死が二人を分かつまで

高瀬 甚太

 ――妻の名前は文子。結婚したのは、私が二十三歳で、文子が二十二歳の年だった。
私たちの仲を取り持ってくれたのは三歳下の妹で、文子と妹は同じ大阪の病院で看護師をしていた。
 知り合って結婚するまで四年ほどの月日を必要とした。そのうち三年ほどは常に妹と一緒で、二人きりで話すことなどほとんどなかった。大人しくてまじめそのものの文子に、その頃の私はまだそれほど興味が持てず、妹の友だち程度にしか考えていなかった。
 定時制高校に入学したのは十九歳を過ぎてからのことだ。それまでいろんな仕事をしてきたがどれも長続きせず、中卒では仕事が限られることから、思い切って定時制高校を受験することにした。
 中学校を卒業してすぐに大阪へ出た私は、二年ほど勤めた会社を辞め、寮を出て、安アパートを借りて一人暮らしを始めた。学校へ入ったのはよかったが、バイト暮らしだったため、たちまち生活に困窮した。
 高校の職員室の前に貼られていた社員募集の案内を見て、神崎川にある小さな貿易会社Mの試験を受けることにした。バラックのような建物の二階が事務所だった。社長と専務と社員が二人だけの小さな会社、だが、ドアを開けて入った時の事務所の印象がよかった。社長を含む全員が「ようこそいらっしゃい」と笑顔で迎えてくれたからだ。その笑顔を見て、緊張がほぐれ、リラックスして面接を受けることができた。
 筆記試験がなく、社長と専務、二人を前にしての面接だけで終わった。試験を終えて席を立とうとすると、社長が言った。
 「明日から来れますか?」
 「今日からでも来ますよ」と、無職だった私は即答した。
 翌日から私は、貿易会社Mで働き始めた。
 中学を卒業して二年ほど働いていた工場を現場主任との衝突で退職した。現場主任の理不尽な物言いと中卒を馬鹿にする態度に我慢できなかったのが衝突の原因だった。その後、夜のバイトを中心に働いたが、ウエイターやボーイの仕事に興味を持てず、転々と職を変えた。
 それに比べてMはいい会社だった。給料こそ安かったが、待遇は悪くなかった。その頃の私は、三度のご飯と部屋代が払えればそれだけで充分だった。神崎川の会社の近くの安アパートに転居して、昼は貿易会社、夜は学校と、本格的に新しい生活をスタートさせた。
 それまではブルーカラーで、作業着が中心だったからネクタイなどしたことがなかった。だが、貿易会社ではそうもいかない。白いシャツとネクタイのホワイトカラーとして仕事をするようになった。主な仕事は営業で、荷物の運搬、整理も私の役割だった。面接で感じた通り、社長も専務も、その他のスタッフもみんなやさしくていい人ばかりで、私は仕事に学校に充実した日を過ごすことができた。環境に恵まれると精神状態もいい。私の尖がった部分はこの会社で働くことでかなり癒された。

 定時制高校三年の夏、盆休みを利用して、妹たちと共に田舎へ帰ることになった。天王寺駅で妹と待ち合わせをしたのだが、その時、妹は文子を一緒に連れて来た。文子とはその時が初めてではなく、これまでにも何度か、妹と共に会っていた。せいぜい食事をするぐらいだったから、会話もほとんど交わしていない。それでも文子に対する印象は悪くなかった。飾り気がなく、明るい文子は、俺に対しても、妹がそう呼んでいたこともあったが、出会った当初から私のことを「ちゃん」付けで呼んだ。
 自己紹介が遅くなったが、私の名前は、貝原俊美という。その私を文子は常に「俊美ちゃん」と呼んだ。妹以外の女にそんな呼び方をされたことのなかった私は、最初、そんな呼び方をされることに大変戸惑った。だが、一切屈託のない文子は、私が嫌な顔をしようが、無視しようが、平気で「俊美ちゃん」と声をかけてくる。そのうち、私も慣れて来て、そんなふうに呼ばれてもあまり気にしなくなった。
 女と付き合ったことはこれまで数知れずあった。だが、長続きした女は一人もいない。ヘンコで片意地を張る性格が災いして、短期間で別れることが多かった。妹は、そんな私に呆れて、「俊美ちゃんは絶対、結婚できへん」と断言し、その後、「文子だったらわからんけど――」と笑って付け加えた。
 天王寺駅から田舎の駅まで、特急で二時間程度の距離だ。それでも電車の中は退屈で、私は、仲良く話す妹と文子を横目に、ぼんやりと窓外の景色を眺めていた。
 「俊美ちゃん。これ食べへん?」
 そんな私に文子がおにぎりを差し出した。私は一瞬、戸惑った。私にはおかしな癖があって、人の作ったものが食べられない。潔癖症というのか、自分が作ったものしか食べられない悪い癖があった。
 「文ちゃん、やめとき。俊美ちゃんは、人の作った食べ物、食べへんから」
 妹がそう言って文子を押しとどめたが、文子は平気で、
 「俊美ちゃん、食べてみて」
 と、おにぎりを差し出す。以前の私なら平然と突っ返していただろう。だが、この頃の私は、働いていた先の影響で、かなり人の気持ちを受け入れられるようになっていた。
 私は、仕方なくおにぎりを手に取った。だが、口にする勇気がなく、手に持ったまま、じっと思案していた。
 「俊美ちゃん、一緒に食べよう。ガブッといって」
 そう言いながら、文子は美味しそうにおにぎりを口にした。妹も文子の作って来たおにぎりを口にしている。私は、渋々、おにぎりを口にした。梅干の入ったおにぎりだった。口に入れると白米の香りが口の中一杯に広がった。そんな私の様子を、文子は笑顔を浮かべて見ている。
 ――美味しかった。本当に美味しいと思った。それがその時の私の素直な感想だった。
 岡山と鳥取の県境、山深い里で育った文子は、その日、私が育った田舎の海を見て歓声を上げた。文子にとって海は憧れの場所だったようだ。押し寄せる波の中へ文子は、はしゃぎながら、それでも恐々足を踏み入れた。そんな文子の姿を見て、私は思わず笑った。いつも眉間に皺を寄せて世間を斜に構えて見ている私が笑ったのだ。そんな私を妹が妙な顔をして見ていた。
 海辺の近くに建つ私の実家は、人に自慢できるほどの家ではなかった。木造平屋で築四十年、部屋も三つしかなく、四畳半が一つと六畳が二つ、田舎の家だから仕切りもなくあけっぴろげだ。台所とトイレ、風呂場もあったが、さほど大きなものではなく、新しくもない。こんなところに文子を連れて来て大丈夫なのかと、思わず妹を責めたい気持ちになったが、文子はまるで気にしなかった。すぐに母に馴染み、愛犬と仲良くなり、まるで自分の家に帰ったかのようにふるまった。
 一緒に食事をし、ゲームをし、私たちは夜遅くまで熱心に話した。話題の中心は映画だった。洋画が好きで、月に数本、洋画を見る私と同様に文子も映画が趣味で、旧い映画、新しい映画のことをよく知っていた。
映画の話で盛り上がった私たちは、翌朝、夜明けと共に浜辺へ出た。水平線に朝日の昇る様子を文子に見せたかった。
 金色に輝く朝日を見た文子は大声を上げて喜んだ。その日の朝日は特にきれいだった。神々しい光に包まれた文子は、朝日を前に目を瞑り静かに手を合わせた。その姿を見た私は、朝日よりも、手を合わせて立つ文子の方が断然、美しいとその時、心の底から思った。
 しかし、その日、一日、浜辺で過ごした文子は、夜になって高熱を出した。山で育った文子には、南紀の太陽はあまりにも強烈すぎたようだ。
その夜、私はずっと文子のそばにいた。妹たちが寝入ってしまった後も、タオルを氷で冷やして額に乗せ、水を用意して飲ませたりして、明け方近くまで看病した。その甲斐あって、文子は翌朝には熱が下がった。
 この日、文子は海に入らず、日陰に座って帽子をかぶり、首をタオルで巻いた厳重なスタイルで、妹や私たちが泳ぐ様子を眺めていた。途中で、退屈じゃないか? と声をかけたが、文子は首を振って、「見ているだけでも充分楽しいよ」と言って笑った。
 翌日も文子は泳がなかった。熱を出したのがよほど堪えたのだろう。俺はそんな文子の傍に座って、魚の話や海の話、私の子供の頃の思い出を交えて話して聞かせた。文子は興味深く聞き、時々、相槌を打ったり、質問をして、私を喜ばせた。
 母もまた、文子が気に入ったようで、自分の娘を呼ぶように、「文子」と呼び捨てにして、洗濯を手伝わせたり、買い物に付き合わせたりした。文子もそれが嬉しかったようで、せっせと母の手伝いをしていた。
 四日目、盆の終わりの日の朝、私たちは家を出た。
 「文子、またおいでや」
 母に見送られた文子は、一瞬、寂しそうな表情を見せて、さようならをった。これまで妹の友だちは数多くいたが、短時間の間に母にこれほど愛された女の子はいなかった。私はいつの間にか文子の一挙一動を好ましく見守るようになっていた。
 勘のいい妹は、そんな私の微妙な心の動きに気付いていたようだ。大阪へ戻ってしばらくして、私が夏風邪をひいて寝込んでしまった時、突然、やって来た文子に驚かされた。
 「どうしてここへ?」
 と聞くと、文子は、妹に、
 「俊美ちゃんのところへ行ってあげて」
 と頼まれたと言う。その日、文子は、散らかった私の部屋を片付け、掃除をし、料理を作り、私のために買い物をして、夜遅くに病院の寮へ帰った。
私と文子の仲が急速に進展したのは、そんなことがあってからのことだ。私たちは正式に付き合うようになった。

 高校卒業を待って文子と結婚式を挙げた。勤め先の会社の人たち、社長を含め全員が結婚式に出席し、私たちの結婚を祝ってくれた。
 私は卒業と同時に四年間務めた貿易会社を退職した。会社が嫌になって退職するのではなかった。会社の経営状況が芳しくなく、リストラしなければならない状況に陥っていたことを知り、卒業を機に自ら退職することを願い出た。それなのに会社の人たちが全員、退職した私の結婚式に出席し、祝ってくれた。
 結婚式の披露宴で、社長が、私のために三分を超えるスピーチをし、『琵琶湖周航歌』の歌を歌ってくれた。その歌がいつまでも私の心の中に残った。退職した後も、その歌を聞くと、決まって私は社長のことを思い出した。
 結婚後も文子は梅田の総合病院の看護師として働いていた。妹も同じ病院に勤務しており、文子は小児科、妹は脳外科と分かれていたが、相変わらず二人は仲がよかった。
 私は、しばらくして中津にある会社に勤務するようになった。お互いの勤め先が地下鉄で一駅と近かったため、文子とは帰宅時間を併せて待ち合わせをし、食事をして帰ることがあった。そんな時、文子は決して贅沢をしなかった。病院の近くにある行きつけの中華屋に俺を連れて行き、安くて美味しいチャーハンとラーメン、餃子を食べさせ、自分は何も頼まず、俺のチャーハンを少し食べ、ラーメンを少し食べ、餃子を三切れだけ食べた。
 結婚後、財布のひもは文子が握っていた。私は給料の中から二万円ほどを昼食代としてもらうだけだった。本当にしっかりしていた。しっかりしすぎて、ルーズなところのある私は困惑することが多かった。時折はそのことで喧嘩になったこともあった。だが、文子は生まれてくる子どものため、家を購入するため、目標を立てて貯金をしていたのだ。そのことを後になって知った私は、思わず我が身を恥じた。
 責任感の強い文子は、一日も休まずよく働いた。結婚して五年ほどした頃、文子は住まいの近くにある個人病院に変わった。総合病院は夜勤も多く、日曜や祝日も出勤しなければならず、休みが不規則だった。私と過ごす時間を大切にしたい、そう言って文子は、長い間務めた病院を退職し、個人病院へ移った。
 喧嘩をすることもよくあった。だが、いつも最後には私の方が折れた。悪いのは私だったからだ。文子は、そんな私をしっかりと支配していた。仕事をずる休みしようと思ってもさせてくれない。仕事が嫌になってやめようとしても許してくれない。パチンコが好きで暇さえあれば通っていたが、それも文子に少しずつ是正されていった。結婚して五年もすると私はまったくギャンブルをしなくなっていた。
 文子は私と一緒に行動することを好んだ。私もそうだった。文子と一緒にいると楽しかった。私たちは最初のうちこそ団地の2DKに住んでいたが、四年目に分譲マンションを購入し、引っ越した。五千万円もする高級マンションだった。部屋もたくさんあった。そのうちの一つを子供部屋にするのだと、文子は私に語り目を輝かせていた。
 ――だが、私たちに子供は生まれなかった。不妊治療を施し、これと思うことは何でもやった。だが、それでも無理だった。結婚して十五年目、私たちは子どもの誕生をあきらめた。
 無類の子供好きだった文子は、子供が生まれないと知ってかなり落ち込んだ。私はそんな文子を慰める言葉を持っていなかった。
 二人の生活を楽しもう、そう切り替わるまで少し時間を要した。ふっきれてからは、二人でよく旅行をするようになった。
 台湾、香港、タイ――。九州、北海道、北陸――。年に四回ほど、休みを利用して二人で旅に出た。旅そのものも楽しかったが、今度はどこに行こうかと、二人で、あれこれと考えることがそれ以上に楽しかった。

 母が亡くなったのは結婚して二十年目のことだ。結婚して以来、私たちは年に二回、必ず実家に帰っていた。文子と母は、本当の親子のように仲が良く、本音で言い合える仲になっていた。母親が入院した時も文子は親身になって看病し、母のわがままな言いつけを素直に聞いた。母が亡くなった時、私よりも妹よりも、誰よりも激しく泣いたのが文子だった。
 私はそんな文子に感謝した。亡くなった母もきっと同じ気持ちだったと思う。亡くなる前、母は私にそっと耳打ちをして、「文子を幸せにせなあかんよ」と言った。わかったと答えると、母は、「俊美はいい人を嫁さんにもらった」と嬉しそうに言い、顔をほころばせた。私も母と同じ気持ちだった。私は最高の女性を嫁にもらった。本心からそう思っていた。

 結婚して三十五年が過ぎても、私と文子の関係は新婚当時と何ら変わっていなかった。二人で一緒に風呂へ入り、一緒の布団で眠る。そして夜明けと共にベランダから昇る日を見る。ずっと繰り返してきたことを私たちは変わらず続けてきた。
 五九歳の誕生日を祝ったその日、「文子が還暦になる来年は、もっと盛大に祝おう」。そんな話をしていた矢先、文子は体調を崩した。何事にも一所懸命に取り組む文子は、少々のことで音を上げたりすることはなかった。「しんどい」とか「疲れた」などとこれまで一度たりとも口にしたことがない。その文子が「疲れた――」と口にして仕事を休んだのだ。異変を感じた私は、すぐさま文子を病院へ運んだ。
 診察は一時間余に上った。文子の突然の体調異変に不安なものを感じたが、それでもそれほど大病ではないだろうと高をくくっていた。だが、診断が終わり、医師の話を聞いた私は、卒倒しそうなほどに驚き、思わずその場にしゃがみ込んでしまった。
 「ステージ4のリンパ性ガンです」
 医師はすぐさま入院するように言った。
 「悪性の腫瘍が――、余命が――」
 なおも医師は文子の病状について説明を付け加えたが、パニックになっていた私にはその言葉は耳に届かなかった。
 その日から文子の闘病生活が始まった。抗がん治療が施され、文子の体力は著しく低下していった。わずかな可能性を信じて闘う日が続いた。抗がん剤治療は文子の肉体のあちこちを蝕んで行く。それでも、その治療に頼るしか術がなかった。
 六十を過ぎて、すでに定年退職していた私は、文子に付き添い、看病に没頭した。入院して三カ月目、回復の兆しを見せた文子は、その時になってようやく明るい笑顔を見せた。
 「正月は家で越せるかしら」
 文子が言った。家に帰りたい、それがこの頃の文子の口癖だった。
 医師に確認をすると、体調次第で可能だと伝えられた。私は文子を喜ばせるために、
 「今のままの状態なら帰れそうだよ」
と言って安心させた。
 年の瀬の二十九日、正月の間、家で過ごすための用意をしていた時のことだ。突然、文子が痛みを訴えた。私は慌てて看護師を呼び、医師に文子の状態を確認してもらった。
 文子の症状は再び悪化していた。家に戻る予定を断念せざるを得なくなった私は、ひどく落ち込んだ文子を見るのが辛く、そばにいて、手を握ってやるのが精一杯だった。
 「私、もう駄目かな――」
 決して弱音を吐くことのなかった文子の言葉が私を苛立たせた。
 「弱気を出したら駄目だ。絶対治る、そう信じて闘わないと――」
 と文子に奮起を促した。
 いつもならすぐに反発して言い返す文子が、この時は小さく頷いただけでほとんど言葉を発しなかった。
 徐々に衰えて行く体力と、幾度となく襲う激しい痛みに、いつしか文子は気力を萎えさせていた。
 二月、三月――。春になって、文子の体調はさらに悪化した。私は文子の世話と家の片づけ、洗濯、病院と家を奔走し、少しの時間も惜しんで文子に付き添った。
 七月になり、夏を迎えた頃、文子の体調は最悪の状態に陥った。転移と衰弱で、体中に点滴の針が通され、言葉を交わすことさえ困難になり、こん睡することが多くなった。この頃になると会話さえままならなくなった。
そんな中で文子は時折、ため息と共に、
 「死にたい」
 と洩らすことが多くなった。文子の体を襲う激痛が耐え難いほどの痛みを伴っていることを、私は文子の状態を見て知っていた。文子の痛みは私の痛みでもあった。
 医師は、そんな文子の様子を見て、「治療を続けますか?」と聞いた。
助かる見込みがないのなら苦しませずにあの世へ送り出してやりたい。心の底からそう思った。だが、希望がないわけではないと思う気持ちが、私にそうさせなかった。
 「十月になれば新薬が発売されそうだ。その新薬を使えば、画期的な効果が得られる可能性がある」
 わずかだが、光明が見えていたこともあって、私は文子に、
 「もう少し頑張ろう」
 と激励した。その頃から私と文子の間で「十月になれば」が合言葉のようになった。
 妹の娘の結婚式が九州の佐賀県で行われることが正式に決まったのが八月のことだった。結婚式を婿の実家の佐賀で行い、披露宴は行わないという報告が妹からあった。文子にそのことを話すと、
 「結婚式に出席したい」
 と切ない願いを口にした。文子は妹の娘を幼い頃から可愛がっていて、結婚する時は必ず出席するからと、以前から固い約束をしていたという。
 「じゃあ、それまでに頑張って治すようにしよう」
 私の言葉に、文子は小さく首を縦に振った。
 だが、気持ちとは裏腹に文子の症状はさらに悪化していった。九月初旬、延命のための人工透析を始めると、より強度な激痛が文子を襲った。私は、激痛に声を上げもだえ苦しむ文子の姿を正視することができなかった。それでも、私は思っていた。できるだけのことをしてやりたい。最後まで――と。
 九月の初めから、私は病院で毎日寝泊りをするようになっていた。文子は、私がそばにいると安心するようで、
 「今日からずっとそばにいるよ」
 と告げると、ニッコリ笑って、私に手を差し伸べた。痩せた力ないその手を握ると、文子の病状の重さが伝わって来るようで、思わず私は涙をこぼしそうになった――。
 妹の娘の結婚式が間近に迫っていた。そんな日のことだ。激痛に苦しむ文子が、俺の手を掴み、笑顔で言った。
 「俊美ちゃん。もういいよ。ありがとう」
 文子を叱咤激励する言葉が私の口から出て来なかった。これ以上、文子を苦しめたくない。その気持の方が勝っていたのだと思う。だが、少しでも、ほんの少しでも生きていて、私のそばにいてほしい、その気持もまた私の中にあった。
 「死なんといてほしい……」
 私は文子の手を握って叫んだ。聞こえているのかいないのか、文子はスーッと静かに目を瞑り、そのまま昏睡した。
 「文子……!」
 ベッドを揺らして私は文子の名を呼んだ。
 「文子!」
 ――文子はそのまま永眠し、二度とその笑顔を見せることはなかった。

 死が告げられた後、しばらくして妹から電話があった。娘の結婚式を無事に終えたと報告があり、記念写真を撮っていると、写真に文子が写っていた――。そう言うのだ。文子の死を告げると、妹は電話の向こうで大声を上げて泣いた。
 交際期間から入れると四〇年近くになる。文子の死を前にして、私は人生のすべてを失った、そんな思いに捉われた。
 もっと早く楽にしてやりたかった。文子の死に顔を見た時、そう思った。それほど安らかな死に顔だった。
 家に帰りたい、そう願っていた文子のために遺体を家に運び、一日、文子の遺体と共に過ごすことにした。布団に横たわる文子は、まるで眠っているかのようで、私は思わず、
 「文子、そろそろ起きないと――」
 と声をかけそうになったことが何度もあった。
 「文子、文子――」
 知らず知らずのうちに、私は何度も文子に話しかけていた。そのたびに涙がとめどなく流れ、とどまることを知らなかった。
 通夜の会場に、私は文子のこぼれんばかりの笑顔の写真を選んで飾った。
 「俊美ちゃん、あんたは、ほんまにもう――」
 私を叱りながら笑っている、そんな文子の写真だった。
 無事に通夜を終え、葬儀を終えると、地球が空転するかのような空しさに襲われた。文子がいない。その現実が未だに受け止められなかった。
 文子の骨を納めた白い箱を、しっかりと胸に抱きかかえた私は、生涯最後になるだろう言葉をその箱に向かって吐いた。
 「文子、ありがとう! 四〇年間、とても楽しかったよ!!」
<了>
※本作品は、私の愛する弟とその妻の実話です。弟の思いを代弁する形で私が書きました。義妹の冥福を祈りたい。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?