啓介、拾った恋を探す

高瀬 甚太

 目を覚ますと、見知らぬ女が傍で眠っていた。茶髪のいかにも水商売の女といった雰囲気の女だ。化粧の香りがプンと鼻を突いた。
 わけがわからないまま、ともかく小便に行こうと啓介が寝ぼけ眼で立ち上がると、何と素裸だった。パンツすら穿いていない。念のため布団を上げて女性を見ると、女性も素裸のまま眠っていた。
 「おい、姐さん。起きてくれ」
 肩を揺らせて起こすと、ようやく女性は目を覚まし、裸の啓介を見て、「キャッ」と声を上げた。
 慌てて飛び起きた女性は、布団の周りに取り散らかした衣服を拾い、
「何、見てんのよ。あっち向いてて。それに、あんたも、いつまでも××をぶら下げていないで服を着なさいよ」
 大声で怒鳴り上げる。かなり気性の荒い女だな、と啓介は思ったが、素直に従って、服を着た。
 「申し訳ない。何も覚えてないんだ」
 女性が衣服を身に着けたのを見て、啓介は素直に謝った。どう、申し開きをしても、素裸で男と女が寝ていたのだ。謝るしかないと思った。
 女性は三十代前半に見えた。色の白いグラマーな姿態が啓介の眼に焼き付いている。髪の毛は茶髪だが、よく見るとそれほど崩れたタイプには見えない。気の強そうなところはあるが、なかなかの美女だと啓介は感心した。
 「本当に何も覚えてないの?」
 茶髪の美女が聞いた。啓介は首を大きく振って答えた。
 「申し訳ないが、何も覚えてないんだ。あんたが覚えていることがあったら教えてくれ」
 四十歳になったばかりの啓介は、十年前、一度だけ結婚したことがあったが、浮気がばれて離婚している。一年未満という短い結婚期間だった。以来、啓介は女性と縁遠いまま四十を過ぎた。
 「昨日の夜、えびす亭に行ったところまでは覚えている。いつものように酒を呑んだ。覚えているのはそれだけだ。あんたとどこで出会って、なぜ、素裸で一緒に寝ているのか、まるで見当が付かない」
 思い出そうとしても無理だった。
 「あんた、すごく酔っぱらっていたからね。連れて帰るの、大変だったんだから」
 女性の言葉に、啓介が驚いて聞き返した。
 「連れて帰った? あんたが俺を家まで送ってくれたのか」
 「仕方がないじゃないの。あんた、えびす亭を出た後、酔いが回って正体不明になってしまって、他の人に頼もうにも私一人しかいなかったから、仕方なく連れて帰ったわよ」
 「えびす亭を出て正体不明になったのか。それまであんた、俺と一緒にいてくれたのか」
 「だって、帰らないでくれ、帰らないでくれって、子供のように泣き叫ぶんだもの。仕方なく、付き合ってやったわよ。えびす亭を出て、タクシーに放り込もうとしたら、私の腕を掴んで離さないし、本当に往生したわ」
 「まるっきり覚えてない。なぜだろう?」
 「何があったのかは知らないけど、えびす亭であれだけ呑めば、そりゃあ、酔うでしょうよ。おかげでこちらはえらい迷惑よ」
 「起きたら素っ裸だった。俺、あんたに何かしたのか?」
 女性が啓介を睨みつける。
 「あんた、本当に何も覚えてないのね。親切心で送って来た私に、あんた、私に何をしたと思う。酔っぱらっているのをいいことに、部屋へ入った途端、襲いかかってきたのよ」
 「襲いかかった――。申し訳ない。許してくれ」
 啓介は頭を抱えてうずくまった。
 「私を素っ裸にして、自分も服を脱いで、いざという時、あんた寝てしまったわ」
 エッという顔をして啓介が女性を見た。
 「じゃあ、俺、あんたと何もなかったのか」
 女性が布団の隅に置いていた週刊誌を啓介に投げつける。
 「人に散々迷惑をかけて、何もなかったのかは、ないでしょ。このろくでなし!」
 枕やら布団やらを女性にぶつけられながら、啓介は平身低頭して謝った。

 女性は増田エリカと言った。年齢は不詳だと言って話さなかったが、三十代半ばのように見えた。派手な見かけのわりに、切れ長の眼が澄んでいて化粧気も少なかった。
 エリカを喫茶店に誘った啓介は、モーニングコーヒーを口にしながら、改めて昨夜のことを詫びた。
 「昨夜のことは本当に申し訳ない。エリカさんはえびす亭によく行かれるのですか」
 部屋を出る時、エリカは化粧直しをしている。うっすらと塗った口紅の朱がなんともいえない色気を醸し出していた。
 「昨日が初めて。酒を呑んでいるといつも助べえそうなオッチャンが声をかけてくる。昨日のあんたもそうだった。最初のうち、大人しく呑んでいたのに、酒の酔いが回って来ると、しつこく私に話しかけて来るし、酒を呑ませに来る。いつもなら、『おっさん、しつこいぞ!』って怒鳴ると、シュンとするのに、昨日の夜のあんたは本当にしつこかった。マスターにも何度か注意されていたでしょ。『啓介さん、出禁にするよ』って。私が店を出ると、ベロンベロンに酔っぱらったあんたが後を追いかけて来て、『姐さん、もう少し、一緒に呑もう』と言って私から離れない。『殴られないうちにとっとと帰りな』と蹴り上げると、あんた、蹲って泣き出した。おかしな奴だと思って、放って帰ろうと思ったが、何となくそのままにしておけなくなって、肩に担いでタクシーに乗せた。すると、あんた、私の手を握って離さない。この腕、見てよ。あんたの握った手の跡、まだ残っているでしょ。仕方がないから、一緒に乗ったけど、こちらはえらい迷惑よ」
 エリカの話を聞きながら、啓介の脳裏に、昨夜のことがおぼろげに思い浮かんだ。

 ――昨日、高校を卒業してからずっと勤めていた鉄工所が倒産した。雀の涙ほどの退職金が支払われて、放り出された啓介は途方に暮れた。その前日まで、会社が倒産するなんて、従業員の誰もが思っていなかった。悪い噂は耳にしていたが、そんなもの、この時節だ。いい話なんかあるはずがない。それが昨日の朝、就業前に突然、集められ、社長が、倒産することになった、と従業員に説明した。あまりにも淡々とした話しぶりに悪い冗談を言っている、と啓介は笑ってしまったほどだ。でも、冗談ではなかった。株の投機で失敗して会社が数億の負債を抱えていたと後で聞いた。用意していたお金をもらい、会社を出ると思わず、ため息が出た。明日からどうしよう、その不安もあったが、長年働いてきた会社を突然、去る寂しさにいたたまれなかった。啓介は、どこへ行くあてもなく、えびす亭に立ち寄った。
えびす亭は、先輩に誘われて入った初めての酒屋だった。以来、啓介は、えびす亭に立ち寄ることが一つの日課のようになっていた。見合いをして、半年間、交際して結婚することになった時、啓介は結婚予定の妻をえびす亭に連れて行こうとした。だが、妻はついて来なかった。酒が好きではなかったこともあるが、立ち呑みの店につれて行こうとする啓介をなじった。自分のことをもっとよく知ってもらうために、えびす亭に案内しようと思った啓介だったが、その目論見が失敗に終わり、それが後々まで尾を引いた。
 正式な離婚は挙式して一年後だったが、すでに半年ほどで関係は悪化していた。啓介と妻とは、元々、性格の面で相いれないことが多かった。潔癖症で何事もきちんとしないと気が済まない妻に比べ、啓介は大雑把でいい加減なところの多い人間だった。
 生活こそルーズなところが多かったが、啓介は仕事だけは真面目で、休むことなくよく働いた。啓介は自分に対して細かな注文をつけてくる妻に対して、日頃から不満を募らせていた。
 ――亭主がしゃかりきになって働いているんだ。もっと亭主の気持を汲んで生活するのが妻の役目じゃないか。それを何だ。二言目には、もっとこうしてください、ああしてくださいと注文をつけてくる。俺は俺だ。女房の理想の旦那にはどうやってもなれない。女房の方こそ、俺に合わせるべきだ。誰が食わせてやっていると思っているんだ。
 心のモヤモヤを晴らすために、啓介は独身時代に通っていたホテトルで憂さを晴らした。それが運悪く妻にばれてしまった。啓介が職場でその話をし、それを聞いた同僚が自分の妻に話し、そこから啓介の妻に伝わった。
離婚の直接の原因は、啓介がホテトルで女を買ったということにあったが、それ以前、もっと早い時期に二人の関係は悪化していた。結局、一年持たずに離婚した啓介は、再び一人暮らしを始めることになった。以来、四十を超える今日まで、啓介は独身を貫いていた。
 昨夜、啓介は、えびす亭でしこたま呑んだ。翌日から仕事に行かなくてもいいのだ。そう思うと不安な気持ちと共に、ある種の解放感に襲われ、限度を逸した呑み方をしてしまった。エリカと出会う直後から、啓介はかなり酩酊していた。エリカにしつこく言い寄ったことは想像に難くない。眼の前にいるエリカは、自分が出会った中でも一番のいい女のように見えた。寄って前後不覚になっていた啓介は、必死になってエリカを口説いたのだろう。マスターが「出禁」という言葉を口にするほど、それはひどかったに違いない。
 でも、どうしてエリカは自分を助けてくれたのだろうか。啓介はそのことを不思議に思った。えびす亭で酒に付き合い、店を出てからもタクシーに乗るまで世話をしてくれた。おまけに、啓介が手を放さなかったからといえ、家まで届けてくれた。そんなエリカに啓介は襲いかかり、服を脱がせて乱暴しようとした。

 「どうして、俺を家まで届けてくれた?」
 何の特徴もない四十歳のオッサンである。金があるようにも見えないだろうし、色男でもない。エリカのような美女が、えびす亭で酒に付き合い、店を出た後も放り出さずに介抱し、家まで連れ帰ったことが啓介には不思議でならなかった。
 「ちょっとした気まぐれよ。それだけ」
 エリカの言いようが気になった啓介は、再度、エリカに尋ねた。
 「あんたぐらいの美人だ。男によくもてるだろ。それが俺みたいな男に ――、俺はそれが不思議でならない」
 髪の毛こそ茶髪で派手な印象を与えるが、よく見ると、エリカはスタイルといい、容貌といい、かなりの美女である。着ているもののセンスだって悪くなかった。
「ちょっとした気まぐれで私はあんたを助けた。ただ、それだけのこと。気にしなくていいのよ」
 投げ出すような口ぶりでそれだけ言うと、エリカは立ち上がった。
 「ごちそうさま。これに懲りてあまり呑み過ぎないようにね。縁があったら、また、逢いましょう」
 笑って言うと、なおも引き留めようとする啓介を置き去りにして、エリカは喫茶店を出て行った。呆然と見送る啓介の視界から姿を消したエリカを、啓介はなす術もなく、その場に突っ立って見送った。

 その日の夜、えびす亭に向かった啓介は、再びエリカに会えるのではと淡い期待を抱いていた。だが、この日もえびす亭は客でごった返していたが、その中にエリカの姿はどこにもなかった。
 「啓介さん、大丈夫でっか」
 客の一人が啓介に聞いた。
 「ええ、何とか――」
 マスターに酒と肴のあてを注文すると、マスターが忠告した。
 「啓介さん、今度、昨日のようなことがあると、しばらく出禁にしますからね」
 啓介はバツの悪い顔をして、ビールの大瓶と湯豆腐を受け取った。
 「昨日、何かあったんでっか? えらく呑んで、周りにしつこく絡んで、あんな啓介さん見たの初めてですわ」
 隣の客が啓介に聞いた。女房と別れた時もこれほど寂しくなかった。だが、会社が潰れてしまうと、自分にはもう何もない。そう思うと無性に寂しさが募った。誰かに絡まずにはおれなかった。誰か俺と話してくれ、俺の話を聞いてくれ――。ほとんど記憶にない中で、その思いだけが心の中に残っている。そんな自分の甘えた気持ちを救ってくれたのがエリカだった。今朝、俺はなぜ、エリカを見送ってしまったのだろうか。土下座をしてでも一緒にいてくれと、頼むべきではなかったか。啓介は今さらながら後悔した。
 離婚した妻とは関係が悪化していたこともあって、常に険悪な空気が家庭内に漂っていた。しかし、振り返ってみると、険悪な空気を作っていた要因は啓介にあったのではないか。
 啓介は妻に甘えていたのだ。もっと自分のことを構ってくれ。自分を認めろ、自分を愛せ――。しかし、啓介が妻の気持や思いに応えたことが一度でもあっただろうか。すべて自己中心に物事を考え、その通りにならないと不満を募らせ、妻に文句を言い立てた。
 すべてが自分に非があるとは思えなかったが、啓介のせいで離婚に至ったことは間違いない。
 別れた後も、せいせいしたという気持ちが先に立って解放感に浸った。そのため、長い間、啓介は妻のことを思い出すことはなかった。しかし、時間が経つと、妻が自分にしてくれた様々なことを思い出すようになった。見えないところでずいぶん尽くしてくれていたのだと知った時、啓介は愕然とした。常に自分のことしか頭になかった啓介には、妻の気遣いややさしさに気付く余裕がなかった。

 「啓介さん、今日はあまり呑まない方がええですよ」
 隣の客が気遣って言う。ありがたいことだと、啓介は思った。人の思いやりを素直に聞けていたら、離婚もしていなかったし、どこかで、いい女と巡り合っていた可能性だってあったはずだ。今までそれがなかったのは、相手を気遣う気持ちに欠けていた、そんな気持ちに欠けていた自分の方にある、 そのことに啓介はようやく思い至った。
 隣の客に礼を言って、啓介はマスターに尋ねた。
 「マスター、昨日、迷惑かけた女性ですが、時々、この店に来ますか?」
 「いや、昨日、初めてやないかな。派手やけど、えらいべっぴんさんが入って来たと言うんで、みんな、注目してましたわ。新地か、どこかで働いているんやないかと思ったけど、そんな女性に、啓介さんが猛烈に絡むもんでハラハラしました。女性は、年は若いけど、大人でんなあ。酔っぱらって絡んでくる啓介さんを上手にいなしてましたわ。ところで、一緒に店を出ましたけど、あの後、どうしやはりました?」
 啓介は、家まで送ってもらって朝まで過ごしたと言おうとして一瞬、口ごもり、
 「いや。あの後、別れました」
 とさりげなく答えた。
 「そうでっか。それは残念でしたね。それにしてもええ女やった」
 マスターにしては珍しく饒舌だった。マスターの目から見ても、いい女だったのだろう。啓介は返す返すも、あのまま別れたことが残念でならなかった。どうして連絡先だけでも聞いておかなかったのか――、今も後悔していた。

 二カ月、失業保険を受給した後、啓介は、東大阪市にある鋳物工場に就職した。鉄工所で働いてきた経験はここでも立派に生きた。職場にもすぐに馴染むことが出来、心配していた給料も思いのほかよかった。生活が安定すると、落ち込んでいた気持ちはすぐに回復した。
 それでも贅沢はしなかった。今まで真剣にやっていなかった貯金に精を出すようになり、再婚を考えるようになっていた。
 エリカとはあれ以来、一度も出会えていない。だが、啓介はエリカのことを一度も忘れたことがなかった。
 えびす亭に行くと、口癖のようにマスターに聞いた。
 「あの女性、来ていませんか?」
 「あれ以来、一度も来てないよ。たまたま寄って、えらい目にあったから、もう来ないんやないですか」
 マスターは冷やかすように言う。マスターの答えは決まってそうだった。
 客に尋ねても同様の答えが返ってきた。
 「もし、あの女がこの店にやって来たらどうするんや」
 客の一人に聞かれたことがある。
 ――どうするつもりなんだろう。結婚を申し込んでも、相手にされないだろうし、付き合うにも自分ではつり合いが取れない。一緒に呑みたいだけなのか、呑んだ勢いで迫りたいのか。はっきりしない、優柔不断な気持ちが邪魔をして、何も考えられなかった。
 恋い焦がれるという表現がピッタリの自分の気持ちに、啓介は戸惑いを感じていた。
 恋すると、相手のことはもちろんだが、自分のことを真剣に見つめるようになる。様々な負の意識が、そのたびに頭をもたげた。
 女にモテた記憶がない。子供の頃からそうだ。鏡を見ると、いつもガッカリした。いかり肩、大きな顔、四十になったばかりだというのに、前頭部が禿げかけている。細い眼、分厚い唇、エラの張った顎、体格こそ立派だが、足は短く、太い――。いいところなどまるで見つからない。啓介は、別れた妻の言葉を思い出した。
 「もっと自信を持ってください。あなたは、自信のなさとコンプレックスで、あなた自身の良さを殺してしまっている」
 見合いの後、啓介が妻に言われた言葉だ。あの時は、妻が何を言おうとしていたのか、啓介にはまるでわからなかった。てっきり断ってくると思っていた妻が、結婚を承諾した。妻が見つけた、自分の良さとは何か――。それをずっと考え続けてきたが、とうとうこの年まで見つけることが出来なかった。
 その時、啓介はハッとした。エリカは、なぜ自分に酒を付き合ったのか。 しつこく迫る自分を蹴とばして、店を出れば、それでよかったのではないか。わざわざ一緒に店を出て、タクシーに乗せてくれ、腕を握り締められたとはいえ、嫌なら絶対、ついて来ないはずだ。
 部屋に入り、自分を寝かせてくれようとした。なぜなのか、なぜ、エリカは、会ったばかりの自分にそこまでしてくれたのか――。
 素裸で一緒の布団に寝ていた。いつでも帰れたのに帰らなかった。なぜ――。今頃になって疑問がふつふつと湧いてくる。
 会いたい、もう一度会いたい。切実に思う気持ちが、啓介をえびす亭に走らせた。

 生活が落ち着き、貯金も貯まって来ると、ゆとりが出て来て、自然に自信が湧いてくる。それが顕著に啓介の言動に現れていた。
 「啓介さん、最近、何や知らん、大きゅうなりましたなあ」
 えびす亭の客の一人が言う。
 「俺、また、太りましたか」
 お腹の出具合を気にしながら啓介が言うと、
 「違いますがな。人間が大きくなったと言っているんです」
 「人間が大きい?」
 「以前は、引っ込み思案のところがあって、地味で暗いところが目立ったけど、今の啓介さんは、妙に明るくて自信に満ちている。それに以前にはなかった周囲に対する気配りもできるようになった」
 職場で主任に登用され、部下の面倒をみるようになったことが影響しているのかと、啓介は思った。七人の若い工員たちの指導をし、世話をしているうちに、前々からあったコンプレックスや自信のなさは、知らず知らずのうちにどこかへ吹き飛んだ。
 それだけではない。仕事に自信が生まれるに従って、自分のことより、部下のこと、上役のこと、会社のことを考えるようになった。えびす亭でもそれは同じだった。以前なら、一人で黙々と酒を呑み、他の人間のことなど歯牙にもかけなかった。だが、今は、店の連中の多くに声をかけ、冗談が言えるようになっている。それもこれもエリカの存在が大きかった。
 エリカに会って以来、啓介はずいぶん変わったと思う。もしかしたらエリカは自分を好いてくれいたのではないか。一連の彼女のあの時の行動を、啓介は自分に都合のいいように捉え、そうすることで自信を深めていた。あんないい女が俺を好いてくれていたんだ。そう思うと自然に活力が湧いてきた。
 だが、そのエリカとは二年近くも会っていない。えびす亭にもあれきり、やって来なかった。
 啓介は、一時、エリカを探そうと躍起になったことがある。エリカを探し出して、結婚を申し込むつもりでいた。振られても構わなかった。いや、振られて当然だろうとさえ、思っていた。こちらの一方的な思い込みであっても、それはそれで構わない。大切なことは人を真剣に愛することだ。これまでの啓介に一番欠けていたものだ。それさえあれば、妻とも別れていなかったはずだ。
 人を愛すると、自分のことよりもその人のことを大切に思うようになる。嫌われるとか、好かれるということではない。その人の思いをしっかり受け止めてあげることができるはずだ。そうすれば妙な誤解など生まれないし、真摯に向き合えるようになる。

 一年後、啓介は再婚をした。年齢も年齢であったから、入籍だけ済ませ、新婚旅行だけ、一週間休んで海外に出た。
 ハワイのオアフ島で、啓介は妻と共に海を見て過ごした。朝日を眺め、夕日を眺め、共に語り、共に砂浜を歩き、生涯、変わらぬ愛を誓った。
 「それにしても、あんな場所でお前に会えるとは思っていなかった。これも縁だなと思ったよ。もう一生、お前を放したくない」
 啓介の言葉に呼応するかのように、妻が言った。
 「私だってそうよ。食堂で働いていたら、いきなり、この味噌汁を作った人に会わせてください、と言うでしょ。店員さんに言われて、どうせ文句を言われるのだろうと覚悟して、私ですが――と言って店に出たら、あんただった。本当にびっくりしたわよ」
 「会社の近くのあの食堂には毎日通っていたけど、一カ月前から味噌汁の味が変わった。どこかで味わった味噌汁だ、と思ったけれど確証が持てなかった。毎日、朝昼夜と三食食べているうちにようやく確信が持てた。この味はお前の作った味噌汁だと」
 「十年以上前のことなのに、よく覚えていたわね。感心するわ。でも、久しぶりにあなたを見て驚いたわ。すっかり印象が変わっていたから」
 「この十数年、しっかり反省したよ。お前には本当に申し訳ないと思っている。今度こそ、お前に逃げられないよう頑張るつもりだ」
 会社の近くに大衆食堂がある。啓介は、鋳物の工場に勤務するようになってからというもの、毎日、三食、その店で食事を済ませていた。味噌汁の味が変わったのが一カ月前のことだった。店内からは厨房が見えなかったが、どうやら料理の作り手が変わったらしい。他の料理はともかくとして、味噌汁の味が妙に気になった。啓介は、結婚していた頃、妻の作る味噌汁が大好きだった。どこがどうというわけではなかったが、ワカメと豆腐、味噌汁が絶妙のハーモニーを醸し出していて、その味をことあるごとに懐かしんできた。毎日通っていた食堂の味噌汁を、それまで啓介はあまり好きではなかった。ドロンとしていて舌にしつこく絡んでくる。それが、作り手が変わった途端、啓介が切望していた味に変わった。最初は、単なる偶然だろうと気に留めなかったが、毎食、食べるうちに徐々に確信に変わった。妻の味だと。
再会した妻は、心なしか痩せていたが、十年と言う歳月を感じさせない程度の変容だった。啓介は、妻を誘い、以前の非を詫びて、改めて結婚を申し込んだ。さすがに妻は即答しなかったが、何度か会ううちに、啓介が変わったことに気付き、再婚を承諾した。
 エリカとの再会はとうとう果たせずにいたが、妻との再会は果たすことができた。いつしか啓介はエリカのことを、自分に啓示を与えてくれた天使ではなかったかと、思うようになっていた。
 天使の啓示があったからこそ、啓介は少しずつ変わることが出来た。妻との偶然の再会も単なる偶然とは思えなかった。
 「帰国して、大阪へ帰ったら、俺と一緒に呑みに行かないか」
 啓介が話すと、妻は、
 「どんなところ?」
 と興味を持った。啓介は、妻が怒るかも知れないと思いながら言った。
 「えびす亭という店だよ。立ち呑みの店だ。その店にお前をつれていって、俺の仲間に紹介したい。俺の日本一の女房だと」
 以前の妻なら怒ったかもしれない。だが、長い年月が妻を変えたのだろうか。妻は怒ったりしなかった。小さく微笑んで、
 「あなたと一緒なら、どこでもいいわよ」
 と、啓介の肩に頬を寄せながら甘えて言った。
<了>


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?