗派か、導き出そうと思ったが、それすら見つけることが出来なかった。
 多数の宗派が存在する朝鮮半島は、信仰の形もさまざまだ。斎藤志穂の祖父が親交を深めたそのお坊さまがどの宗派に属する宗教なのか、それさえもわからず、完全にお手上げ状態だった。斎藤志穂は、多くの識者にこの本について調べてもらったといったが、確かにアカデミックな視点では、この本の本質は掴めないのかも知れない。何となくそう思わせるものがこの本にはあった。
 そこで思い付いたのがシャーマニズムだった。朝鮮半島には百万もの神々、精霊、幽霊を祀る組織化されていない万神殿があるといわれている。この万神殿は大地の精霊や家族、村の守護神、悲劇的な結末を迎えた人々の幽霊、悪戯好きの小鬼、木に宿る神々、神聖な洞窟、石の積み重ねを含み、これらの精霊が生きている人々の運命に大きな影響を与えるか、それを変える力を持つとされている。
 『ちゃぱちゅちゅぱ』という一見、意味のない言葉と意味のないような文章の羅列の中に、もしかしたら文字の精霊、言霊が秘められていて、それが読む人の運命に関わり、運命を変える働きをしているのではないか、井森は独自の勘でそう判断した。
 斎藤志穂の祖父も父もこの本によって劇的に運命が変わったとされている。大きな成功を収めた代わりに、その代償も大きかったのだろう。最後に非業な死が待ち受けていた。志穂はそのことを知っていたからこそ、この本をどうにかしないといけないと思ったのだろう。
 では、どうすれば、この本の呪縛から逃れられるか、それが問題だった。この本を燃やしたところで精霊たちからの呪縛から逃れられるとは思えなかった。逆に悲惨な結末を迎えることになる可能性が高いのではと思い、井森は斎藤志穂に連絡をすることにした。
 その日の午後、井森は以前会った元町商店街の喫茶店「S」に彼女を呼び出した。
 ――斎藤志穂は神戸北野町でケーキ店を経営していた。父の会社は継がず、敢えて独力でケーキ店を開いたのだが、当初順調だった経営がここへきて思わしくなく、悩むうちにふと父から預かった『ちゃぱちゅちゅぱ』の本を思い出した。しかし、本は開かなかった。祖父と父のことが蘇ったからだ。恐くなった彼女は、この本を持っている限り、いつかは自分も祖父や父のような運命に遭うのでと思い、大学教授やさまざまな民族、宗教学者に調査を依頼した。だが、誰も解決の糸口さえ見つけられなかった。それが前回、彼女から聞いた話だった。
 斎藤志穂は、今回は遅れずに喫茶店にやってきた。早速、井森は,本についてこれまで調査した結果を彼女に説明をした。
 「この本の書体文字、言葉の数々にかなり力を有した精霊が宿っているのではと判断しました。内容がわかる、わからないではなく、この本を広げ、眺めるだけで文字の精霊に取りつかれてしまうのではないか。私はそのように判断しました。その精霊がどのようなものかわかりませんが、強い力を擁しているため、読む、いや眺める人の運命に拘わり、その人の運命を変え、やがて死に至らしめるのではないか、そう考えたのです」
 「運命に関わり、運命を変える働きが文字、書体にあるということですか」
 「言霊という言葉がありますね。それと同じようにこの本の文字、書体にもそれに近いものが棲んでいる。しかもその力は絶大です」
 斎藤志穂は信じがたい思いで井森の話を聞いていた。
 「確かに、この本が発するエネルギーは異常でした。気のせいかとも思いましたが、やはりそうではなかったのですね」
 「正体は不明ですが、この本には、間違いなく、何か恐ろしい精霊、もしくは悪霊のようなものが潜んでいるような気がします。しかもこの文字から発せられるエネルギーはとてつもなく大きい。今必要なことは、『ちゃぱちゅちゅぱ』と題するこの本が何を望んでいるのかということです。それを理解し、適切に対処しなければこの本の実質的な持ち主であるあなたに、幸運と災難の両方が降りかかってくるでしょう」
 斎藤志穂がブルっと体を震わせた。
 「どうすればいいのでしょうか?」
 「これを取り除くにはより大きな力が必要です。霊能力者か、もしくは超能力者、あるいは……」
 そこまで言って、井森は言葉を詰まらせた。力には力、果たしてそれで解決する問題なのかどうか、判然としなかったからだ。
 井森には迷いがあった。パワーを持った霊能者に精霊を封じ込めてもらったとしても、それは一時しのぎに過ぎないのではないか。結界をつくったとしても、一時はそれにたじろぐかもしれないが、やがてはそれを乗り切る、そんな力とパワーを『ちゃぱちゅちゅぱ』は持っているような気がした。
 井森は、斎藤志穂に尋ねた。
 「あなたの祖父がお坊さんにこの本をいただいた時の詳しい状況はわかりませんか? そこに鍵があるような気がするんです」
 斎藤志穂はしばらく考えていたが、突然、思い出したように大きな声を上げた。喫茶店の客たちが驚き、井森と志穂を見た。井森が立ち上がって店の客たちに謝ると、志穂はすみませんと小さな声で井森に謝った。
 「朝鮮で日本語教師をしていた祖父は、手帳に日記を付けていたようです。その手帳が父の遺品の中に残されている可能性があります。それを調べたいと思いますので、申し訳ありませんが、私の住まいまでご一緒していただけませんでしょうか」
 彼女の家は中山手通りに面した場所にあり、洋風のモダンな建物でこの地域によく符号していた。一階が志穂の経営するケーキ店、二階が事務所、三階が住まいになっていた。
 志穂は三階に置いてある、父親の遺品のすべてをテーブルの上に載せた。彼女の父は、祖父を非常に尊敬しており、祖父の遺品はすべて大切にしまっていたので、祖父の手帳も必ずあるはずだと言う。
 しかし、遺品の中には祖父の手帳らしきものを見つけることが出来なかった。
 「どうやら私の勘違いで、父は預かっていなかったようです」
 志穂は力なく父親の遺品を片付け始めた。
 「戦時中のことですからね。手帳といっても現在のような立派な手帳ではなかったかもしれません。もう一度、お父様の遺品の中から、手帳の概念を捨てて探していただけませんか」
 井森の言葉を受けた志穂は、再び、父親の遺品を改め始めた。しばらくして、志穂が声を上げた。
 「編集長、これ、これかもしれません」
 小さな旧いノートが父の遺品である聖書の中に挟まれているのを志穂は発見した。
 とても手帳と呼べるようなものでもなく、ノートと呼ぶにはおこがましいほどの質の悪い紙が厚紙で綴じられたものだった。志穂はそれを私に手渡した。
 ノートには、戦時中の朝鮮での日々が小さな文字で克明に綴られていた。その中にお坊さまと出会った日の下りがあった。

  ――四月十八日、日本へ帰る日が近づいている。戦争は終わった。日本軍は撤退を余儀なくされている。毎日が雑然として落ち着かない中で、私の仕事も今はない。そんな中、私は偶然、一人のお坊さまと出会った。朝鮮人と思われるそのお坊さまは、日本語学校を整理するために後片付けをしていた私の元へ突然やって来て、お布施を乞うた。
 私はなけなしのお金をはたいて、お坊さんに手渡した。お坊さんはそれが嬉しかったのか、私に説教をしてあげるといい、15分ほど説教をしてくれた。不思議な韻律を伴ったその説教に、私は痛く感動し、説教が終わってからも体の震えが止まらなかった。そのことをお坊さまに告げると、お坊さまは1冊の本を私にくれた。タイトルをみると、『ちゃぱちゅちゅぱ』とわけのわからない言葉が日本文字のひらがなで書かれていた。
 「その本は、苦しくてどうしようもない時、読みなさい。ただし、欲を持って読むと、災いが起きます」とお坊さまは拙い日本語で私に言った。
 お坊さまにお礼を言い、本を受け取ると、お坊さまは風がそよぐようにして私の前から去って行った――。

  ノートを読み終えた井森は、『ちゃぱちゅちゅぱ』の本を手に取り、再度見直してみた。ただし、頁はめくらなかった。朝鮮のお坊さまは、志穂の祖父に対して、お布施をもらったことと説教に感動してくれたことへの感謝を込めてこの本を祖父に送った。その時、お坊さまは、『ちゅぱちゅぱ』に幸運と希望の念も併せて込めたはずだ。だが、人は成功を収めると、何故かそれに満足せず、より金に固執するようになり、欲望が増殖してしまう。お坊さまは、志穂の祖父に、「苦しくてどうしようもなくなったら読みなさい。ただし、欲を持って読むと、災いが起きます」と伝えた。
 志穂の祖父も父も、追い詰められた苦しい状況の中で『ちゅぱちゅぱ』のことを思いだした。その結果、幸運が舞い込み、苦境を乗り越え成功した。だが、人間だれしも欲望には限りがない。さらなる欲望に取りつかれた時、『ちゃぱちゅちゅぱ』の本に潜む精霊たちによって滅ぼされてしまったのではなかったか……。
 井森はそのことを志穂に話して聞かせた。もちろん、私の勝手な推理だと断って。
 志穂は、「今は、この本に頼らなくてよかったと思っています。この本を開いた時、経営の悩みや金銭的な苦しみがスーッと音もなく引いて行く感じがしました。祖父や父のことがなければ、私は何の抵抗もなく、この本を眺め、この本に操られて経営を行ったと思います。けれど一時的に成功しても、私もまた祖父や父と同様に、欲望のまま突っ走ったに違いありません」と語り、「編集長、この本の精霊たちを慰め供養する方法ってありますでしょうか。私の代でこの本を最後にしたいのです」と言った。
 彼女を満足させる答えなど井森に用意出来るはずがなかった。だが、霊能力者や超能力者の力を借りても無意味だかと考えている今、思いつくことは一つしかなかった。
 「私があなたにご提案出来ることは一つしかありません。その本を元の場所に安置させてやることです。朝鮮のそのお坊さまの元に返してやるのが一番いい方法だと思います」
 「朝鮮のお坊さまの元にですか?」
 「そうです。精霊たちに安住の地を与えてあげることが大切だと思います」
 「でも、私はその場所もお坊さんも存じて上げません」 
 「これは私の勘ですが、その本を持って韓国にいけば、きっと見つかると思います。いや、先方が見つけてくれると思いますよ」
 何の確信もなかったが、井森は志穂にそう言った。
 彼女は納得したような、しないような顔で、「どちらにしても一度、韓国へ行ってきます」と言い、初めて笑顔を見せた。

 斎藤志穂から手紙が届いたのは、それから二カ月後のことだ。晩秋の冷たい風が吹き、枯葉が地面を覆い尽くす、いつの間にかそんな季節になっていた。
 封筒を開き、便せんを取り出す時、なぜか彼女の顔が浮かんだ。手紙の書体は彼女と同様に美しく綺麗だった。私は仕事を放り出して読み始めた。

  ――韓国へあの本を持って行きました。とりあえず思い付いたのが首都のソウルです。編集長のおっしゃっていたことを信じたわけではありませんが、私もまた、この本の精霊たちが安住の地を求めているのではないか、そんな予感を抱いていました。
 でも、ソウルにもお寺は無数にあります。何の情報もなく、何の知識のない私にそんなに簡単に見つかるとは思っていませんでした。ところが、ソウルに降り立って、何となくソウルの繁華街を歩いていた時のことです。人混みが途絶えた場所に来た時、突然、声をかけられました。韓国のお坊さまでした。

 その年老いたお坊さまは、私の顔を見て、流暢な日本語で「わざわざありがとうございます」と頭を下げたのです。わけがわからず、「は……?」とポカンとした表情をして突っ立っていると、そのお坊さまは、「わざわざ日本から本をお届けくださいましてありがとうございます」と言いました。バッグから慌てて本を取り出し、「この本のことですか?」とそのお坊さまに聞きました。
 「はい、そうです」とそのお坊さんが言うので、そのまま手渡しました。編集長が言っていた、相手が見つけてくれるというのはこのことだったのか、とその時、思いました。
 本が私の手から離れた時、一瞬ですが不思議と体が軽くなった感じがしました。
 本を受け取ったお坊さまは、いつの間に去ったのか、私の前から消えていました。ずっと長い間あった、体を絡め取られるような感覚が消え、私は旅行者に戻り、ソウル観光を楽しみました。
 以上が私の報告です。『ちゃぱちゅちゅぱ』はもう私の手許にはありません。経営の危機は乗り越えられそうにありませんが、頑張って再チャレンジしてもっと素晴らしいケーキ店をつくるよう頑張りたいと思います。その時はぜひ、ご来店ください。ありがとうございました。

 井森は手紙を読み終えて安堵した。理解不能な本の話だから誰も信じないだろうが、たとえ信じてもらえなくても、彼女が救われたことへの確信を得たことで、井森の気分は一気に晴れやかなものになった。

〈了〉

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?