ビルが哭くビルが襲う(前編)

高瀬 甚太

 たまに場末の飲み屋で酒を呑むことがある。とは言っても、それほど酒に強いわけではないから、いつも雰囲気を楽しむ程度で終わってしまう。
 その日、午後8時に仕事を終えた私は、解放感に浸りたくて、商店街を北に向かって歩いた。北に向かって歩くと、さらに賑やかになる商店街は、8時を過ぎた時間帯でも、その喧騒は変わらず、人通りも多かった。
 しかし、一旦、路地へ入ると空気が一変する。異空間に紛れ込んだような錯覚をしてしまうのだ。そんな路地をいくつか抜けた場所に、小さなネオンを灯すバーがあった。
 『さゆり』と看板がかかったそのバーは、カウンターが8席あるだけの小さな店で、その夜は三名ほどの先客がいた。
 「いらっしゃいませ」
 カウンターの中で、笑みを浮かべて迎えてくれるママの声が耳に心地良く、癒された気分になるのが常だった。
 「編集長、お久しぶりですね」
 私の顔を見るなりママが言った。仕事に追われて、二カ月ほどご無沙汰していた。
 「編集の仕事に追われていて、来ることができなかった。ママは元気にしていましたか?」
 「私は元気よ。それより、浅田さんの話、聞いている?」
 と、突然、浅田の名前が出たので驚いた。
 「浅田? 浅田さんがどうかしたの」
 浅田はこの店の常連で、探偵会社の副社長をしている。私自身、同年代ということもあり、おまけに探偵会社に興味があったものだから、同席するたびに探偵会社の実情を窺ったりして、仲がよかった。
 「仕事中に事故に遭って入院しているのよ。それも変な事故でね」
 浅田が入院したという報せを受けて、ママは浅田の入院する病院に見舞いに行ったらしい。すると、浅田の様子がいつもと違って変だったので、看護師に聞いた。
 「かなり強いショックを受けて、救急車で運び込まれて来たんです。心拍停止一歩手前の状態で、もう少し遅ければ危ないところでした。心臓は元々、あまり強い方ではなかったようです。治療して、三日ほどで回復しましたが、よほど強いショックを受けたのでしょうね。心臓は回復したものの、精神的に錯乱していて――」
 看護師はママにそう説明をして、鎮静剤を打つなどして様子を見ているということだった。
 「強いショックというのが気になるね。何があったのだろう」
 「探偵の仕事で調査をしている最中に遭遇したようですよ。どんな調査か知りませんが、何かあったんでしょうね」
 ママの話に触発された私は、浅田の入院する病院と病室の部屋番号を教えてもらい。2時間近く、ママと話して店を出た。
 翌日、私は、病院へ行く前に、浅田の会社に電話をし、浅田が関わっていた案件について尋ねた。社長は不在だったが、事務員の女性がテキパキと答えてくれた。
 ――秘密を要することですので、詳しくは申し上げられませんが、浅田は、あるビルの調査をしていました。浅田が倒れたのは、そのビルを調査中の時で、このことは警察にも届けています。事件性はないと言うことですが、調査中、二度ほど浅田から会社の方におかしな電話が入っています。
 ――おかしな電話?
 ――はい、火の玉が――、と言って一度目は電話が切れました。仕事を終えようとした遅い時間帯だったので驚きました。でも、悪ふざけの好きな人だったので、悪戯だろうと思って気にしませんでした。でも、そのすぐ後にまた電話があって、今度は、『悪霊が!』と言って切れました。慌ててこちらから電話をして、『浅田さん、何かあったんですか?』と尋ねようとしましたが、電話に出ませんでした。浅田が倒れたのはそのすぐ後です。
 ――火の玉――、悪霊――、浅田さんはそう言ったのですね。
 ――ええ、間違いありません。私がこの耳で聞きましたから。
 女性事務員の話を聞いた私は、急いで浅田の入院する病室へ向かった。もしかしたら取り返しのつかないことになる。その思いが私の中にあったからだ。
 病院は、近鉄上本町駅から歩いて数分の場所にあった。総合病院として、大阪でも名高い病院の十二階、一二〇三号室に浅田は入院していて、近々、内科から精神科に移る予定だと、案内してくれた看護師に聞かされた。
 四人部屋の窓際、一番奥のベッドに浅田が眠っていた。私が近づくと、眠っていた浅田が、驚いたような顔をして飛び起きた。
 「大丈夫ですか?」
 生気のない青白い顔に、光のないうつろな眼差しが気になって、尋ねた。
 「……」
 浅田は何も答えなかった。答える代わりにひどく怯えた。今の浅田には、私が誰であるかの判断もついていないようだった。
 しばらくベッドの隣に椅子を置いて、浅田の様子を見ていると、浅田が何事か、ブツブツと呟き始めた。何を言っているのか、まるで見当がつかなかった。
 浅田は一体、何に出会ったのか、詳しく調べてみる必要があると思った。
結局、その日、私は浅田と会話らしい会話を交わさないまま、病院を後にした。
 病院の帰り、私は浅田の勤務する『大阪浪速っ子総合探偵事務所』に寄り、電話で話した事務員の女性を尋ねた。
 事務員の女性は、社長が帰社しているので変わりましょうかと、私に言ったが、私は社長とは面識を持っていなかったこともあり、断って、事務員の女性に浅田のことを尋ねた。
 「仕事の関係上、難しいとは思いますが、浅田さんの担当していた事案について、詳細を知りたいのですが――」
 女性事務員は返事を渋った。返事を渋った後、社長に相談してもいいか、と私に尋ねた。
 私が承諾すると、女性事務員は、すぐに社長室へと入って行った。
しばらくして、私の前に社長が立った。
 「私、社長の磯崎と申します。浅田の件でお世話になっているようでありがとうございます」
 小柄だが、抜け目のなさそうな顔をした六十代前半を思わせる社長は、でっぷりとした体を椅子の上に乗せて、私に挨拶をした。
 私は、出版社の編集長であることを磯崎に告げ、浅田との関係を話した後、今日、病院へ行って、浅田の様子がただ事ではないことを知って驚いたと伝えた。
 「まったくもって、何があったか、皆目、見当がつかなくて――。でも、なんであなたがまた、浅田のことを」
 「気になり始めたら解決しないと収まらない性分でして、浅田さんを一日も早く、元に戻したい、そう思ってやって来ました」
 「解決? あなたが解決できるのですか?」
 磯崎は疑心暗鬼の表情で私を見た。それはそうだろう。探偵会社が解決できないものを一介の編集長に解決できるはずがない。そう思っているのだ。
 「断言はできません。でも、このままでは、浅田さんは廃人になってしまいます。何も手段がなければ、私が力になりたい。そう思っています」
 「うちは金は出しませんよ。それでいいんですか」
 「仕事でやろうとしているわけではありませんので安心してください。金銭の類は一切いただきません。浅田さんが最後に調査していた事案の詳細だけを私に教えてください。それだけで結構です」
磯崎はなおも疑り深い視線を隠すことなく、私を見つめたが、やがて事務員の女性を呼ぶと、その女性に言った。
 「この方に、浅田がやっていた仕事の内容について詳しく教えてあげなさい」
 磯崎はそれだけを告げると、私に軽く挨拶をして、社長室へ戻った。
 事務員の女性は、佐藤環と名乗り、私の前に茶を置くと、浅田の仕事の内容について詳細を語り始めた。
 「不動産会社から、テナントビルを調査して欲しいと言う依頼があって、浅田が担当になってその仕事を引き受けました。仕事の内容は、そのビルに入った会社や店が、短期間に出て行く、そのわけを知りたいと言うものです。三階建ての旧いビルで、築三十年が経っていますが、建物自体はしっかりしていて、一階が駐車場、二階が四室、三階が四室の合計八室の部屋があります。このビルを所有しているのが、北八不動産という会社で、管理し始めて十五年になると聞いています。以前、別の持ち主がいたのですが、その後を受けて、北八不動産が所有したその頃から、テナント客がどんどん入れ替わって、早い時は三日で、長い時でも一週間持たないといった状況が続いて、この三年ばかりはとうとう一人の利用者もいなくなりました。幽霊が出る、怨霊に祟られるといった噂が出て、それが原因で誰もこのビルを借りようとしなくなった、と不動産会社は話しています。ビルの場所自体は悪くありません。梅田と扇町の間にあって、人通りこそさほど多くはありませんが、出店したり、事務所にするには問題のない場所です。
 不動産会社が、うちへやって来て、幽霊が出るかどうか、このビルの実態を調べてほしいと頼まれたのが、先週のことです。浅田は、『宇宙へ行くこの時代に、幽霊なんているはずがない』と豪語して、その仕事を引き受けました。浅田が救急車で搬送されたのは、調査に入って、三日目のことです――。

 事務員の佐藤は、浅田が調査していたビルの資料のコピーを私に手渡し、誰にも見せないようにと念を押し、終われば返却するようにと言って私を送り出した。
 ビルの名前は『北八ビル』。現在の所有者は北八不動産だが、それ以前は香月平蔵名義になっていた。北八不動産がどのような経緯でそのビルを所有するに至ったかは、資料には載っていない。ビルを所有することになった北八不動産は、十五年前、所有と同時にビルの改装に着手しているが、途中でやめてそのままになっているとある。中途でやめた理由は何も記されていない。
 十五年の間に、テナントには百五十を超える会社や店舗が入ったが、佐藤の話にあったように、軒並み短期間でビルを出ている。しかも、噂が噂を呼んで、三年前から全室空き室になっている。正確には八年以上前から満室になったことがない。怨霊の祟りとか幽霊が出ると噂が出てからは立ち寄る人も稀なようだ。
 何かがこのビルにあるのは間違いない。それが何であるか、調べなくてはいけない。原因がわかれば、浅田の症状を改善できる可能性がある。
 私は、早速、そのビルに向かった。黄昏時の空がビルの谷間に怪しく顔を覗かせている。梅田の繁華街を通り抜けた少し裏寂れた場所にそのビルは存在する。地下鉄東梅田駅で下車した私は、ビルを目指して繁華街を歩いた。
 「すみません……」
 突然、背後から男が近づいて来て、私の肩を叩いた。驚いて振り返ると、会ったこともない人物だった。
 「お宅、どこへ行きますの?」
 細面のなよなよした中年男の親しげな言いぐさに腹を立て、
 「あなたは一体、どなたですか? 私がどこへ行こうと勝手じゃないですか」
 怒鳴るようにして言うと、男はニヤリと笑って、
 「あんたの行先によっては、関係があります」
 と言う。
 「どう関係があると言うんですか?」
 「北八ビルには近づかないほうがいいと言っているんですよ。その方が身のためです」
 「それは脅しですか? それともあのビルに行ってはいけない事情でもあるんですか」
 男は、白っぽい顔を不気味に歪めて言う。
 「あなたが、あのビルに行くのは勝手ですよ。ただ、あなたの身の安全を心配して言っているだけです。脅しなんかじゃありません。誤解しないでください」
 「忠告はありがたくお聞きしておきます。ところで一つだけ教えていただけませんか。あなたと私は初対面だ。そのあなたが、どうして私を見つけ、私の行先を気にするのですか?」
 男は、それには答えず、
 「忠告しましたよ」
 とだけ言って、足早に去って行った。
 見ず知らずの男が、私がビルへ行くのをどうして知っているのか、不思議でならなかった。しかもご丁寧に忠告までしてくれている。――男に連絡をした人間がいる。そうでなければ、私がこの時間にビルに行くことなどわかりはしない。しかも、男は繁華街のたくさんの人通りの中で、ためらうことなく私を見つけて声をかけている。
 だが、私がビルに行くことを知っている人間といえば限られてくる。浅田の事務所の佐藤という事務員と社長ぐらいなものだ。しかし、そのようなことをするぐらいなら最初からビルの情報を私に伝えたりはしなかっただろう。
 では、一体誰が――。私は思い直して、この日、ビルに行くことを取りやめ、その代わり、北八不動産について調べてみることにした。同時に、その前の持ち主と北八不動産の関係についても調べてみる必要があると思った。
時間的に、法務局は閉まっている時間帯であったことから、私は、以前、世話になったことのある天満の不動産屋、『西天満花咲不動産』に電話を入れた。
 『西天満花咲不動産』は、事務所を借りる時、世話になった不動産屋で、以来、時々だが、そこの社長と一緒に食事をすることがあった。
 ――やあ、久しぶりやね。元気にしとったか。
 受話器の向こうから大きな声が響く。社長の地声は半端ではない。10分も話していると、耳がジーンと鳴ってしばらく鳴り止まない。
 ――社長、ちょっとお聞きしたいことがあるんですが――。
 と断って、北八不動産を知っているかと聞いた。
 ――知ってる、知ってる。評判の悪い不動産会社や。
 ――評判が悪いとは? どういうことですか。
 ――これと目を付けた土地や建物を悪質な手口を使って手に入れる、それを常道として金を稼いでいる不動産会社として業界では有名や。
 私は、梅田の北八ビルについて話をした。すると、社長は、
 ――あのビルには関わらん方がいい。あのビルの元の所有者が北八不動産に騙し取られたという因縁のビあるルでなあ。その祟りかどうか、幽霊が出るやら祟られるとか言って、借り手が長続きしない。もうずいぶん長い間、誰も入ってないはずや。
 と即座に言った。それほど有名なビルなのだと驚いて、社長に、今回、知人の探偵がそのビルに調査に入って、精神的ショックを受けて病院に入院していると告げると、社長は、大きな声をさらに張り上げて私に言った。
 ――あのビルの元の所有者が、騙し取られたその日、あのビルで首を吊って自殺した。その呪いかどうか、建て替えをしようと思うと事故が立て続けに起こって建て替えることができず、内装を変えようとするとまた事故が起こるといったことが立て続けに起こっている。
 しかも、部屋を借りた人たちが次々とノイローゼになったり、病気になったりして、入居して一カ月も持たず、出て行くことが度重なって、困った北八不動産は大規模なお祓いをしたようだったが、あまり効果はなかったようだ。その後も入居してはすぐに退室と言った状態が続いて、あのビルは呪われている、何かがある、といった噂が出て、北八不動産は、売るに売れず、壊すに壊せなくて困っていると聞いている。
 『西天満花咲不動産』の社長は、話の最後に、
 ――関わったらあかんで!
 と強い口調で言って電話を切った。

 翌日、私は法務局で、北八ビルの元の所有者の名前と所在地を調べると、その足で元の所有者である香月平蔵の自宅を訪ねることにした。
 阪急沿線豊中駅で下車して、5分ほど歩いた場所が所有者の住所だった。100坪以上はあるような広い敷地を有する屋敷である。門構えも立派でかなりの旧家であるような気がする。しかし、そこには香月の名はなく、「斉藤」の表札がかかっていた。
 チャイムを鳴らすと、家の人らしき中年の女性が応答に出て、
 〈どちら様ですか〉
 と聞いた。
 「香月さんを訪ねて来たのですが、こちらは香月さんのお宅ではないのですか」
 「香月さん――? その方なら十五年前にこの家を出られて引っ越しされています。競売にかかっていたこの家を私たちが購入しましたからその時です」
 「香月さんについて何かご存じのことはございませんか?」
 「お会いしたことがありませんのでわかりませんね。ご近所のタバコ屋さんで聞かれたらいかがですか? 旧い方なので何かご存じのことがあるかも知れません」
 礼を言って、その家を後にした。
 少し離れた場所に古びたタバコ屋があった。訪ねると、九十は超えているような老婆が座っていた。「今日は」と挨拶をすると、
 「へえ、タバコは何がよろしいか?」
 と聞く。ボケた様子はなく、年齢のわりにしっかりした感じだったので安心した。
 「以前、この近くで住まれていた香月さんをご存じありませんか?」
 問いかけると、老婆は、笑顔を浮かべて、
 「知っていますよ。ずいぶん前に引っ越されましたけど」
 と間をおかずに答えた。
 「香月さんはなぜ引っ越されたかご存じですか?」
 「詐欺に引っかかって、それが元で大きな借財が出来て、家を出ないといけなくなったようですよ」
 「詐欺に遭った? どんな詐欺に遭われたのでしょう。知っていたら教えていただけませんか」
 「私もあまり詳しくは知りませんのですが、息子さんが騙されて、自宅と香月さんが持っておられた建物が担保として取られたということでした」
 香月家と仲がよかったのだろう、老婆の表情が少し曇った。
 「香月さんの引っ越し先は聞いておられませんでしょうか」
 「昔のことですよってねえ――。あ、ちょっと待ってくださいね。娘に聞いてみます」
 老婆は、ゆっくりと立ちあがると、腰をかがめて奥に向かった。
 しばらくして、老婆と共に六十代ぐらいの女性が現れ、
 「どちら様ですか?」
 と訝しげな表情で私に聞いた。
 私は、極楽出版の編集長であると告げ、香月家が所有していたビルのことで調査をしている、と説明をした。
 「香月さんのお宅は、祖父母、ご両親、息子さんと娘さんの六人家族でした。旧い家でしてね。先祖代々、この地に住んでおられた方でしたのに、息子さんがねえ――。引っ越しの際、挨拶に来られましたが、その後、祖父母の方が二人共、首を吊って自殺をされたと聞いて驚きました。ご両親は奥様の方が病気がちでしたから大変でしてね。高槻の方へ引っ越されたと聞きましたが、その後のことは何も聞いておりません」
 それ以上のことを老婆の娘は知っていなかった。丁寧に礼をして、その場を去り、私は途方に暮れた。香月家は高槻に引っ越したと聞いたものの、探しようがなく、あまりにも漠然としていたからだ。
 香月家の息子は一体、どんな詐欺に遭ったのか――。北八ビルでなぜ、祖父母は首を吊ったのか。一家は今、どこで何をしているのか、不明なことが多すぎた。
 私は梅田に戻り、北八ビルに向かうことにした。繁華街を歩きながら、再び昨日の男が現れないかと周囲を見渡した。それにしても、昨日の男の出現は不思議だった。なぜ、あの男は私を知っていたのか、また、私がビルへ行くことをなぜ知っていたのか――。
 私がビルに向かっていることを伝えた者が誰であるかということさえ、見当が付いていない。そして、一番、不思議に思うのは、私をビルに行かせまいとしたことだ。私に入られたら具合の悪いことでもあるのだろうか。――そんなはずはないだろう、と私は言下に否定した。街の中のビルである。入ろうと思えば誰でも入ることができる。たとえ、ビルの中に私に見られて都合の悪いことがあったしても、予め、除いておけばそれで済む問題ではないか。ますますわからなくなった。
 今回は、誰も私の行く手を阻まなかった。繁華街を通り抜けると少し、寂しい道になる。それでも梅田の繁華街の外れだ、それほど寂れているわけではない。歩いているうちに、目の前に三階建てのビルが見えてきた。
 古ぼけてこそいるが、しっかりとしたビルである。三階建てだが、意外に面積が広い。入口に立って見上げると、普通の三階建ての高さよりずいぶん高い気がする。
 『入居者募集』、『テナント募集』の紙が空しく揺れ、全室空き室の様子は、ビルの前に立っているだけで伝わってくる。
 しばらくビルの前に立ち、周辺を観察した。それほど広くない道に、店が数軒存在する。古本屋が一軒、細長い雑居ビルにスナックが数軒、インド料理の店、喫茶店などが軒を連ねている。しかし、それだけ店があるのに、この侘しい雰囲気はどうしたものか。
 ビルの一階は、橋げたのようになっていて、駐車場になっているが、当然のように封鎖されていて、一台の車も止まっていない。真ん中と右端に階段があり、その階段を昇ると、二階に至る。二階には四室あり、どの部屋も広い。畳で換算すると、一室あたり十五畳程度はあるだろうか。四室しかないのがもったいないぐらいの広さだ。
 真ん中の階段を上がると、二階と同じ造りになっていて、やはり四室ある。ガランとしたビルの中には、妖しさを感じさせるようなものは何もなかった。ごく普通に空き室が並んでいるだけのビルの中である。入居したテナントがすぐに逃げだすというのが嘘のように平穏な館内、誇りっぽい空気が漂っているが、別にどうということはない。それぞれの部屋を眺めてみても、ごく当たり前の空室で、何かが存在するような雰囲気などまるでない。
拍子抜けした思いで、階段を降りようとすると、三階の端に紐がぶら下がっているのが見えた。何の紐だろうか、気になって引っ張ってみると、ロープで作られた梯子が降りてきた。このビルは三階建てのはずだ。このビルの屋上に向かう梯子なのか、そう思って興味半分に梯子を上った。
 梯子を上ると、そこは屋根裏のようで、普通の屋根裏と違うのは、立って歩けるほどの高さであることだ。しかも、広い。暗くて広いので何も見えない。あきらめて梯子を降りた。結局、私は何も見つけることができなかった。
 昼間だからだろうか――。しかし、たとえ昼間であっても、妖しさぐらいは、感じられるはずだ。そう思いながら、私はそのビルを後にした。

 一度、事務所へ戻った私は、暗くなるのを待って、もう一度、ビルへ行くことにした。昼間の空気の中では感じられなかったものを夜なら感じられるかも知れない。そう思ったからだ。
 繁華街は、夜になるとすさまじいほどのエネルギーで人の流れを誘う。ネオンの色、呼び込みの声、音量を上げた店の音楽が――。昨夜はさほど感じなかったのに、今夜は異常に思えるほど激しく感じられる。
 「忠告を聞かずにまたやって来ましたね」
 不意に背後から声がしたので、振り返ると、昨夜の男だった。なよなよとした中年男である。私はその男を無視をするようにまっすぐに歩いた。男は足早に私を追いかけてきた。
 「どうなっても知りませんよ」
 私は男に構わず、速度を速めて歩いた。振り返ると、いつの間にか、男の姿は消えていた。
〈つづく〉

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