泣くな北摂の虎

高瀬甚太

 「てめえら、いい加減にしやがれ!」
 男の激しい口調が周囲を凍りつかせ、小さな酒場はそれまでの空気を一変させた。見たところ、一般人ではないような服装、坊主頭と凶悪な面相から見て、怒り心頭の男は極道のように見えた。
 魚料理を専門に扱う居酒屋で、店内はカウンターが8席、テーブル5席とそれほど広いわけではなかったが、テレビで紹介されたこともあって終日満席で混み合っていた。
 「いちゃいちゃするんやったら、別の店へ行け! 目障りなんじゃ」
 四十代と思われるその男はかなり酩酊していた。白いブレザーに真っ青なシャツ、首に掛けた十字架のペンダントが揺れていた。
 「何でよその店へ行かないといけないのですか。僕たちはこの店へ来て、まだ30分も経っていません」
 世間知らずの学生は、恋人の前でいい恰好をしたかったのだろう。精一杯強がって、言いがかりをつけてきた男に抵抗した。
 激しい物音がして、学生がテーブルの上に倒れ込んだのはその直後だった。学生は殆ど失神寸前の様子で、仰向けになってテーブルの上に伸びていた。店員が急いで飛んできて、殴った男を止めようとしたが、男は店員までぶん殴り、割って入ろうとした客を蹴とばし、店長を放り投げた。騒然となった店の中に私もいたが、暴走する男を止めることもできず、呆然と男が暴れ回る様を眺めていた。
 パトカーがやって来た時、すでに男は店から逃走していた。学生と店員、客の三人が救急車で病院へ運び込まれ、テーブルや椅子など店内の被害も甚大だったことから、警察は暴力男を即刻手配した。
 暴れ回る男をたまたまスマートフォンで激写していた客がいた。その客が警官に暴力男の映像を見せると、警官は映像の男を見て、
 「北摂の虎や!」
 と声を上げた。

 男が発見されたのは、翌朝、明け方近くのことだった。日本橋の路上で道路に座り込み、酒を呑んでいるところを逮捕された。男の周囲には、ホスト風の男たち数人が倒れていた。警官が事情を聞くと、「こいつらがいちゃもんつけて襲ってきたので仕方なしにやった」と男は素直に答えた。ホスト風の男たち数人は、救急車で運ばれ、「おやじ狩りのつもりで襲ったが、めっちゃ強くて殺されるかと思った」と、腫れ上がった顔をひん曲げて自白した。
 男は大阪南警察署に搬送され、そこで事情聴取を受けた。男は警察署では有名人だった。誰もが顔と名前を知っていて、「北摂の虎、また、お前か!」と絶句した。
 ホスト風の男たちを殴った罪は過剰防衛であると判断されたが、殴られ蹴とばされ、投げられたホスト風の男たちは告訴を取り下げた。それは居酒屋もそうだった。店長ほか店員、学生、客、男と関わり、被害を受けた男たちは皆、一斉に告訴を取り下げた。そのため男は一週間、留置場で取調べを受けただけで無罪放免となった。
 事件の一部始終を聞いて、私は不思議でならなかった。店を壊された店長は怒り心頭であったし、学生も客も店員も、男に殴られ、蹴とばされ、投げられた男たちは誰も怒りに震えていたはずだ。それがなぜ、告訴を引っ込め、無罪放免にしたのか。私には理解できなかった。
 その後、私はその男、北摂の虎の存在をすっかり忘れ去っていた。興味がなかったこともあるし、関わりになりたくないという気持ちも強かった。
 ところが、またしても私は北摂の虎に遭遇したのである。新作で、都市の療養温泉、いわゆるスパを取り上げることになり、弁天町駅にほど近いスパに取材に出かけることになった。いつもはカメラマンと二人で出かけるのだが、この日は私一人だった。体験してみて、その上で取り上げるかどうか決めることになっていた。従って入場料はきちんと払って中に入り、客の立場で取材を開始した。
 最初、私はそのスパを普通の銭湯とそれほど差のないもののように考えていたが、そうではなかった。入口こそ普通の銭湯のように見えたが、館内は恐ろしく広く豪華であった。全国の有名な温泉を模した風呂があり、しかもその中には砂風呂など特殊な温泉もいくつかあった。館内の混雑はそれほどでもなかった。平日であるということを差し引いても客の入りは少なかったが、その分、ゆっくりと温泉を堪能することができた。
 大浴場に入浴していると、バシャッと大きな音がして私の隣に一人の男が入浴した。その男の顔をちらりと盗み見した私は驚いた。北摂の虎であったからだ。
 関わりにならない方がいい、そう思った私は無視を決め込んでいたが、そうもいかなかった。北摂の虎の方から声をかけてきた。
 「すんまへん。ちょっとよろしいか?」
 丸坊主の頭に細い目、太い眉、岩のような顔が目の前に迫るとさすがに怖気づく。
 「はい……。何か?」
 神妙に答えると、北摂の虎は、私の動揺などお構いなしに、
 「一人でここへ来ましたんか?」
 と聞いてきた。
 「ええ、一人です」
 できるだけ余計な言葉を口にしないように気を付けながら返事をした。
 「見かけによらずええ度胸してまんな。ほな、私と一緒に将棋でも指してもらえまへんやろか?」
 度胸がある? スパへ来るのに度胸があるとはどういうことなのか。判断に苦しんだが北摂の虎を前にしてそんなことなど聞くことができない。
 スパにはさまざまな設備があり、囲碁や将棋の部屋もあった。そこで将棋を指そうと北摂の虎は言う。下手に断るとどういう目に遭うかわからない。そう思った私は、
 「すみません。私、将棋はできませんので」
 丁重に断ると、北摂の虎は明らかに不満げな顔をして、
 「わしもあまりできまへんがな。へたくそ同士が将棋を指すのもええん違いまっか」
 と言って立ち上がり、「さあ、行きまひょ」と、私の手を引っ張った。その時、私は初めて男の背中一面に彫られた弁天様の刺青に気が付いた。
公衆浴場は刺青を入れた客を禁止しているのではなかったのか。思わず声を大にして叫びそうになったが、北摂の虎はそんなことなどお構いなしに「早う行きまひょ」と私を誘う。
 北摂の虎が私を誘う意味がわからなかった。将棋ができないと断っているのに、委細構わず私を連れて出る強引さはこの男独特のものか、仕方なく私は北摂の虎に従って歩いた。
 将棋や囲碁をやる部屋は館内二階の奥まった場所にあり、面白いことにそこもまた浴室になっていた。風呂に入りながら将棋を指すわけである。北摂の虎は、浴室で将棋を行いたかったのであろうか。嬉々とした表情で入浴すると、将棋盤を浮かべ、駒を盤に並べた。
 「先行はわしや。よろしいか」
 答えるより先に北摂の虎は歩を動かして攻めてくる。負けじと私も歩を動かす。
 「なーんや、知っているやおまへんか」
 ごっつい北摂の虎の顔が柔和な表情を浮かべる。何という気持ちの悪い笑顔だろう、そう思いながら将棋を指していると、いきなり外が慌ただしくなった。
 「こらぁっ、虎、こんなとこにおったんか!」
 ドアが開いて、数人の男たちがなだれこんできた。腰にタオルを巻いただけのいずれも屈強な素っ裸の男たちである。私は言葉を失い、首まで浴槽に埋めて体をブルブル震わせていた。
 「そのままでちょっと待っといてな」
 北摂の虎はそう言い残すと、タオルを巻かずに浴槽を出て、男たちに対峙した。
 壮絶な光景であった。背中に刺青を背負った男たちが素っ裸で乱闘を始めたのである。龍が躍り、鯉が跳ね、観音菩薩が揺れる。刺青が舞い踊る様は壮観で、私はガラス越しにじっと見入ってしまった。これだけ乱闘を続けていても、誰もやって来ない。担当者や責任者が止めに現れてもいいと思うのだが、それもない。小一時間過ぎた頃、涼しい顔でドアを開けて入って来た北摂の虎は、息切れ一つせず、再び、将棋盤に向かうとすぐさま、「王手や!」と大きな声で言ってのけた。
 うめき声を上げて廊下に倒れている男たちを踏み、見下ろすようにして将棋の部屋を出た北摂の虎は、「今度は何しまひょ?」と私に聞いた。怖くなった私は、
 「そろそろ帰りますので……」
 と丁重に言うと、北摂の虎は残念そうな顔をして、
 「そうでっか。また会いまひょ」
 と言って手を振った。
 いや、もう結構です……、と言いかけて止めた私は、笑顔で「また、よろしくお願いします」と答えてその場を後にした。
 スパを出る時、もう一度入口を見ると、『極道様大歓迎』と店名の横に紙が貼られていた。道理で客が少なかったはずだと思ったが後の祭りだ。

 北摂の虎は、暴力団員かと思っていたがそうではないことを友人の原野警部に聞いてわかった。
 「北摂の虎は以前は暴力団組員だったこともあるが、親分が死んだ後、堅気に戻っている。今はクラブで用心棒をやっているようだが、あの調子では長続きしないだろう。喧嘩は日常茶飯事で、警察でも北摂の虎にはうんざりしているよ」
 原野警部もまた、北摂の虎にうんざりしているように見えた。何度か接触があったのだろう。思い出すのも嫌だというふうに首を振った。
 「先日、北摂の虎が店で大暴れしているところに出くわしたのですが、その後、警察に逮捕され、やれやれと思っていたら無罪放免になりました。誰も告訴しなかったためですが、なぜ、彼らは告訴しなかったのでしょう。不思議で仕方がありません」
 私の疑問に原野警部は、笑って答えた。
 「すべて北摂の虎の姉のおかげだよ」
 「北摂の虎の姉?」
 「彼女が迷惑をかけたすべての場所に出向いて、金を払って穏便に解決しているからだよ。金をもらえば文句はない、という奴らが多いからね」
 「そうなんだ。姉がそんなことをしていたのか」
 「弟思いの姉だよ。よくできた姉だと評判だ」
 北摂の虎の姉――、私には今一つイメージが湧かなかった。

 三度目に北摂の虎に出会ったのは一カ月後のことだった。その日、私は難波で人と会い、打ち合わせを終えた後、難波から千里中央へ向かう地下鉄御堂筋線に乗った。この日の夕方、千里中央駅近くのホテルで取材の予定が入っていた。
 御堂筋線は午後の時間帯にも関わらず混んでいた。疲れていたから座りたかったのだが、座席はどこも空いていなかった。吊り革を手に新聞を読んでいると、突然、肩を叩かれた。
 「この間はどうも」
 振り返ると北摂の虎が立っていた。背丈は私と変わらなかったが、広い肩幅をしていて、がっしりとした体格をしている。顔は相変わらず怖い。見ただけで震え上がるような人相だ。幼児が見たらひきつけを起こすに違いない。
 「どこへ行きはるんでっか?」
 無理やり私のそばに並んだ北摂の虎は、十年来の友人のような雰囲気で私に聞く。
 「千里中央です」
 なるだけ関わり合いになることを避けようと思い、素っ気なく答えると、
 「おおっ、わしも千里中央に行くんや。ちょうどよかった。一緒に行こう」
 私の肩を抱くようにして、北摂の虎は満面の笑みを浮かべて言った。
 北摂の虎は、千里中央にいるお姉ちゃんに会いに行くんやと言い、あんたはどこへ行くんやとしつこく私に聞いてきた。
 「取材です」
 再び素っ気なく答えると、北摂の虎は、
 「取材? あんた新聞記者かいな」
 と私に聞いた。私は、
 「いえ、私は出版社の編集長です」
 威厳を持って答えた。だが北摂の虎は臆することなく、
 「わしも一緒に行ってええか?」
 と聞く。もちろん私は「だめです!」と間髪を入れず答えた。
 千里中央駅南改札口で北摂の虎と別れた私は、この日の取材対象者、栗山直子氏に会うため千里中央駅南口近くの千里阪急ホテルに向かった。ホテル内にあるレストラン「ボナージュ」で栗山氏と待ち合わせの約束をしていた。約束の時間は午後5時。10分ほど早く到着したので席に座り、荷物を預けて取材の用意をしていると、あろうことか、北摂の虎が現れた。
 「よぉっ、また会ったなぁ」
 北摂の虎がガニマタ歩きで私に近づいてきた。私は、
 「言ったでしょ。これから取材ですって。ここで取材をしますから、少し離れていてもらえませんか」
 少し立腹して言った。仕事の邪魔をする人間が私は大嫌いだった。すると北摂の虎の背後から不意に栗山直子が現れた。
 「すみません。遅くなりまして、弟がいつもお世話になっています」
 着物姿の栗山氏は深く礼をして、弟の非を詫びた。私は、弟と聞いてもピンと来ず、辺りを見回した。すると、北摂の虎がヌーッと私の前に顔を覗かせ、
 「わしや、わしや」
 と自分を指さした。それで初めて北摂の虎が栗山氏の弟だと知った。
 信じられない思いでいたが栗山氏が言うのなら仕方がない。私の対面する席に栗山氏が座ると、その隣に北摂の虎が座り、ウエイターを呼んだ。
 「兄ちゃん、酒くれや、酒」
 『ボナージュ』はフランス料理の店である。栗山氏のために夕食を予約していた。もちろん北摂の虎の分など用意していない。それなのに、虎は、ワインを頼むわ、私の分の料理を横取りするわで、私の予定はずいぶん変わってしまった。第一、取材がしにくい。
 「煩いのが一人いますけれど、どうぞご質問ください。お答えします」
栗山氏は平然としているが、隣に北摂の虎がいると、何ともやりにくい。それでも仕方なく栗山氏への取材を開始した。
 「今回の取材は、『関西を牽引する八人のクィーン』という書籍の企画で、関西のみならず日本、いや、世界で活躍されている女性経営者を取り上げるもので、八人のトップバッターに栗山さんを指名させていただきました。どうかよろしくお願いします」
 企画と取材内容の説明をすると、栗山氏は、申し訳なさそうな顔をして言った。
 「こちらこそ、でも、本当に私でよろしいのですか?」
 「栗山さんでないと困ります。この企画は栗山さんありきでスタートしていますから」
 私と栗山氏のやりとりを横目に、北摂の虎は必死になってフランス料理を食べ、ワインをがぶ飲みしている。それを見た私は思わず、支払いはこちらだぞ。いい加減にしてくれ。――声に出して言いそうになったがやめた。北摂の虎を怒らせると怖い。食事を終えて早くどこかへ行ってくれ。私は祈りながら取材を続けた。
 栗山直子は、千里帯という着物の帯を開発して人気を集め、その後、和の世界のさまざまな商品を開拓し、販売して国際的に有名になった経営者だ。巨万の富を得ているとの情報もあるが、それはさておき、栗山氏の半生を赤裸々に綴ることで女性たちの関心を集め、そこに商品開発秘話を盛り込む形で世の女性に夢と活気を与えようというのが本書の企画の発端だった。
 栗山氏の半生はすさまじいものだった。幼い頃、母を病気で亡くし、酒乱の父の暴力に耐えながら弟と二人、生き抜いた赤貧の少女時代。富山の中学校を出てすぐに家を出て、大阪で働き、一年間、飲まず食わずで金を貯め、弟を呼んで、二人で暮らすようになった話――。
 定時制高校を出て夜間の大学へ進み、織物の勉強をして二五歳で独立。丸洗いができ、どんな着物にもぴったり合って、簡単に帯が結べる千里帯を開発して話題になり、その商品で得たお金で和の新商品を次々と開発し、ヒットさせた能力は男が束になってもかなわない素晴らしいものだった。
 通常なら姉弟愛に満ちた、感動的な話になるのだが、弟が北摂の虎では感動の一切が消え失せてしまう。北摂の虎を見ていると、栗山氏が尻拭いをして来たことが果たしてよかったのかどうか、むしろ、栗山氏のイメージを大きく損ねているのではないかとさえ思えるほどだ。そんな男を栗山氏はなぜかばうのか。私にはそれが不思議でならなかった。
 食事を終え、ワインをがぶ飲みし、ゲップを吐き出しながら北摂の虎が立ち上がった。
 「ちょっくら散歩してくるわ」
 そう言い残して、北摂の虎はガニマタ歩きでレストランを出て行った。
 それを見届けて、栗山氏が言った。
 「弟のこと、どう思われます?」
 答えに窮した私は、
 「げ、元気な方だと思います」
 と、わけのわからない応え方をした。栗山氏は笑って、
 「私は弟に感謝しているんですよ」
 と言った。栗山氏は、取材には関係ないことですが、と前置きをして、北摂の虎のことを話し始めた。
 「弟の名前は、佐川浩一郎と言います。北摂の虎という名前は、中高時代に付けられたニックネームで、北摂の暴れん坊をもじって虎と付けられ、それが大人になっても生きている、弟はそんな人生を歩んできました。
 小学生時代は、いつも私に寄り添って、私がいないと何もできない弱虫でした。私が中学校を卒業する時、弟は小学校六年生でした。父親が酒乱でDVが半端ではなかったものですから、私も弟も父に殴られて病院へ搬送されたことが何度かあります。それほどひどい父親でしたから、私も弟も父親と離れることには何の抵抗もありませんでした。私が中学を卒業して富山を出ることになった時、弟は私の腕を抱えて、『ぼくから離れないで!』と叫んで、なかなか私を行かせてくれませんでした。私も弟をそのままにしておくことが不憫でならなかったのですが、一刻も早く父親から離れて自立しようと思っていたものですから、弟には一年経ったら必ず迎えに行くからと言い含めて家を出ました。弟は、私のいない間、父から激しいDVを受けたようで、何度も私に電話をかけてきて、『ぼくも姉ちゃんのところへ行きたい』、そう言って電話口で泣いていました。一年間、私は必死になって働き、金を貯めました。一年後、弟を迎えに行きましたが、その時も、それに気付いた父に追われ、逃げるように大阪へ帰って来ました。
 大阪で小さなアパートを借りて一緒に住み、弟を中学校に通わせました。弱虫だった弟は、いつの間にか手の早い喧嘩っ早い男に変貌していて、学校でも手に負えないと言われ、中学校を転々とするほどでした。
 暴力騒ぎを起こして、問題児として扱われていた弟ですが、私の言うことだけはよく聞きました。しかし、中学校を出て定時制高校に通わせたものの、一年足らずで辞めてしまい、土建屋で働くようになりました。少しでも金を儲けて、私を楽にさせたい、そう思ってくれていたようです。
 織物の仕事を勉強していた時、私は、そこで知り合った三歳上の男性と親しくなり、結婚の約束をしました。やさしくて包容力のある彼に惹かれ、二五歳の年に結婚した私のそばを弟は何も言わず去って行ったのは、結婚が決まったその日でした。
 その後、私は弟と音信不通になりました。私は、弟の行方を必死で探しました。弟に出会ったのは、それから三年後のことです。
 弟は、ヤクザになっていました。暴力団抗争で弟が捕まったという報せを聞き、彼と共に警察へ行きました。弟は面会場所で、私の顔を見て、『お姉ちゃん、ごめん』と言ってわんわん声を上げて泣きました。私がまともな仕事に就いたらどうなの? と聞くと、お世話になっている親分に命を救われ、恩義がある。その恩義を果たすまでやめられへん、その時、弟はそう言っていました。三年の刑を終えて出所して、組に帰ると、慕っていた親分が病死していて、ガッカリした弟はその場で組を脱退したそうです。その後は、真面目に働こうとしたようですが、刺青の入った元極道を雇ってくれるところなどなかったようで、用心棒をしたり、ガードマンをしたり、建設労働者として働いたりしたようですが、どれも長続きしませんでした。原因は弟の短気とすぐに手の出る喧嘩っ早いところだと、雇い主の方に聞いたことがあります。
 弟はすごく寂しがり屋で、一人でいることが大嫌いなのに、誰とでもすぐに喧嘩になってしまう。そのたびに警察沙汰になり――。幸い、私の仕事がうまく行っていましたので、問題を起こしても尻拭いをしてやることができましたが、いつまでもそうはいきません」
 ――風呂の中で「将棋しまひょ」と声をかけてきた時の北摂の虎の顔を思い出し、地下鉄で「また会いましたなあ」と肩を叩いてきた時の北摂の虎の顔を思い出した。
 「弟は今、クラブの用心棒をしていますが、それも多分長続きしないだろうと聞いています。何とかしてやりたいと思うのですが――」
 姉弟、二人で生きてきた子供の頃の記憶が鮮明に浮かぶのか、栗山氏は、時折、ハンカチで涙を拭い、声を詰まらせた。
 「生き方を変えるのは決して難しいことではありませんよ。弟さんは、あなたに甘えているんです。子供の頃からあなたに護られ、あなただけを頼りに生きてきた、その過去が弟さんをもろく弱くしているのではないでしょうか。突き離し、放っておくことが必要ではないかと思います」
 「でも、私が放っておいたら、あの子は……」
 「あなたと共にいることができない寂しさが弟さんを喧嘩っ早く、暴力的にしているところが多少なりともあるような気がします。あなたに変わる存在が現れれば、弟さんは劇的に変わるのではないでしょうか」
 「私に変わる存在?」
 「嫁さんです。嫁ができれば、弟さんのようなタイプは劇的に変わると思います」
 「あの子の嫁になってくれるような女性がいるのでしょうか?」
 「チャンスがなかっただけではないですか? それと姉さんに対する思慕というか、愛情が軽減すれば案外、早く見つかるかもしれません」
 勝手なことを言い過ぎたと思ったが、言わずにおれなかった。栗山氏の弟に対する愛情が北摂の虎の暴力、敵対心、協調性の無さ、すべての原因になっているように思えたからだ。
 北摂の虎が戻ってくるのが見えた。私は急いで話を元に戻し、インタビューの締めくくりを行った。
 取材を終えた私は、栗山氏に深々と礼をし、原稿が上がり次第、見ていただくと伝え、勝手なことを言って申し訳ありませんでした、と詫びてレストランを後にした。
 北摂の虎は、「わしは姉ちゃんともうちょいおるから」と言って、私の後についてこなかった。姉弟愛の深さは、年を経るごとに強くなるようだ。椅子に座り、談笑する二人を見ていると、まるで恋人同士のように見えた。

 三カ月後のことだ。その日、私は仕事が進まず苛々していた。破り捨てた用紙が部屋の中に散らばり、まとまらない考えに頭を抱えていた私は、気分転換のために酒を呑むことを思いついた。
 JR天満駅近くの居酒屋に足を運んだ私は、カウンターの椅子に座り、生ビールを口にして一息ついた。店内は混雑していて、店員が注文取りと料理や酒を届けに店内を走り回っていた。背後で怒声が響き、驚いて振り返ると、酔っぱらった男が何やら喚いているのが見えた。
 「てめえ、ええ加減にせいよ。いちゃいちゃしやがって!」
 酔っ払いは、カップルにいちゃもんを付けているようだった。喧嘩になるかなと思って見ていると、酔っぱらいよりはるかに体格のいい男がスッと酔っぱらいの前に立った。
 「すんまへんなあ。わし、この人、大好きなんですわ。いちゃいちゃせんとおられまへんのや」
 酔っぱらいの前に男が顔を突き出すと、酔っぱらいはぶつぶつ言いながら、すごすごと引き下がった。
 興味を持って見ていると、その男の顔がはっきりと見えた。私は思わず声を上げそうになった。男は北摂の虎だった。
 北摂の虎も私の存在に気付いたようだった。ゆっくり私の前に近づくと、
 「編集長、久しぶりでんなあ」
 と言う。私は、なるだけ関わり合いになりたくなかったので、素っ気なく挨拶をした。
 すると、北摂の虎は、私の腕をぐいっと引っ張って、
 「ちょっと来ておくんなはれ」
 と強引に自分の席に私を連れて行った。
 テーブルには、三十代後半と思しき女性が座っていた。大人しそうな控えめな感じの美しい女性だった。
 「編集長、紹介しますわ。わしの彼女です」
 冗談を言っているのだと思って笑おうとすると、紹介された女性が立ち上がって、
 「浩一郎さんがいつもお世話になっています」
 と私に挨拶をする。
 「まあ、座りなはれ。一緒に呑みまひょ」
 北摂の虎が唖然としている私を座らせ、店員にビールを持って来させる。
 「どういうことですか?」
 私が聞くと、北摂の虎が坊主頭を掻きながら、
 「わしらもうすぐ結婚するんですわ」
 と言い、女性の方を向いて「なあ、香澄さん」と言う。
 香澄と呼ばれた女性は、恥ずかしそうに顔を赤らめて「はい……」と返事をする。
 どうなっているのだと私は思った。三カ月の間にいったい何が起こったのだ――。
 「編集長がうちの姉を取材してくれて、あの後、わし、姉に小遣いをもらおうと思うていつものように金をせびったら、姉に頬っぺたはたかれたんですわ。痛かったわ。姉に怒られたん初めてやったし。これから先、一度でも問題を起こしたら、姉弟の縁を切るまで言われて。急にそんなこと言うもんやから、わし、編集長が姉に入れ知恵したんやないかと思うて、実はあの後、編集長の事務所に乗り込んでどついたろと思うて、姉に毒づいて電車に乗ったんや」
 ゾッと背中に悪寒が走るのを感じた。北摂の虎に殴られたらひとたまりもない。
 「電車に乗っていたら急に腹が痛くなって――。その痛さが半端やなくて、電車の中で脂汗を流して蹲っていたら、香澄が、声をかけてくれたんや。『大丈夫ですか?』って。わしみたいな柄の悪いもん、怖がって誰も近づかへんのに、香澄は声をかけてくれただけやのうて、次の駅でわしを下ろして診てくれたんや。急性の盲腸かも知れないと言って、香澄が救急車を呼んで、寸でのところでわし、命拾いしたんや。あのまま放っておいたら、わし、腹膜炎起こして間違いなく死んでた」
 北摂の虎はにこやかな顔で、時々、香澄の顔を覗きながら私に話して聞かせる。
 「編集長、ビール呑んでや。足らんかったら頼むから。遠慮せんでもええで。ここの支払いは編集長に任せるから」
 うわっ、と思った私は、思わず腰を上げて席を立ち、逃げようとした。北摂の虎は、私の腕をグイッと掴み、
 「冗談や、冗談。そんなせこいことしまへんがな」
 と笑って言って、「もう少しだけ聞いてや」と断って、再び話し始めた。
「入院している間、香澄がずっと付き添ってくれてな。わし、女性に親切にされるの初めてやったし、何か魂胆があってしてくれてるのかな、と疑って、わし、香澄に言うたんや。わしに親切にしても何もでえへんで、と言うたら、香澄が怒るんや。困っている人がいたら助けるのが普通でしょって。病院へ運んで手術をした後、香澄、わしに聞いたらしい。『奥さんか両親かに連絡しましょうか』って。わし、あんまり覚えてへんねけど、その時、『わしは天涯孤独や』って叫んだらしい。それでかわいそうに思った香澄が面倒をみてくれたんや。姉と喧嘩したばっかりやったし、姉以外、わしには誰もおらへんかったから、そんなふうに言うたんやと思うけど、おかげでわし、入院中、めっちゃ楽しかった。幸せってこれをいうんやないかって思ったほどや。
 香澄は看護師で、梅田の方の病院で働いていたんやが、わしの看病をするために仕事を休んでくれて――。わし、仕事を休ませたお詫びに、何とか稼がなあかん、そない思うて、退院したら、休ませた分、わしが必ず返すから、ちょっとだけ待っててくれっていうたら、香澄のやつ、お金はいいですから、体に気を付けて頑張ってくださいねって言ってくれて。わし、そんなふうに言われたことなかったから、香澄の気持ちに感動して、恥ずかしげもなく泣いてしもうた。その時、わし、決めたんや。この女をわしが世界一幸せな女にしたろう、そう決めたんや。それで、わし、香澄に言うたんや。わしは、元極道で、北摂の虎と異名を取ったほどの暴れん坊で、どうしようもないろくでなしで、こんな刺青も背中に背負っている。とてもあんたのような人と結婚できるような人間やないけど、命を賭けて幸せにするさかい、わしと夫婦になってくれって。
 香澄が言うた。『私はバツイチで、結婚に失敗した女です。あなたが命がけで惚れるような女じゃありません。でも、気持ちだけはありがたく受け取っておきます』。そう言って香澄はわしの退院を確認して去って行った。
 どうしても香澄を幸せにせなあかん、そう思い込んだわしは、朝から夜まで必死になって働いた。人間その気になったらどんなことでもできるもんや。人の嫌がる仕事をやったら金になる。そう思うたわしは泥だらけクソまみれで働いた。一カ月目にもらったお金をポケットに突っ込んで、わし、香澄の務めている病院に行った。入院している時、香澄に聞いておったから病院の名前も詰所まで、全部わかっとった。ただ、わし、仕事を終えてすぐに行ったもんやから作業着のままやった。詰所で香澄を尋ねると、看護師たち、嫌な顔しとった。臭いがきつかったんやろな。でも、そんなことどうでもよかった。わしは香澄に会いたかった。香澄がやって来て、わしを見てびっくりしとった。『どうしたんですか』って聞くから、わし、もらった金をポケットから取り出して、香澄に渡した。
 『これは何ですか?』と聞くから、『結納金や』と言って、わし、その場で土下座した。
 『わし、あんたのためやったら何でもする。あんたを幸せにするためやったら何でもする。一生のお願いや。わしの女房になってくれ。お願いします』って、床に額を擦り付けて言った。わしは必死やった。この女を逃したらわしはもう死んだ方がマシや。そう思うてた。
 香澄は、わしの汚い手を取って、『頭下げんといてください』と言って、わしを立ち上がらせて、『本当に私でいいんですか?』って聞くんや。わしは、『あんたでなかったらわしはあかんのや』と泣き喚くようにして言った。すると、香澄のやつ、わしをギュっと抱きしめてくれたんや。力いっぱい、この汚い、臭いわしを――」
 ボロボロと涙をこぼしながら語る北摂の虎には、もう北摂の虎の異名は似合わないと思った。野獣のようないかつい顔がいつの間にか、穏やかな表情に変わり、それでも涙は止まらなかった。泣きじゃくる北摂の虎のごっつい手を、香澄の細い小さな手が握りしめている。私は、北摂の虎の涙をティッシュで拭いて、「姉さんもきっと喜んでいるよ」と言い、虎の手を握り締め、明るい笑顔を湛える香澄に、「幸せになってくださいね」と言った。
 居酒屋を出ると、酔いが回ったのか、ふらりと体が揺れた。幸せな瞬間に出会うと、酔いが回るのが早い。口笛を吹きながら事務所に帰った。
〈了〉

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