胡桃荘殺人事件

高瀬甚太

 中学時代、一時期だが井森公平は、叔母の住む北九州のY町という街で暮らしたことがある。家庭内でトラブルが起き、三カ月の間、避難するために単身で行ったものだが、これはその頃、井森が体験した話だ。

 Y町は、海と山が隣接した地域で、海に面した場所に漁村、内部に入ると田園地帯になっていて、農家が多くなる。海に面した丘には、豪壮とした高級住宅群があり、農家や漁村を見下ろすようにして建っていた。
 丘の上に立つ高級住宅群の中でも、特に有名だったのが胡桃荘だ。建物の豪壮さもあるが、地獄爺いと噂されるほど偏屈な老人と、その地獄爺いに相応しくないほどの美しく若い夫人、それに井森の中学時代の同級生、美人で有名な定中由紀子が住んでいた。
 三カ月間の決められた期間の転校であったから、この頃、井森には親しく付き合える友だちはいなかった。井森もまた、人見知りが激しく、誰とでも気楽に付き合えるような性質ではなかったため、余計に友だちができにくく、一人でいることの方が多かった。
 それでも一週間、二週間と経つうちに、一人だけ、親しく話す友だちができた。斉藤浩二という同級生だった。彼はミステリーが好きで、海外の翻訳ミステリーをよく読んでいた。井森も彼と同様に本が好きで、彼と親しくなったのも学校の図書館の中でのことだった。
 斉藤は、エドガー・アラン・ポーの作品を好んで読み、中でも世界初の推理小説と言われる『モルグ街の殺人』や『黄金虫』が好きで、井森にそのストーリーを話して聞かせることがよくあった。井森も読書が好きで、海外翻訳ミステリーの類にもかなり精通しており、斉藤とはよく激論を交わしたものだ。だが、読書量では井森の方が勝っていたものの、読解力では斎藤の方が井森よりはるかに抜きんでていた。斎藤のとても中学生とは思えない作品分析や作者への傾倒度に、井森はシャッポを脱がざるを得ず、常に聞き役に回っていた。
 斉藤は、学校の成績も飛び抜けて良く、いわゆる秀才肌だったが、それをひけらかすようなところなどなく、周囲に対する協調性もあった。井森は彼に多くのことを学び、彼のように生きたいと、彼と会うたびに思ったものだ。
 斉藤が、ある時、珍しく本以外のことを話題にした時、井森は驚いた。しかもクラスメートの女性を話題にするなど初めてのことだったので、思わず耳を疑った。
 斉藤が話題にしたのは、胡桃荘に住む、定中由紀子のことだった。定中由紀子は井森と斉藤と同じクラスで、彼女もまた学年でトップを誇る秀才として、その美貌と併せ持って学校中の話題になるような女生徒だった。
 ある時、定中由紀子が欠席したことがあった。その日、一日中、斉藤は落ち着かないそぶりを見せ、授業が終わるや否や井森のところへやって来て、「定中の家に行ってみないか」と提案した。
 定中由紀子から病欠の連絡があったと聞いて、斉藤は彼女のことが心配で仕方がなかったようだ。躊躇する井森を強引に従わせると、彼は丘の上に立つ胡桃荘に向かった。
 「由紀子とは小学校時代からずっと一緒で、彼女はその頃から常に成績が一番でぼくは彼女の後塵を拝して常に二番手だった。中学校へ入ってからもずっとそれが続き、今もそれは変わらない。小学校の頃から、彼女はずっとぼくの憧れで、それもまた未だに変わっていない。だが、ぼくは彼女とは親しく話したことがないんだ。ずっと同じクラス、同じ学校なのに――。気持ちを打ち明けようと考えたこともあったけれど、そのチャンスさえなかった。彼女の周りには常に女友だちが付きまとっていて、近づくことができなかった」
 常に冷静で沈着な斉藤が、定中由紀子の話をするときだけは人が変わったように狼狽し、普段の冷静さを失った。それも無理はないと思った。定中由紀子の魅力に参らない男などいなかったからだ。井森にしてもそれは同様だった。
 胡桃荘は、急な坂道を通り抜けた丘陵に位置する場所に立っていた。御殿といった方が正しいほどの豪壮なその建物は、近くで見るとさらに圧倒的な迫力で迫ってきた。
 西洋の城と見間違うような白亜の建物の前に立った斉藤は、チャイムを鳴らす前に一瞬躊躇した。躊躇した挙句、力ない声で井森に言った。
 「井森、やっぱり帰ろうか……」
 井森は首を振って、彼の代わりにチャイムを押し鳴らした。
 すぐに応答があった。今度は彼が答えた。
 「斉藤と井森です。由紀子さん――」
 途中で門が開き、「どうぞお入りください」と声が聞こえた。由紀子ではなく別の女性の声だった。
 門をくぐって中へ入ると広い庭があった。何という広さだろう。それに美しい。きれいに整理された木々と芝生。とても日本にいるとは思えないような景観を眺めていると、
 「いらっしゃいませ」
 と声が聞こえた。前方を見ると邸宅の前に八十歳は超えたと思われる老婆が立っていた。
 「お嬢様がお待ちしています」
 老婆は丁寧な口調で二人に言った。
 外観だけではなく、白を基調にした邸内もヨーロッパのお城そのもののように思えた。いや、お城そのものを現実に見たことはなかったが、それをイメージさせるような内観に井森たちは圧倒され、言葉も出なかった。老婆に、「ここでお待ちください」と言われた井森たちは、一階のロビーのような場所に置かれた白い革張りの椅子に体を委縮させるようにして座った。
何もかもスケールが違っていた。驚き以外、何もない贅沢な豪邸のロビーで、井森たちは迷い込んだネズミのように黙り込んで座っていた。
 「斉藤くん、井森くん。こんにちは」
 二階に続く螺旋状の広い階段を淡いブルーのドレスに身を纏った由紀子が降りてきた。意外にも元気そうだったので二人とも驚いた。
 「定中、病気じゃなかったのか?」
 斉藤が尋ねた。由紀子は、照れたような笑顔を浮かべると、
 「朝のうちだけね、病気だったのは。今はもう大丈夫」
 と言って二人に近づいてきた。
 由紀子を前にすると、斉藤は極端に口数が少なくなる。視線を下にやって、決して目を合わそうとはしない。
 先ほどの老婆がやって来て、二人の前にオレンジジュースとショートケーキを置いた。井森は、「いただきます」と言って、それをすぐに口にしたが、斉藤はジュースにもケーキにも手を付けようとしなかった。
 「心配してきてくれたんだね。ありがとう」
 由紀子は、斉藤と井森を交互に見て、お礼を言った。
 座っている場所から庭が見え、庭の下方に街が見え、その向こうに海が見えた。その日、井森たちは、由紀子の元気な姿を見て安心し、ジュースとケーキをいただいた後、すぐに定中家を後にした。斉藤は、とうとうジュースとケーキに口を付けないまま、定中家を出た。ほとんど話らしい話をしなかったのに、定中家を出た斉藤は妙に元気だった。由紀子の前では借りてきた猫のように大人しかったのに、家を離れた今は、元の快活な斉藤に戻っていた。

 由紀子は翌日から出席し、以後、ほとんど休むことがなかった。斉藤は教室ではほとんど由紀子と言葉を交わさなかった。それは井森も同様で、由紀子の周りには、常にクラスの女子が付きまとい、話したくても話せない状況だった。
 二カ月が過ぎ、井森は休みになると、ほとんど斉藤と共に過ごすことが多くなった。斉藤と井森は相変わらず読書の話をし、互いの自説をぶつけ合い論争を繰り広げるのが常だった。
 異変が起きたのはその頃のことだ。胡桃荘でボヤ火災が起き、数台の消防車が丘を登って行った。幸い火事は大したことはなかったが、その火事に巻き込まれたのか、胡桃荘の当主、定中平八郎、地獄爺いと呼ばれていた由紀子の父親が、二酸化炭素中毒で重体に陥り、病院に運ばれた。
 平八郎は、入院当初こそ持ち直して元気だったようだが、その夜、再び悪化し、翌日、夜明け前に突如、死亡した。享年八八歳だった。
 定中平八郎は、地元ではかなり著名な人であったようで、その通夜と葬式には、町中の人の殆どが集まり、通夜、葬儀に参列した。
 喪主は定中亜希子。平八郎の三番目の妻にあたる亜希子が葬儀一式を執り行った。
 通夜、葬儀とも涙を見せない亜希子を多くの人が気丈な妻だと噂し、どれほどの財産を手にするのだろうかと口々に噂した。
 平八郎と亜希子の年齢差は三八歳。親子と間違うような年齢差から、財産を狙った結婚だと話す人もおれば、どうやって偏屈な平八郎を籠絡したのかと話す、口さがない人もいた。
 斉藤は井森を誘って、その時もまた、胡桃荘へ行った。通夜、葬儀の期間、ずっと井森は斉藤と共に胡桃荘にいたが、その間、由紀子は一切、姿を現さなかった。お手伝いの老婆を見つけて、由紀子の所在を確かめたが、老婆は、「お嬢様は今日、どなたにもお会いしません」と言って、井森たちを敬遠した。
 通夜、葬儀とも粛々とすすみ、大勢の人たちが焼香し、平八郎の死を悼んだ。
 そんな葬儀の席上、由紀子は、平八郎と亜希子の子供ではなく、亜希子の前の奥さんの子供だと噂する者がいた。しかし、真偽のほどはわからなかった。井森たちが亜希子を見るのは通夜の時が初めてだったが、亜希子と由紀子は、その美しさにおいて双璧に思えた。二人は似ているようにも見え、似ていないようにも見えた。
 平八郎が亡くなっても、定中家は安泰だった。平八郎が遺した遺産は相当なものであったようだ。胡桃荘には何の変化も見られなかった。
 ところが、葬儀を終えてしばらくして、平八郎の二番目の妻であり、亜希子の前妻の藤堂ゆかりが、警察に平八郎の遺体を再調査するよう申し出た。二酸化炭素中毒で亡くなった平八郎の死は、仕組まれたものではないかと訴えたのだ。
 だが、すでに肉体が焼却され、骨となっていた平八郎の死因を再調査することは難しく、警察は、平八郎が病院へ運ばれ、治療を受けた後に亡くなったデータをもとに、その死因に一分の疑いもないと断じた。
 遺産を引き継いだ亜希子をやっかんだ、ゆかりの狂言だろうとひとしきり噂になったが、それもすぐに消えた。亜希子が遺産の一部を市と県に寄付し、なおかつ福祉施設などに寄付を申し出たからだ。
 亜希子の美談だけが先行した形になったが、平八郎が亡くなってから由紀子は一切姿を見せなくなった。学校にも出て来ず、やがて担任は、由紀子が転校したことをクラス全員に報告した。
 斉藤がおかしいと言い出したのは、平八郎の葬儀が行われている最中からだ。自分の父が亡くなったのに、一切姿を現さないことなどあり得ない。斉藤はそう言って、由紀子に何かあったに違いないと井森に話した。
 葬儀の後、学校を休んだ由紀子を心配して、斉藤は何度も胡桃荘を訪ねている。だが、いつ訪問しても、由紀子には会わせてもらえず、門前で追い返された。
 ある時、斉藤は井森に相談を持ちかけた。
 「井森、ぼくと一緒に胡桃荘へ行ってくれないか」
 井森は、斉藤が何度行っても拒否されたことを知っていたから、
 「何度行っても同じじゃないか」
 と諫めた。すると斉藤は、
 「いや、今度は夜中に胡桃荘へ行くつもりだ。ぼくは由紀子に何かあったんじゃないかと思っている。そうでなければ、会いに行ってるのに何度も拒否をするはずがない。夜中に胡桃荘へ忍び込むんだ。忍び込んで、由紀子が無事かどうか確かめる。だからきみも一緒に来てくれないか」
 と言い、「お願いだ」と言って井森の手を掴んだ。二週間後に、両親の元へ戻り、この町を、学校を離れることになっていた井森は、不法侵入罪で捕まることを恐れたが、由紀子を思う斉藤の気持ちに応えないわけにも行かず、渋々承諾した。

 その夜、井森と斎藤は、深夜12時を過ぎた時刻に胡桃荘への侵入を試みた。ひっそりと静かな胡桃荘であったが、セキュリティはしっかりしていた。侵入することなど殆ど不可能と思われたが、斉藤の執念が不可能を可能に変えた。防犯ブザーの付いた鉄の門扉を突破するのは難しいと考えた斉藤は、庭に面した崖を登って胡桃荘に行き着くことを考えたのだ。その崖は、セキュリティの必要などないほどに険しく厳しいものだった。崖の下に立ち、見上げただけで登る意欲が失せてしまうほどの岩場を前にして、井森は無理だと言って、何度も斉藤を思いとどまらせようとしたが、斉藤は動じず、淡々と登り始めた。仕方なく井森も斉藤の後に続いたが、どうせ無理だろうと、あきらめの気持ちの方が勝っていた。
 だが、斉藤は、意外にもするすると登って行く。井森も斉藤に倣って登って行った。庭に到着するまで要した時間は20分だった。急な崖を登れたことが井森には信じられなかった。斉藤の由紀子に対する思いが登らせたのではないか、とその時、井森は思った。
 庭を走るようにして進み、邸宅に辿り着くと、斉藤は由紀子の部屋は二階だと言った。一階も広いが二階も広い。どの部屋に由紀子がいるか、見当も付かなかった。だが、ここでも斉藤はその隠れた能力を発揮し、「由紀子は二階の東側、角部屋にいる」と言った。
 その根拠は、と井森が尋ねると、斉藤は、「勘だよ」と言って笑って答えた。
 東側、角部屋の下に立つと、二階のベランダに向かって、斉藤は用意していたロープを勢いよく投げた。人の人を思う気持ちは偉大だと、その時、井森は思った。斉藤の投げたロープは、二度目の投擲でベランダの角にあった突起物に引っかかり、そのロープを伝って、斉藤が登り、井森もその後を追って登った。
 もし間違っていたら、などと言うことは、この時の斉藤は一切考えていなかったようだ。確信を持って窓を叩き、小さな声で「由紀子――」と呼んだ。
 しかし、返事はなかった。
 「間違ったんじゃないか」
 井森が言おうとする前に、斎藤は窓をたたき割っていた。

 ――すべてが明らかになったのは翌朝のことだ。
 パトカーが数台、胡桃荘の前に集結し、斉藤と井森は警官たちに囲まれた。斉藤は憔悴しきっていた。それは井森も同様だった。すっかり憔悴した二人の前を由紀子が運ばれて行く。もう少し遅ければ絶命していたに違いない。駆けつけた救急車の隊員は井森たちにそう言った。

 ――定中亜希子と、お手伝いの老婆、藤本八重の二人が、殺人未遂と殺人の容疑で逮捕された。
 窓を破って侵入した部屋の中で井森と斎藤が見たものは、ロープでぐるぐる巻きにされ衰弱した由紀子の姿だった。三日間、水も食料も何も与えられず、放置されていた由紀子の肉体は限界に近づいていた。物音に気付いた亜希子と老婆が血相を変えてやって来た時、斉藤は、「由紀子は死なせない!」と吠えた。その声に二人がひるんだ隙に、素早く一階に下りた井森が警察へ通報した。二階へ戻ると、亜希子と老婆の二人が手に包丁を持ち、斉藤に襲いかかり、今まさに由紀子の命を奪おうとしていた。井森は、近くにあった由紀子が使用していたテニスラケットを手に持ち、二人の包丁を叩き落とし、斉藤と共に二人をロープでぐるぐる巻きにした。
 亜希子は逮捕され、すべてを自白した。
 「結婚をしたのは財産目当てだったわ。それでなきゃ、あんな爺さんと一緒になるわけないでしょ。でも、あの爺い、なかなか、くたばらない。業を煮やした私は、私が留守にしている間に、叔母であることを内緒にして雇っていた八重に頼んで、ボヤを起こさせ、平八郎に、火事だ、と伝えてキッチンにやって来させた。平八郎にボヤを消させている間に八重がキッチンの扉を閉め、ドライアイスに水をかけて二酸化炭素を発生させた。ボヤが大火にならないよう注意しながら八重が頃合いを見計らって消防署に連絡、消防隊は、ボヤを消し止めるために大量の放水。これで証拠は隠滅することができた。大量に二酸化炭素を吸った平八郎が生きているのをみた時は驚いたけど、致死量の二酸化炭素を吸っていたので、計画通り、その日のうちに爺いは絶命したわ。
 でも一つだけ誤算があった。娘の由紀子が感づいたのよ。ボヤで二酸化炭素が異常発生するのはおかしいと言い出して、それで私はキッチンに置いていた旧い野菜や穀物、植物が火力で二酸化炭素を放出し、それを吸い込んだためにお父様は亡くなったと話した。だが、由紀子はそんなはずはないと言い出した。警察も消防署もごまかせたのに、この娘はなんて子だ、そう思った私は、仕方なく八重と二人で由紀子をベッドにくくり付け、猿轡をはめて、水も食料も一切与えずそのまま放置した。それでも最初のうちは、八重が仏心を起こして私に内緒で由紀子に水と食料を与えていた。それを知った私は激怒し、八重に二度とするなと叱った。あの娘は私の娘じゃないんです。平八郎がよそで作って産ませた女の娘なんです。死んだってどうってことはなかったわ」

 由紀子の体調はしばらくして回復した。でも、それを井森は確認していない。その時はもう大阪へ戻っていたからだ。斉藤から連絡が来て、由紀子の無事と、その後の胡桃荘のことを聞かされた。
 ――由紀子一人になった胡桃荘を由紀子は売却し、その金で孤児たちの施設を建てた。
 由紀子は中学校を卒業した後、父、平八郎の遺産を持って、単身東京へ移り、東京で高校、大学へ進んだと言う話だ。だが、それ以後のことは斉藤も知っていなかった。そのうち、斉藤とも疎遠になり、二十年近くも会っていない。今、彼がどこで何をしているかさえもわからない。
 時折、斉藤と定中由紀子のことを懐かしく思い出すことがあるが、その記憶も年々薄れるばかりだ。
 つい最近のことだ。井森は取材の仕事で九州に行き、ふと懐かしくなって、中学時代の一時期を過ごした町に足を向けた。漁村があって農家があって、丘に高級住宅が立ち並ぶ町の形はそのままだったが、その様子はずいぶん違っていた。胡桃荘は消滅し、新しい家が立ち並んでいた。町中を歩いても郷愁をそそるものは少なかった。それほど町は進化していた。
 ただ、斉藤と読書論争を繰り返した図書館だけは当時のままの姿をとどめていた。郷愁に駆られて館内に足を運ぶと、館内には学生や社会人など、たくさんの人がいた。席に座り、本を取り出して読んでいると、「ポーはねぇ」と一席ぶつ斉藤の声が聞こえてきそうな感じがして思わず笑ってしまった。その時、井森の耳に、
 「ポーはねぇ」
 という子供の声が聞こえてきた。声のした方向に視線を向けると、中学生らしい少年がエドガー・アラン・ポーについて語っていた。懐かしくなってその少年の元に近づくと、声といい、顔といい、斉藤に似ているような気がして、思わず尋ねた。
 「きみ、きみのお父さん、もしかしたら斉藤浩二と言わない?」
 少年はポカンとした顔をして井森を見ている。
「 ごめん、ごめん。ちょっと似ていたものだから」
 謝ると、その少年が、
 「そうだよ。ぼくのお父さん、斉藤浩二だよ」
 と言う。驚いた井森は、
 「本当に 斉藤浩二と言うの!?」
 聞き直すと、少年は「そうだよ」と再び答えた。
 「お父さんはおうちにいるの?」
 と尋ねると、少年は、井森のいる反対方向を指して、
 「お母さんと一緒に向こうにいるよ」
 と答える。井森はその方向に向かって歩いた。すると、小学生らしい子供たち数人を前にして、紙芝居を読んでいる一人の男性がいた。そのそばに、それを支えるようにして座っている女性がいた。
 近づいて、その男性に注目した。間違いなく斉藤だった。井森は零れ落ちそうになる感激をこらえきれず、斉藤の紙芝居にしばらく聞き入った。
 すると、斉藤のそばに座っていた女性が井森を見て大声を上げた。
 「井森くん!? 井森くんじゃない?」
 名前を呼ばれた井森は、呆気に取られてその女性を見つめた。
 「やっぱり井森くんよ。ね、あなた、井森くんよ」
 女性がなおも叫んだ。井森の目から思わず涙がこぼれ出た。信じられない思いで二人を見た。
 ――斉藤と定中由紀子がそこにいたからだ。
〈了〉

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