哀愁のギター弾き夜明けに死す 後編

高瀬 甚太

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 井森公平の元に、ヒゲの浩太に関する情報がたくさん寄せられていた。その中にはみどりからのものがあり、原野警部から得たものもあった。
 編集の仕事を終えるとすでに時刻は午後8時を数分過ぎていた。井森は江西みどりと共に、事務所の中にいた。事務所といってもマンションの一室である。それほど広いわけではない部屋の中で、パートの時間が過ぎたみどりがノートにメモを記していた。
 みどりは、今回のヒゲの浩太の事件の一部始終をまとめていた。
 「これまでにわかったことを一緒に整理してみようか」
 井森がみどりに向かって言うと、みどりは、これまでのことをまとめたノートを井森に差し出した。
 「まず、ヒゲの浩太こと、仲井間浩太だが、非常に恵まれた幼少時代を過ごし、名門私立高校、K大学とエリートコースを歩んでいる。ニューヨークで経営の実務を学び、帰国後は父親の経営する会社に入り、役員となり、ゆくゆくは父親の後継者になるはずだった。それが、どういうわけか、ニューヨークから帰国した後、父親の会社には入らず、一時行方不明になっている。帰国して間もない年に、父親が捜索願いを警察に提出した」
 隣に腰かけたみどりが、井森に対して疑問を口にした。
 「浩太はどうして行方不明になったのですか。誘拐とか、事件性はあったのですか?」
 「父親もきっとそれを心配したのだろうね。だから警察の力を借りようとした。しかし、その捜索願いは三カ月ほどで取り下げられている。浩太が家に戻ったと思われる」
 「でも、それは、はっきり、そうとはわかっていませんよね」
 「ああ、しかし、日本に帰国した浩太の心境に何らかの変化が起こったことは想像出来る。その後、彼は、再び家を出ている。父親の跡を継ごうともせず、この頃から放浪の生活に入ったようだ」
 「それって、ギターの弾き語りをして生活していたということですか?」
 各地の古い新聞記事を広げて井森が言った。
 「そうだろうな。彼はあらゆる地域で弾き語りをしている姿を目撃されている」
 「信じられないですね。大邸宅、大会社の経営者、地位も名誉も、今まで学んだ多くのことを捨ててホームレスのギター弾きになるなんて」
 「普通では考えられないことだ。だが、彼は一般の人とは価値観が違っていたのだろう。自由にギターを弾いて歌を歌って暮らす、そのことに生きる価値を見出していたのじゃないだろうか」
 井森はノートから目を離すと、大きく伸びをして立ち上がった。
 「それにしても、いったい彼に何があったのだろうか……」
 ひとりごとのように言うと、井森は静かに目を閉じた。その様子を見て、みどりが井森を案じて言った。
 「編集長、だいぶお疲れのようですね。今日はこのぐらいにしておきましょうか?」
 閉じた目を大きく開けると、井森は再びノートを手にした。
 「いや、そう時間はかからないよ。もうすぐ謎が解ける。しばらく付き合ってくれ」
 みどりは井森を見上げながら、
 「でも……」
 と呟くように言った。
 「仲井間さんのことをいくら調べても、彼が亡くなった状況にはつながらないと思うのですけど」
 「そうかも知れない。ただ、私は彼の過去に、彼の死の謎を解く何かがあるような気がしてならない」
 時計の針が9時30分を刻んだ時、井森は突然、思い付いたように声を上げた。
 「浩太は、子供の頃からずっと父親の言いなりで生きてきた。唯一、中学時代の三年間を除いて。それはその後、彼を知る親しい友人が現れていないことからも充分考えられる。斉藤雄一、彼こそが浩太の唯一無二の親友だったのだろう。彼は、高校に進学した後も、友人である斉藤に連絡を取ろうとした。だが、斉藤は浩太の父親との約束があり、また、浩太のためを思って浩太から離れて行った。
 斉藤が自分から離れた理由を浩太が知ったのは、アメリカから帰国した後だったと私は思う。浩太は、父親への反発と、将来に対する漠然とした不安に駆られて家を飛び出した。家を出て自由な生活を満喫した浩太は、もう父親の元には戻ろうとは思わなかったのではないか。一時的に、家に戻った彼は再び家を出た。そこから彼の流浪生活が始まり、歌と演奏の生活が始まった――」
 椅子に腰を下ろした井森は、すっかり冷えてしまったコーヒーを一気に喉の奥に流し込んだ。
 「むろん、これらは皆、私の憶測でしかない。しかし、浩太の自由への切実な思いは私にも容易に想像出来る。しかし、わからないのは、定められた運命に逆らってまで、なぜ、そんなに自由が欲しかったのかということだ。支配者としての父親への反発なのか、それとも単に自由への憧れだったのだろうか。
 彼は一体何を求めて放浪したのだろうか。家から持ち出した唯一の財産であるギターを弾いて、彼は路上の演奏者として各地を歩き、人気を博した……」
 「私もテクニックだけではない、何かを浩太の歌と演奏から感じました。何か、胸の奥が温かなやさしさで満たされるような、それでいて懐かしいものを浩太の歌と演奏から感じました」
 浩太の演奏には聴く人の心を満たす何かがあった、みどりの言葉に井森も同調した。
 「彼は故郷である大阪に帰り、歌とギターで一躍人気者になった。父親や同族の人間たちは、報道によってそれが浩太であることを知ったに違いない。しかし、彼の死を知った後も、彼を知る人間たちは誰一人として名乗り出て来なかった。父親の談話は一切どこにも掲載されていない。また、同族の人間の感想も一切なかった。警察が身元確認のために実家に問い質しても父親は一切受け付けなかったようだ。いくら勘当した息子とはいえ、そこまで冷徹になれるものだろうか」
 「浩太がホームレス同然の人間だったからでしょうか」
 「そうかも知れない。だがそれにしても妙だ」
 「何が妙なのですか?」
 「彼はなぜ、今、この時期に大阪へ戻って来たのだろうか」
 「懐かしかったのじゃないですか。生まれ故郷の大阪が」
 「そうかも知れない。だが……」
 井森は天を仰いでため息を一つついた。
 「彼は死に場所を探していたのじゃないだろうか。それで大阪にやって来た……」
 「死に場所ですか?」
 「ああ、彼は死を求めていたのじゃないか、そんな気がするんだ」
 みどりの脳裏にギターを奏で、歌を歌うヒゲの浩太の姿が思い浮かんだ。     
    
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  「編集長、例の心斎橋の件だが、解剖結果が出て、猛毒性の毒物が体内から検出された」
 夕方近く事務所を訪れた原野警部が、ヒゲの浩太の情報を伝えた。
 「猛毒性……?」
 井森が問い返すと、原野警部は、
 「鑑識の報告では、フグの毒ではないかということだ。不思議だよ。亡くなる前、彼がフグを食べたなんて話、どこからも聞こえて来ないのに」
 「フグ? 今、フグの毒と言いました?」
 井森が問い返す。
 「ああ、フグと言ったが、それがどうかしたのか?」
 井森は、原野警部の手を握って、
 「フグですか? なるほど、それでわかりました」
 と言う。原野警部は、握られた手を見つめたまま、ぽかんとしている。 
 「編集長、どういう意味だ。もっと詳しく教えてくれ」

  数日後の正午、京橋にある斉藤の店に原野警部他、捜査員数名が急行した。
 「斉藤、仲井間浩太、自殺幇助の容疑で逮捕する」
 逮捕状を手にした原野警部に、斉藤は抵抗することもなく素直に応じた。
 心斎橋の歌人、ヒゲの浩太の死と自殺を幇助した斉藤の逮捕は、その後、新聞紙上で大きく報道され一時期話題になったが、特に興味深く取り上げられたのは、二人の友情についてであった。
 
 「私、今でもわからないんですけど……」
 みどりが疑問を口にする。それもそのはずだ。みどりの中で事件の謎は謎のまま残っている。
 みどりの疑問に応えるように、井森が事件の一部始終を話して聞かせた。
 「最大の謎は、ヒゲの浩太こと仲井間浩太の死だった。ひっかけ橋の袂で、瞬時のうちに命を失い、川に落ちた時、彼はすでに絶命していた。その死の謎がどうしても解けなかった。しかし、解剖所見でそれがフグの毒による死であったことがわかり、それを聞いて、すべての謎が解明されたと私は思った。
 解剖によってさらにわかったことがある。浩太は肝臓ガンに冒されていたということだ。しかも、かなり重症で末期に近いものであったことがわかった。余命いくばくもないと悟った彼は、死を前にして故郷である大阪、唯一の友である斉藤に会いにこの街にやって来たのではないだろうか。
 原野警部から聞いた話では、浩太は斉藤に自分を殺してくれるよう依頼したという。だが、斉藤は浩太の依頼を断った。そりゃあ、そうだろう。いくら末期とはいえ、友人を自分の手で殺したいと思う人などいないだろうから……」
 斉藤が客に連れられて心斎橋筋へやって来て、ヒゲの浩太の路上コンサートを見た時、その時、彼はまだ、ヒゲの浩太が仲井間浩太とは気付いていなかった。先に気付いたのは、浩太の方だった。
 演奏の最中、浩太は、聴衆の輪の中に斉藤がいることに気が付いた。浩太は、演奏をしながら斉藤のそばに近付き、声をかけた。仲井間浩太とは思ってもみない斉藤は、最初こそ驚いたが、仲井間浩太と知ると、浩太の肩を抱いて喜んだ。
 二十数年ぶりの出会いから数日後、再び心斎橋筋に出た斉藤は、演奏を終えた浩太から相談を受けた。
 「斉藤、俺を殺してくれ」
 斉藤は驚き、次には笑った。
 「冗談にもほどがあるぞ」
 しかし、浩太は本気だった。なおも執拗に斉藤に懇願した。
 「断る。好き好んで友だちを殺したい奴がいると思うか」
 だが、浩太はめげなかった。斉藤には、何故、彼が死に急ぐのか、その理由がわからなかった。
 「ばかやろう。何が死にたいだ。甘ったれるな!」
 斉藤の脳裏に浩太との中学時代の思い出が甦った。

 中学校に入学して間もなく、斉藤は浩太の存在を知った。クラスの中で孤立し、唯我独尊、誰とも交渉を持たない浩太に、斉藤は強い反発心を覚えた。秀才でエリート面したボンボンに対する嫌悪感のようなものが斉藤の中で強く働いたのだろう。彼が大会社の御曹司だと知ってからは尚更だった。
 放課後、浩太を呼びだした斉藤は、浩太に決闘を迫った。喧嘩が強いだけが取り柄の斉藤にとって、クラス、学内に自分の力をアピールするためにも、クラスの中でとりわけ目立っていた浩太は格好の標的になった。
 しかし、浩太は斉藤の挑発には乗って来なかった。斉藤は、浩太に馬乗りになって、殴った。だが、殴っても蹴っても浩太は抵抗しなかった。
 「腰抜け!」
 殴り疲れた斉藤が浩太の元を離れようとした時、突然、浩太が叫んだ。
 「斉藤くん、俺と、俺と友だちになってくれないか!」
 顔中血だらけになった浩太が、唇から血を垂れ流しながら叫ぶのを聞いた時、斉藤は、思わず耳を疑った。
 ――こいつ、殴られ過ぎて頭がおかしくなったのじゃないか。
 呆然と突っ立っている斉藤の前に近付くと、浩太はしっかりとその手を握り締めた。

  厳格な父親の前で、浩太は子どもの頃から従順な息子だった。欲しい物は何でも与えられる、その代償として、子どもならではの自由が浩太には与えられなかった。小学生時代は塾通いに追われ、中学校に入ってからもずっとそれは続いていた。そんな生活が当たり前だと思っていた浩太は、中学校に入学して愕然とする。自分が通っていた有名私立の小学校とは違い、公立の中学校には様々な人種が入り交じって存在していた。
 浩太の父は元々、私立の名門中学校に通わせるつもりでいた。それが書類送付の手違いで希望する中学校に入ることが出来なくなり、その他の私立中学校ではあまりにも遠いということもあり、公立の中学校に入学することになった。
 浩太にとって、斉藤との出会いはとても新鮮なものに思えた。小学校時代、これといった親友を得ることが出来なかった浩太は、中学校に入学してすぐに不良と噂の高い斉藤にからまれ、あろうことか、決闘を申し込まれた。
 自分とは真逆の斉藤に浩太は惹かれていた。浩太には斉藤がいかにも自由な生活をしているように見えたのだ。これまで人に殴られたり罵倒されたりしたことのなかった浩太は、殴られ、蹴られ、罵倒されているうちに、浩太は斉藤の中に、たとえそれが敵意であったとしても、自分に対する真剣な思いを垣間見ることができた。これまで浩太の周辺にはそんな人物は存在しなかった。
 斉藤は、暴行した相手である、浩太がつきまとってくることを面倒に思った。邪険にしても、怒鳴り上げても、浩太は平気で近寄って来る。金持ちのボンボン特有の気まぐれと思い、いずれは去って行くだろう、と高をくくっていた。だが、斉藤がどれだけつっけんどんに扱っても浩太は平気でやって来た。そのうち斉藤は、少しずつ浩太の奥底にあるものが見えてくるようになった。
 浩太との付き合いは斉藤の側にも大きな変化を呼び起こした。浩太と付き合い始めてから、彼は喧嘩を一切しなくなった。悪い連中との付き合いもなくなり、浩太と一緒に勉強に取り組むようになった。
 中学を卒業する頃には、学年の1位、2位を浩太と競うまでになっていた。小学校時代には最下位を独走していた斉藤の驚くべき変貌に周囲の人間たちは驚きを隠せなかった。
 母一人子一人の貧しい生活ゆえに斉藤は幼い頃からほとんど勉強をして来なかった。どれだけ頑張っても進学できるわけではない。どうにもならない。そう思って来た。
 だが、浩太と出会い、浩太に触発されて共に勉強をするようになって、斉藤は目覚めた。どんなことでも基礎が分かってくると理解が早まる。斉藤は自分の学習能力に自信を持つようになった。浩太との激しい競争が彼の学力をさらに向上させた。
 しかし、二人の絆は中学卒業と共に断ち切られた。
 浩太の父が、中学卒業と同時に浩太に私立の有名進学高校への進学を命じ、斉藤に浩太との付き合いを断つよう命じたからだ。
 斉藤は公立の高校に進学すると同時に浩太とのの付き合いを絶った。浩太の父との約束もあったが、浩太の将来をおもんばかっての行動だった。
 斉藤の思いを知らない浩太は戸惑っていた。斉藤に連絡がつかないことに不審を抱いた浩太は斉藤の自宅を訪ねた。だが、彼はすでに転居してその家には住んではいなかった。 
 以来、浩太は斉藤に会っていない。

        6

  浩太は、子どもの頃から寡黙な男だった。人との付き合いが苦手で、常に一人でいることが多かった。しかし、その反面、心のどこかで友だちを求める気持ちが強かった。そんな浩太を満たしてくれたのが斉藤だった。斉藤には、浩太にはない人生を生き抜く力があった。幼い頃から生活苦の中で育ってきた斉藤は、中学生にして、すでに並み居る大人を押しのけるほどの生活力があり、生命力があった。それが浩太には眩しく映った。
 斉藤と付き合うことで、浩太の中の生命力が雄々しく声を上げ、力強く生きられるようになった。生まれて初めて生きているということが楽しく思え、感情を露わにすることができるようになった。
 何よりも浩太がうらやましく思ったのは、斉藤には自由があることであった。浩太にはそれが存在しなかった。常に家名を背負い、父親の期待を担い、決められたレールを歩かなければならないという宿命が浩太にはあった。重くのしかかるそれが浩太の自由を奪っていた。
 斉藤と離れ、連絡が途絶えたまま、高校生活を孤独に過ごしているうちに、いつしか浩太は、生きる意欲を失い、希望さえも見失った。
 アメリカから帰り、父の会社へ重役として初出社する直前、浩太は父から斉藤のことを聞かされる。
 父は、浩太に、これからは有益な人間以外付き合ってはいけないと、浩太に申し渡し、例として、中学時代の斉藤を挙げた。
 「おまえのことを思って因果を含めて斉藤と別れさせた。あんな連中とは金輪際付き合ってはいけない」

と強く申し渡す父の言葉を聞いて、浩太はショックを受けた。浩太は、父の話を聞くまで、ずっと、斉藤が自分を見捨てたのだとばかり思っていたのだ。
 ――斉藤に謝りたい。
 父に対する恨みなど何もなかった。父は自分の考えに基づいて動いただけだ。責める気持ちにはなれなかった。ただ、斉藤を悪く思った自分を恥じ、斉藤に謝らなければ、その一心で家を飛び出した。
 そんな浩太の気持ちなど知らない父親は、浩太が誘拐されたのではと思い、警察に相談をした。警察は浩太の家に待機し、身代金要求の電話を待った。
 一週間後、浩太が家に戻って来た。父は、浩太の帰還を喜ぶどころか、浩太に対して、身勝手な行動は慎めと強く戒めた。
 斉藤に会うことが出来ず、謝罪さえ出来ないまま家に帰った浩太にとって、父の言葉は一種の引き金のようなものになった。彼は今度こそ帰らないつもりで家を出た。書き置きを残して――。
 書き置きには、今まで世話になったことへの礼、自分の生き方、人生を見つめてみたい、このまま家には、もう帰らないつもりだと記した。
 父は浩太の残したそれを読んで、「青臭いことを」と罵るように言い、浩太の残した書き置きをくしゃくしゃにするとゴミ箱の中へ投げ捨てた。すぐに帰って来るだろうと高をくくっていたのだ。

  ギターとわずかなお金を懐に浩太の流浪の旅が始まった。出発点は山陰だった。鳥取から島根へと進み、山陽方面を目指した。途中、駅前で、盛り場で、田舎町の家の前で、浩太は、様々な場所で叙情豊かにギターを奏で、歌を歌った。集まった聴衆は、浩太の用意した小さな箱の中にお金を投げ入れ、浩太を感激させた。
 浩太の音楽は、感謝の音楽であると言えた。聴き入る多くの人にありがとうの言葉を伝える心豊かな楽曲だった。聴き入る人は浩太が歌と曲に託したメッセージに心を動かし、お金を投げ入れるだけでなく、握手を求めてくる人も多かった。
 浩太はどんな場所でもギターを弾き、歌を歌った。ほとんど人の存在しないような山の中や野原で演奏しても、不思議なことにいつの間にか人が集まって来た。そして心づくしの金が投げ入れられた。
 浩太はギターを奏で、歌を歌うことによって、生命を謳歌することが出来た。生まれて初めて、生きていることを実感し、深く感謝するのだった。
 浩太の父は、浩太が二度目の家出をした時、あえて失踪届を出さなかった。最初のうちはすぐに帰って来るだろうと思っていたものの、そうではないことを知った時、父親は、浩太が経営者として不適格であると断じた。
 しかし、たとえ経営者として失格であっても息子に対する愛はどうだったのだろうか。捜索もせず、浩太の失踪に対して何のアクションも起こさなかった浩太の父は、真に薄情な親だったのだろうか――。
 浩太が大阪に出没するようになり、その存在が話題になった時でさえ、仲井間家は何の動きも見せず、浩太が亡くなったと知った後も、誰も遺体を引き取りに来なかった。
 息子に対する失望がそうさせたのか、息子を見捨ててしまったのか。死後から三日、仲井間浩太の遺体は、霊安室で両親が引き取りに現れるのをずっと待ち続けていた。

  井森が推理した通り、斉藤は事件の一部始終を自白した。
 あの日、斉藤は決心をした。浩太を殺そうと思っての決心ではない。浩太を安らかに眠らせてやりたい。そう思っての決心だった。
 亡くなる前日、斉藤は浩太のためにフグを調理し、用意して待っていた。斉藤の店は居酒屋兼小料理屋といった感じの店で、様々な料理の中にフグを使った料理も数多くあった。フグを扱うには、通常の調理師免許の他にフグ調理の資格免許が必要となる。もちろん斉藤はその両方を取得していた。
 フグの中でもっとも高級とされるトラフグを使い、てっさ(ふぐ刺し)、白子、唐揚げ、ふぐちり(てっちり)にして、浩太の演奏が終わった後、自分の店で食べさせようと思っていた。
 浩太を車で店に連れ帰った斉藤は、閉店した店内で浩太のために用意したフグ料理を調理した。
 斉藤の作ったフグ料理は絶品だった。余すことなく食べた浩太は、再び、斉藤の運転で心斎橋に帰った。
 フグの肝に含まれる毒成分としてテトロドトキシンがある。人間がテトロドトキシンを体内に摂取した場合、約20分から3時間程度で症状が現れる。その後、麻痺は急速に進行し、24時間以内に死亡するとされている。
 心斎橋に帰った浩太は、しばらくして口唇や舌の先、指先などに軽い痺れを感じた。やがて運動麻痺などの症状が起き、橋の袂から動くことができなくなった。そのまま呼吸困難になり、血圧降下に見舞われ、全身の麻痺症状、骨格筋の弛緩、さらなる呼吸困難、血圧の大幅な低下で意識を喪失し、やがて呼吸停止となった。橋から川へと転落したのが午前5時だった。
 ジョギングの走者は、たまたま通りかかった人たちで事件には関与していない。
 井森の推理は、原野警部の推理として報告され、原野警部はその功名をさらに高めることになった。

        7

  事件は解決し、斉藤の罪も確定した。友を思う斉藤の心情が裁判官の心を動かし、殺人事件としては異例の執行猶予付きの判決を受けた。
 この事件は友情犯罪として、しばらくの間、新聞や週刊誌の紙面をにぎわせたが、やがて消えた。
 浩太の遺体は、事件後しばらくして内密に仲井間家に運ばれ、密葬された。しかし、仲井間家の墓に納骨されたかどうかは定かではない。
 井森が、みどりと連れだって京橋の斉藤の店に行こうと思い立ったのは、事件から二カ月後のことだった。
 「先生、何か気になることでもあるのですか?」
 みどりの質問に井森は笑って応えた。
 「たまには美味しいフグ料理も悪くないと思ってね」
 だが、みどりは井森の言葉をそのまま鵜呑みにはしていなかった。斉藤の判決を知った時から、急に井森に変化が現れたからだ。
 「あらっ……。編集長、お店がありません」
 京橋に降り立ち、斉藤の店に向かったが、すでにその店は閉じられており、閉店を告げる貼り紙が入り口に張られてあった。
 驚いたみどりが隣の店の扉を叩き、斉藤の店が閉店していることについて訊ねた。
 「ああ、お隣さんね。事件の後、記者が大勢訪ねて来るので仕事にならへんとぼやいてはったけど、なんのなんの、ようはやっていましたわ。それもあってかどうかわからへんけど、急に羽振りがようなって、つい一週間前、店を閉める言うて、私のとこへ来ましたわ。毎日、満員でよろしいがな、何でやめはんの? と聞きましたら、もう店をやる必要がのうなった、これからは沖縄へでも行ってゆっくりしますわ、そない言うて引っ越しをしやはりました。うらやましい限りですわ」
 六十がらみの髪の毛の薄い店主は疲れた顔で、うらやましいを連発した。
 京橋の雑踏を歩きながら、井森は一人自問自答していた。井森が時折みせる癖とはいえ、みどりは、いたたまれなくなって井森に訊ねた。
 「先生、おかしいですよ。京橋へ来て、斉藤さんの店を訪ねたのには何か訳があるのでしょ。隠していないで教えてくださいよ」
 京阪モールの一階にある喫茶店に足を向けた井森は、コーヒーをオーダーするとみどりに言った。
 「これは私の推測で、何の根拠もない話だが――」
 みどりは神妙な顔をして井森を見つめた。
 「浩太は確かに末期ガンに見舞われていた。それは確かだ。だが、だからといって本当に命を絶ちたかったのだろうか。斉藤は本当に浩太に頼まれ、彼を殺害したのだろうか。それが気になって、今日、それを確かめるためにここへ来た」
 「でも、先生、それは元々、先生の推理で、警察でも実証され、裁判でも判決が下されたことじゃないですか」
 「そりゃあそうなんだが……」
 「何が気になることがあるのですか」
 少し怒気を帯びたみどりの言葉に井森はしばらく沈黙した。
 「斉藤さんの浩太さんに対する友情が気に入らないとでも言うのですか」
 みどりは、今にも井森に飛びかからんばかりの形相をしている。
 「そうなんだ。それが気に入らないんだよ、俺は」
 「何てことを言うんですか! 斉藤さんに失礼ですよ」
 「斉藤は誰かに頼まれたんじゃないか、私は、そう思い始めている。斉藤の判決を聞いてから後のことだ」
 「殺人なのに執行猶予が付いた。そのことが理由ですか?」
 「ああ、最初からそれを見込んでの殺人だったんじゃないかと思い始めてね」
 「そ、そんなバカな……」
 「斉藤は誰かに依頼されて浩太を殺した。そうじゃないかと思っている」
 みどりがヒステリックな声を上げた。
 「だ、誰に頼まれたと言うのですか? 浩太さんを殺して得する人なんて誰もいませんよ」
 「そうかも知れないと思っていた。だが、いたんだよ、一人だけ」
 「一人だけ?」
 みどりの素っ頓狂な声が店内に響く。井森は構わず話を続けた。
 「浩太の父だよ。浩太の父は、中学卒業時、斉藤に会っている。斉藤に因果を含めて別れさせた経緯もある。その時……、これはあくまでも推測だが、浩太の父は斉藤に大金を渡している可能性がある。
 浩太の父は、浩太が大阪に現れる以前から浩太の情報をつかんでいたと思われる。それでも地方にいる間は、誰も仲井間家の息子だとは思わない。だが、浩太は大阪へ戻って来た。世間体を気にする名門、仲井間家のことだ。たとえ勘当したとしても仲井間家の息子がホームレスになってギターを弾いていると知れてしまったら名門の家系に傷がつく。会社の経営にも傷が付きかねない。それを心配した浩太の父は、再び斉藤を捜し出し、浩太を殺してくれるよう依頼した。
 斉藤も最初はずいぶん迷ったに違いない。だが、父親の差し出す大金に目が眩んだ。実際、斉藤は金に困っていたと思う。判決の後、気になって調査したところ、店の経営は最悪な状態まで落ち込んでいて、闇の借金も膨れあがっていた。
 父親からの情報を得て、斉藤は心斎橋に向い、偶然を装って浩太の前に現れた。何も知らない浩太は再会を喜んだ。そこで斉藤は、浩太が末期ガンであることを知った。安らかに死なせてやりたい。斉藤の心の中には多分、その気持ちも強くあっただろう。だから様々な方法を画策した。だが、結局、斉藤が選んだのは、料理人として恥ずべきふぐ料理による殺人だった。
 演奏を終えた浩太にふぐ料理を食べさせた斉藤は、夜明け前に浩太は死ぬ、そう確信していたはずだ。それで翌朝早く、ジョギング走者に混じって浩太の様子を見に行った。
 最初、斉藤はドキッとした。浩太が道頓堀に架かるひっかけ橋の袂にいつもと変わらない様子で立っていたからだ。だが、近付いてみてすでに死んでいることがわかった。浩太は毒に冒され、立ったまま、静かに息を引き取っていたのだ。ジョギングを装って浩太に近づいた斉藤は、立っている浩太を走りながら少し押した。ただそれだけで浩太は人形のように川に転がり落ちた。
 浩太の父は息子の死を確認した後、斉藤にお金を届けたと思う。それは多分、斉藤が一生食うに困らないぐらいの金だったのだろう。斉藤はすぐに引っ越しては気付かれると思い、事件の終息を待って引っ越した……」
 「それって先生の推測ですよね。私はそんな作り話、信じたくありませんから」
 みどりはそう言って怒った。
 「浩太の父はどんな思いで斉藤に依頼したのだろうか。末期ガンの息子を早く楽にさせたかったのか、それとも仲井間財閥の息子と知れる前に殺してしまいたかったのか、自分の跡を継ごうとしない息子に失望と怒りを感じての依頼だったのか……、それは私にもわからないが――」
 店内の喧噪が始まる午後6時台に突入したのをみて、井森は、みどりに席を立つよう促した。顔を覆ったままのみどりは、井森の言葉が聞き取れていない様子で、身動き一つしない。そんなみどりを置いて井森は、足早にレジに向かった。

〈了〉

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