三〇〇人の容疑者 死に至る者に幸いを

高瀬甚太

 劇場の支配人を半世紀近く勤め、六五歳になったことを契機に、先月、めでたく定年退職をした湊川孝明を祝って、友人たちが主催する記念パーティーが大々的に開催されることになり、湊川と面識のあった私にもその案内ハガキが届けられた。
 『湊川孝明さんの引退記念パーティーを開催します。ぜひご参加ください』
 案内ハガキを手にした私は、当然のことながら出席の返事を出した。演劇関係の本を出版する際、湊川に大そう世話になっている。どんなに忙しくても出席しないわけにはいかなかった。
 ゴールデンウィークが過ぎた五月の半ば、Rホテルで記念パーティーが行われ、会場には三〇〇人ほどの人が集まった。さすがは湊川だと誰もが感心した。
 盛大なパーティーだった。市長が挨拶し、有名芸能人がスピーチをした。演歌歌手が歌を披露し、漫才師が客を笑わせた。落語家も登場し、曲芸を披露したサーカスの芸人もいた。バイキング形式だったが食事も豪華で、申し分のないパーティーと言えた。
 パーティーの最後に湊川が感謝のスピーチをする段になって事件が起きた。
 突如として会場の照明が消え、一瞬静まり返ったところで、湊川にスポットライトが当たった。苦節50年、支配人一筋に生きた湊川の過去、現在、哀歓を伴うその口舌に誰もが笑い、涙した。
 湊川がスピーチを終えようとしたその瞬間のことだ。突如として「キャーッ」という女性の悲鳴が上がった。その声を合図に一斉に照明が点き、会場全体が明るくなった。その時、その場にいた三〇〇人が声もなく凍りついた。
 礼服を着た招待客の一人が青白い顔で仰向けになって倒れていたのだ。
 
 パトカーが数台、救急車と共にRホテルに到着した。大阪府警本部の警官があわただしく会場にやって来て、招待客、関係者全員を足止めにした。
 倒れた男はすでに死亡していた。鑑識の調べで毒殺と判断され、胃の中から致死量に至る青酸カリが検出された。
 死亡したのは楠康正、五五歳。劇団アポロの演出家だった。楠は劇団の関係者二名とパーティーに出席していた。湊川とは関西の劇団の集まりなどで懇意にしていたようだ。
 困惑したのは本日のパーティーの主役である湊川だったろう。パーティーのクライマックスで起きた事件に衝撃を受け、顔色をなくし声もなかった。
足止めを食った招待客は、それぞれ大阪府警に身分を証し、簡単な聴取を終えた後、改めて聴取を約束させられ、全員が解放された。
 三〇〇人が出席するパーティー会場での殺人事件とあって、大阪府警もどのように対処するか見当が付きかねていたようだ。
 当初、考えられたのは、被害者である楠康正への怨恨であったと思う。楠は評判のいい演出家ではなかった。劇団では天皇と揶揄される存在で横暴の限りを尽くしていたようで敵も多かったと、楠と共に参加した劇団関係者の証言を耳にした。
 次に考えられたのが湊川に対するものであったようだ。パーティーのクライマックスともいえる場面で殺人が行われたところから湊川のパーティーを妨害する目的があったのではないかと推察されたが、それについてはかなり無理があったようだ。なぜなら湊川の評判はすこぶるよかったからだ。そうでなければ退職する人間のために300人もの人は集まらない。
 捜査本部の中には、楠を狙ったものではなく、ターゲットは別にあったのではないかという意見も出たようだ。しかし、対象人物が三〇〇人もいる。それを一つひとつ潰していくことはあまりにも困難で、最終的に被害者である楠の周辺を洗うことから始めることにしたようだ。
 私も参考人の一人として事情聴取を受けたが、幸い簡単な聴取で済み、その場で解放された。
 
 事件から三日目の午前のことだ。私の元に湊川から電話があった。湊川は憔悴した様子で、私に謝った。
 ――せっかく来ていただいたのに申し訳ありませんでしたね。
 ――いえ、せっかくの記念の日に大変でしたね。
 ――そのことで編集長に折り入ってお願いあるのですが、時間を取っていただくことは可能でしょうか?
 ――もしかしたら事件がらみのことですか?
 ――そうです。今回の事件のことでぜひとも相談したいことがあります。
 湊川はそう言うと、会う場所と日時を指定した。
 以前から湊川は、私が出版の仕事とは別に探偵まがいのことをしていることを知っていた。それで警察には言えない何かを湊川は私に相談しようと思ったのかも知れない。湊川の指定した日時に伺うことを約束した。
 二日後の午後6時、少し早く着いた私は、大阪駅構内のホテルのロビーで湊川を待った。帰社時間と重なって大阪駅構内はひどく混雑していた。それは構内にあるホテルのロビーも同様で、狭いロビーは待ち合わせの人で埋まっていた。
 湊川が姿を現したのは約束の時間を5分ほど過ぎた頃だった。一人ではなく、もう一人、女性を同伴していたので少々驚いた。
 「編集長、紹介します。小沢由美さんです」
 小沢由美は二十代後半と思われるボーイッシュな髪型をした、いかにも活動的な美女だった。
 湊川は、大阪駅から少し離れたところにあるホテルの喫茶室の席に私を案内した。
 席に座ると同時に、湊川がトイレに立った。湊川が席を立つのを見計らって小沢が私に小声で声をかけてきた。
 「今日はどうもすみません。変なことをお願いして……」
 小沢が恐縮した様子で言う。初対面の彼女に謝られるような覚えがなかったので、
 「どうしてあなたが謝るのですか?」
 と聞いた。彼女は一瞬、えっという顔をして驚いた。彼女はすでに湊川が私にすべてを説明しているものと勘違いしたようだ。
湊川がトイレから帰ってくると、湊川は、
 「編集長にはまだ、詳しい話はしていなくて、これから説明しますからね」
 と、小沢に断って、私に向かって説明した。
 「小沢くんは劇団アポロの看板女優さんでね。今回の事件のことで話しておきたいことがある、そういって昨日、私に連絡がありました」
 ウエイトレスがやって来て、コーヒーカップが三つ、テーブルの上に置かれた。湊川はカップを手に取り、一口啜ると、おもむろに口を開いた。
 「殺された楠はあの日、私のパーティーに出席するために彼女に同伴するよう命令したと聞きました。だが、彼女は断り、同席しませんでした。そこで仕方なく、楠は宮部隆と鈴木篤志の二人を誘って出かけたのです。宮部は劇団アポロの演出助手で鈴木は脚本家です。ここからは小沢くんに説明してもらった方がいいかも知れませんね」
 そう言って湊川は小沢に目配せした。小沢は軽く頷くと、私に向かって、よく通る声で話し始めた。
 「劇団アポロは今年で設立三〇周年を迎えます。関西では老舗の劇団としてかなり知られた劇団です。固定ファンも多く、経営自体は不況の現在であってもそう悪くありません。楠は劇団設立者の楠良蔵の弟で、良蔵が亡くなった後、劇団の実質上の運営者として、また、演出家として君臨するようになりました。しかし、その評判はあまりよくありません。暴君でわがままだということも一因ですが、それ以上に彼の演劇者としての資質に問題があったからです。彼は演出者として高名を誇っていますが、それは名ばかりで、実質上の演出は宮部隆が行っていて、楠は彼を利用しているだけに過ぎません。脚本についてもさも楠が脚本を書いたようになっていますが、実際に脚本を書いているのは鈴木篤志です。楠は演劇に関してまったくの素人同然です。何の技量も知識さえ持ち合わせていません。そのことは劇団関係者なら誰もが知るところですが、誰も公に口に出すことができません。楠はそういったことに非常に敏感な男です。もし、誰かがそうしたことを口にすれば必ず探し出して断罪に処します。断罪というのは、演劇の世界におれなくするという意味です。
 もともと楠が兄の後を継いで劇団を運営するようになったのもおかしな話です。創立者の楠良蔵は関西演劇の祖と言われるほど立派な人であったと聞いています。その彼が亡くなったのは五年前のことです。死因は青酸カリによる毒死ということで、警察で自殺と断定されましたが、劇団内でそう思っている人はほとんどおりません。なぜなら、楠良蔵は、今後の劇団のあり方について、私たち劇団員に熱く夢を語り、私たちを鼓舞した後だったからです。自殺する理由なんてどこにもありませんでした。
 弟の楠康正が兄を頼って劇団にやって来て、一年後にその事件が起きています。そのことから当初、康正が疑われました。しかし、彼には完全なアリバイがありました。その頃、劇団の看板女優だった高浜美津子と死亡推定時間にホテルにいたことがわかったからです。康正は入団してからというもの、女性問題を数多く起こしており、そのたびに兄の良蔵から強い叱責を受けていました。また、康正は劇団へ入ったものの、役者としての素地もなく、脚本も演出もできなかったので裏方の仕事を手伝っていました。しかし、兄の良蔵が亡くなった後、兄の良蔵が書いたと思われる遺言書が出て来て、そこに弟の康正を自分の後継に命ずると書かれていたことから、晴れて彼は劇団の代表に就きました。康正が後継者になった時、多くの劇団員は将来を悲観して辞めていきましたが、それでも、良蔵の作った過去の業績のおかげか、しばらくの間こそ運営が悪化しましたが、すぐに挽回することができました。劇団に夢と情熱を傾ける人たちの努力がそうさせたのです。決して康正の力ではありません。その中の一人が宮部隆と鈴木篤志です」
 小沢はそこまで話し、コーヒーを一口飲んで一呼吸置いた。化粧っ気のない顔に唇だけ薄くピンクの朱がある。整った顔に笑顔は見られなかった。
 「実は――」
 と、小沢に代わって、今度は湊川が話し始めた。
 「小沢くんはこの一連の話を警察にはしていません。警察も小沢くんのところまで行きついていないから当然のことですが。私が編集長に相談したいと思ったのは、今のままでは、いずれ宮部と鈴木の二人を容疑者に見立てることが予測される。劇団としては極力そういった事態を避けたい。それで思い余った小沢くんが私に相談に来たというわけです」
 私は小沢に訊ねた。
 「三〇〇人相当の容疑者のいる事件ですからね。二人のところまで行き着くにはまだまだ時間がかかると思います。そこで一つお聴きしたい。小沢さんは二人が犯人と思っておられるのですか?」
 小沢は返事を躊躇した。再び、私は小沢に向かって問いかけた。
 「パーティーの席上、楠のそばには二人がいました。となればバイキングであったわけですから、彼らのどちらかが、楠に料理を運んだ可能性があります。その時、青酸カリを料理の中に含ませることはたやすいことだったかも知れません。あのパーティー会場は殺人を犯すには最適の場所だったでしょう。多くの客がいて容疑者を特定しにくい状況でしたからね。もし、彼らにあるいは彼らのどちらか一人に楠に対する殺意があれば、このチャンスを逃さないわけにはいかないと思ったことでしょうね。むろんこれは私の単なる推理でしかありませんが――」
 私の話が終わるのを待っていたのだろう。小沢は決意を秘めた表情で私に言った。
 「編集長がそこまで推理しているのでしたら、私たち全員で作った、私たちの創作劇の話をお聞きくださいませんか」
 小沢はそう断って、演技者らしい流暢な口調で語り始めた。
 「私が入団したのは、楠良蔵が亡くなった日の前月のことでした。楠良蔵は劇団経営に意欲を燃やしていて、入団したばかりの私にもその夢を語ってくれるような心の熱い人でした。そんな良蔵が自殺をするなんて私には信じられませんでした。それは私だけでなく、他の団員の多くがそうだったと思います。私たちは良蔵を殺したのは弟の康正に違いないと考えました。ただ、康正には劇団の看板女優だった高浜美津子とホテルで過ごしていたという確固としたアリバイがありました。でも、私たちの誰もがそれを信じていませんでした。高浜美津子と口裏を合わせればいいだけの話でしたから。私たちは高浜美津子を問い詰めようと考えました。でも、それはかないませんでした。高浜美津子は良蔵が亡くなって三日後、車に跳ねられて亡くなってしまったのです。美津子を跳ねた車は盗難車で、翌日、南港の海で水没した状態で発見されました。犯人は未だに見つかっていません。警察もこの交通事故に殺人の疑いを抱いたようですが、確証はなく、そのままになっています。
 良蔵が書いたという遺言書も怪しいものでした。筆跡鑑定すらせず、遺言書を管理する弁護士が判断しただけの話でしたから。遺言書を管理したとされるその弁護士もまた、その後、行方不明になっています。海外へ移住したという話を聞きましたが、それも定かではありません。
 良蔵の死、美津子の死、弁護士の失踪、考えれば考えるほど怪しいことだらけでしたが、劇団員の私たちにはどうすることもできません。康正に対する不信感はあったものの、演劇が好きだった私たちは、この劇団を潰したくない、その一心で力を合わせて頑張りました。良蔵が亡くなって、康正が跡を継いだ時、大半の劇団員が辞めて行きましたが、残った者たちで何とか盛り上げていこう、そう固く誓い合いました。
 しかし、康正の暴挙は目に余るものがありました。それでも私たちは頑張りました。やがて宮部は優秀な演出家になり、鈴木もまた名脚本家になりました。だが、康正は、彼らの名跡をすべて自分の手柄にし、演出家としてまた脚本家としてその名を上げて行きました。宮部や鈴木が康正に対して怒りを覚えたとしても不思議ではありません。この私もまた、康正に自殺を考えるほど卑劣な目に合わされた一人です。ある日、私は、劇団の新しい企画について相談したいと言われ、のこのこ彼について行き、そこのホテルで食事をし、料理に睡眠薬を投与され、凌辱されました。卑劣な彼はそれをすべてビデオに収め、そのことを脅迫材料にして彼は私を自分の言いなりになるようにと脅迫しました。
 私たち三人だけではありません。彼の暴挙に苦しめられた団員はたくさんいます。
 演劇が好きで、演劇から離れたくなかった私たちは、同時に良蔵が創設したこの劇団が好きでした。何とかしなければ、常にそのことを考えてきました。そんな時です。湊川さんに相談したのは――」
 小沢が話し終わるのを待って、湊川が口を挟んだ。
 「良蔵が亡くなった後の劇団の荒廃を私は知りませんでした。康正の暴君ぶりはつとに耳にしていたが、まさかそれほどまでとは思わなかったのです。楠良蔵は立派な演劇人です。常に志を高く持ち、未来に夢を掲げ、自分を鼓舞して生きていた人でした。私も彼とは深い親交があり、同じ演劇を愛する者同士、夢を語り合ったことが何度もありました。彼が亡くなった時も、彼は自殺するような人間ではないから、もっとしっかり調べてくれ、と警察に何度も直談判しました。だが、殺人を証明する証拠もなく、唯一の容疑者であった康正のアリバイが成立し、良蔵の死は自殺と断定されました。
代表が康正に変わってから、私は劇団アポロから足を遠ざけました。康正の卑しい品性に付き合うことができなかったからです。崇高な理念を持っていた良蔵に比べ、康正は名声と金儲け以外、何も考えていない男でした。
 私が定年退職で支配人を退職することになった時、パーティーの話が持ち上がりました。当初、私はあまり気が進みませんでした。会社の有志や周囲の人たちの熱心な要望もありましたが、私が決心したのは、小沢さんたち、劇団アポロの団員たちの強い要望があったからです」
 客の入れ替わりが激しい店内を二人のウエイトレスが忙しく動き回っている。それにしてもホテルの喫茶店は静かだ。小沢の声も湊川の声もよく耳に届く。湊川に代わって小沢が話を継いだ。
 「私たちは楠康正殺害計画を立てました。主だった団員十五名がその計画に乗りました。
 そのための脚本を鈴木が書き、演出を宮部が担当しました。湊川さんの計らいで、全員がパーティーに参加することができました。もちろん全員変装しての参加でしたが……。
 私が同伴を断れば、康正は宮部と鈴木を同伴することはわかっていました。その時、一番大切なことは、康正の身近にいる宮部と鈴木に疑いがかからないようにすることでした。
 康正は酒好きでグルメでしたから、青酸カリを混入するについては苦労しませんでした。宮部と鈴木を除く、十三名、もちろん私も康正に見破られないように変装して、参加していましたが、その十三名全員が青酸カリを混入した少量の料理を手に持ち、康正を囲みました。湊川さんの最期の挨拶に気を取られていた康正は私たち全員が周りを囲んでいたことに気づきませんでした。しかも湊川さんにスポットライトが当たっているため会場全体が真っ暗です。湊川さんのスピーチが佳境に迫り、終わる寸前を狙って、それぞれ用意した皿を康正の前に差し出しました。もちろんこの時、団員全員が薄い手袋をしていたことは言うまでもありません。康正は差し出された皿に何の疑いもなく、手を出し、料理を口にしました。その瞬間、団員たちはそっと気づかれないように康正のテーブルからそっと離れたのです。
 康正は泡を吹いて倒れ、絶命しました。これが私たちの演じた康正殺害事件の舞台、その一部始終です」
 話し終えた小沢は、グラスの中の水を一気に飲みほした。そんな小沢に私は観客の一人として賛辞の言葉を送った。
 「なるほど、素晴らしい舞台ですね。しかも演出が素晴らしい。三百人以上が出席するパーティー会場を殺人事件の舞台にするアイデアも素晴らしいが、団員すべてを共犯者にするアイデアも秀逸だ。しかも、湊川さんの最期の挨拶をクライマックスにするところなど、見どころ満点だ。いやあ、いい舞台を見せていただいた。ところで、なぜ、私にそんな貴重な舞台の話、舞台裏まで話してくれたのですか?」
 小沢は、井森の目をじっと見つめると静かに話を切り出した。
 「どんな理由であれ、人を殺すということは許されることではありません。私たちが犯した罪は一生消えることはないでしょう。舞台は康正を殺して終わりますが、舞台から離れた団員の人生は続きます。パーティーを終えた後、私たち全員が集まって今後のことを討議しました。自首をしよう、という意見ももちろん出ましたし、きれいさっぱり忘れ去って演劇に打ち込もうという意見も出ました。罪を償うためにどうすればいいか、そのことについても考えました。しかし一晩中話し合っても結論が出ませんでした。
 そこで考えたのが、結論を第三者に委ねようというものでした。まるっきり関係のない第三者に判断してもらい、その回答をもって全員一致して行動しようということになったのです。私たちはそれを湊川さんに相談しました。すると湊川さんには、自分もまた、あなた方の仲間だから公平な判断が出来かねると言われました。その湊川さんの推薦で白羽の矢が立ったのが、井森編集長、あなたでした。私は今日、この場に団員の総意を得てやって来ています。あなたが下す結論がどうであれ、私たち全員がその言葉に従います」
 小沢は固い表情を崩さず、強い意志を秘めた眼差しを井森に向けたままそう言った。
 私はコーヒーカップに若干残ったコーヒーを呷るようにして飲むと、小沢を見つめ返して答えた。
 「私は神ではありませんし、信仰心の強い男でもありません。だから人道的な観点であなたに申し上げる言葉など何もありません。ましてやあなた方の運命を決める言葉などもってのほかです。ただ、私個人の考え方を申し上げさせていただくとすれば、ただ一つ、あなたに、あなた方団員の皆様に、ぜひ生きてほしい、生き抜いてほしい、そういった思いが強くあります。
 私はこれまで多くの事件に関わって来て、多くの霊に遭遇し、悪霊と呼ばれるものにもたくさん遭遇してきました。また、人間の中に内在する悪意、殺意といったものにも遭遇しました。そうした体験を通じて、私が唯一、語ることがあるとすれば、それは『死に至る者に幸いを』、と言う言葉です。
犯した罪をしっかりと自覚し、それをどのようにして死者に報いるか、それが最大のテーマではないかと思います。あなた方は、楠康正を殺害した。その事実が明白であるなら、その死に対してどう向き合うか、それが重要になってきます。自首して罪を償う。それも大切な罪の償い方ですが、今回のように団員十五人の誰が康正を殺したか判然としない場合は、それさえも難解なような気がします。
 私は愚かな人間です。だから最初に言ったように人道的な言葉など発する資格がありません。その上であえて言わせていただくのですが、康正の死を劇団アポロの死に直結してはいけないということを何よりもまず第一に考えます。悪評高く、暴君で尊敬の念に値しなかった楠康正の存在を、今度はきみたち劇団員の総意で高名無比なものに高めていく。それこそが『死に至る者に幸い』を、ということになるのではないでしょうか。
 罪を昇華していくということは、ひと通りではありません。劇団を運営し、多くの観客に何を訴えられるか、夢か希望か、生きる勇気か――、それについてさらに真剣に考え、そのことによってこそ、罪は償える。私は愚かで恥知らずの人間だからこそ、そんなことが言えるのですが、今の私の、それがあなた方への希望でもあります」
 私の話を聞いた小沢がどう感じたか、どう行動しようと思ったか、それはわからなかった。小沢に聞いた話のすべてを、井森は劇中談と理解していた。だから事件の顛末にはまるで興味がなかった。
 小沢は湊川と共にホテルを出て私の前から去った。以後、私は二人に一度も会っていない。
 
 康正殺人事件のその後の顛末を私はほとんど耳にしていない。ただ、劇団アポロのその後の噂だけは耳にすることができた。それによると、演出 宮部隆、脚本 鈴木篤志、出演 小沢由美による新作がたいそうな評判を呼んでいるとのことだ。しかし、その内容までは私の耳に届いていない。
〈了〉

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