死を呼ぶ終電車

高瀬甚太
 
 その夜、学生時代の友人に誘われて、久しぶりに終電車近くまで酒を呑んだ。高校時代の友人、大手企業部長職の有川孝弘から連絡をもらい、夜の街に引っ張り込まれ、酒場を数軒はしごした後、最後は有川の行きつけのスナック『エリーヌ』に行き、そこで歌を歌って散会した。いつも私は、終電車に間に合うように席を抜けるのだが、この日は、いつになくしつこく有川がまとわりついたため、閉店ギリギリまで店にいた。
 閑散とした駅のホームに辿り着くと、終電車が定刻通りホームに滑り込んできた。アナウンスがしきりに最終電車であることを告げ、発車のベルがひときわ高く鳴り響いたところで、慌ただしく車内に飛び込んできた男がいた。
 車内は人がまばらで、酒臭い息が充満していた。飛び込んできた男は、大きく肩で息を吐き、私と対面する席に座ると、安堵の表情を浮かべ、目を瞑った。
 各駅停車であったため、私が乗降する駅に到着するのは40分後だった。対面に座った男はしばらくすると、だらしなく脚を広げ、高いびきをかいて眠り込んだ。
 闇を切り裂くようにして走る終電車の中で、私はふと、いつもと違う様子をみせた有川のことが気になった。。
 有川は、学年でも優秀な生徒で、高校時代、いくつかの模試でトップクラスの成績を収め、T大合格を期待された一人だった。だが、彼は期待に反してT大を受験せず、私立のS大を受験して、合格した。
 私は有川と高校入学時に知り合い、それ以来の付き合いだったが、成績でも注目度でも、彼との差はずいぶんあった。大学が違ったため、一時空白の時代こそあったものの、卒業した後、再び復活し、現在まで絶えることなく関係が続いている。
 大学を卒業してすぐに世界に名だたるM商事に入社した彼は、そこでも実力を発揮し、出世街道を驀進した。前途洋々で何の悩みもないようにみえる彼だったが、今日の様子は明らかにいつもと違ってみえた。何がどうなのか、どこに原因があるのか判然としなかったが、長年の友人である私にはkれの変化がよくわかった。
 乗降駅が近づき、下車する準備をしていた私は、対面する席にだらしなく座り、眠りこけている男のことが気になった。この男はどこまで行くつもりだろうか。終点までもう少し駅はあったが、終点に着くとこの電車は車庫に入る。それまでに気が付けばいいのだがと、気になった。
 駅の名が連呼され、席を立つと、対面席の男も、あわてて立ち上がり、下車する準備を始めた。ホームに降り立つと、その男もホームに降り立ち、私と歩みを共にした。
 改札を出て、タクシー乗り場に向かうと、その男も同じようにタクシー乗り場へと向かった。タクシーはすべて出払っていて、帰って来るのを待つしかなかった。ベンチに座り、ぼんやり夜空を見上げていると、その男もベンチに腰をかけ、タバコを取り出し、夜空を見上げながら吸い始めた。
 「遅くまで大変ですね」
 何の予兆もなく突然、その男に声をかけられた私は、あわてて返事をした。
 「え、ええ。でも、今日は特別なんです」
 男は私と同年代に見えた。頬のこけた痩せぎすの男だったが、人を射抜くような鋭い目が印象的だった。
 「私は毎日、こんな感じです。仕事に追われてろくに休息も取れませんし、家には寝に帰るだけで、妻との仲も怪しくなっています」
 自虐的に語り、男はタバコの煙を一気に吐き出した。
タ クシーはなかなか戻って来なかった。時計をみると午前1時半を少し回っていた。
 「失礼ですが、お仕事は?」
 男に聞かれた私は自虐的に、
 「貧乏暇なしの零細出版社を経営しています」
 と答えた。
 「出版社ですか――」
 男は、出版社と聞いて、何事か考えていたようだったが、ふと思いついたように声を上げて、
 「つかぬことをお聞きしますが」
 と、私に向かって体を反転させて言った。
 「出版社は、さまざまな方面に通じているし、ネットワークもありますよね」
 戸惑いながら男に答えた。
 「いえ、決してそんなことはありません。いろいろなスタイルの出版社があって、あなたの言われたような内容に通じているところもありますが、ほとんどの出版社は、狭い世界で生きています。当社も同様です」
 男は少しがっかりした様子で、タバコをせかせかと吸っては吐き、吐いては吸いを繰り返した。
 天上に小さな星がちらついていた。半円の月が中天に浮かび、静寂が辺りを支配している。帰って来ないタクシーにしびれを切らし、いっそ歩こうかと思い始めた、その時、一瞬の間をおいて男が再び話しかけてきた。
 「失礼ですが、あなたは、幽霊を信じますか?」
 突然の奇妙な質問に驚いて、返事を躊躇していると、
 「私は信じています。幽霊っているんですよね」
 と感慨深げに言った。
 「申し訳ありませんが、少し、私の話を聞いていただけませんか」
 男は私の返答を聞こうともせず、落ち着いた口調で話し始めた。
 
 「つい最近のことです。今日と同じように遅くなって、飛び込むようにして終電車に乗りました。電車に乗ると、ホッとしたのかすぐに疲れが出て、眠り込んでしまいました。
 気が付くと、終点近くまで来ており、乗り過ごしたことに気付いた私は、慌てて下車しました。ホームを出ると、すぐにタクシーを探しました。下車したことのない駅でしたからどこにタクシー乗り場があるのか、それさえもわかりません。閑散としてうら寂しい駅付近をしばらく探索しましたが、人もおらず、車も通らないここでは、いつまで経ってもタクシーは拾えない。広い道路に出れば、タクシーぐらい通るだろう、そう考えて駅から離れた広い道路に出るために歩きました。ところが、不思議なことにどれだけ進んでも、細い舗道が続くだけで広い道には出ません。それでもようやくのこと、少し広い道に出ることができましたが、車など一台も通っていません。店もなく、人家すら見えないのです。変なところで降りてしまったと悔やみ、しばらく歩いていると、一台の車が前方からやって来るのが見えました。よく見るとタクシーです。安堵した私は、手を挙げて、タクシーを停めようとしました。だが、タクシーは私に気付かないのか、通り過ぎて行きます。ガッカリして肩を落としていると、背後からブッブーと警笛を鳴らされました。振り返ると、先ほど通り過ぎたタクシーが止まっていました。通り過ぎてから気が付いたのだろうと思った私は、タクシーに乗り込み、家の住所を伝えました。
 運転手は六十代ぐらいの男性でした。帽子を深く被り、メガネをかけた、どちらかといえば印象の薄いその運転手は、黙ったまま車を発進させ、ハンドルを大きく右に切りました。右に折れると小さな川沿いの道が続きます。不思議なことにこの間、他の車には出会っていません。この川は何と言う川なのか、気になった私は、運転手に尋ねました。しかし、運転手は私の質問には答えず、ずっと黙ったままでした。考えてみると、タクシーに乗車して以来、私は、この運転手と一度も言葉を交わしていません。
 小さな川沿いの道を10分ほど走ったところで、車が急停止しました。驚いて正面を見ると、人が道路の真ん中に立っていました。
 その時、私は何だか嫌な予感がして、運転手に、急いでいるから、構わず行ってくれないかと言いました。しかし、運転手は、私の言葉を無視して、ドアを開けて道に立っている人に近寄って行きます。やがて、運転手はその人と共にタクシーのそばまで来ると、後部座席のドアを開けて、その人を私の隣に乗せました。
 その人物は女性でした。三十代後半と思しき長い黒髪の美しい女性で、私の隣に座ると、軽く私に会釈をしました。私も会釈を返し、どうしてあんな場所におられたのですか? と聞きました。女性は、悲しい目をして、『私にもよくわかりません』とか細い声で答え、それ以上、何も話そうとはしませんでした。
 さらに10分ほど走ったところで、運転手が車を停めました。女性が降りるのかと思っていると、そうではなく、運転手が私の座っている後部座席のドアを開け、『ありがとうございました』と言うのです。
 周囲を見回すと、木々が茂る見も知らない場所だったので「ここはちがいますよ」と運転手に言いました。しかし、運転手は「ありがとうございました」を繰り返すだけで、早く降りてくれと言わんばかりの態度を示します。頭にきた私は、『私の住所は伝えてあるはずだ。そこまで行ってくれないと降りない』と声を荒げて言いました。
 隣に座る女性に、
 『この運転手、おかしいですよ。私の住所を伝えたのに、こんなところで降ろそうとする。変でしょ』
 と同調を求めましたが、その女性は、困ったような顔をするだけで、何も答えてくれません。運転手はなおも私に、早く降りてくださいと言わんばかりの態度を示します。仕方なく私は車から降りました。
 私が車から降りたのを確認すると、運転手はドアをバタンと閉め、急発進しました。私は、車のナンバーを控え、乗車していた時に控えておいた運転手の名前と共に、タクシー会社に抗議する手はずを整えました。抗議でもしなければこの腹立ちは収まりません。
 暗い鬱蒼とした木々に囲まれた場所で、私は途方にくれました。辺りは漆黒の闇で、一つの灯りも見当たりませんでした。疲れた私は、木の根っこを見つけてそこに座りました。座ってしばらくすると、ウトウトとしてきて、そのままそこで眠ってしまいました。
 朝、何者かに激しく突き動かされた私は、慌てて目を覚ましました。目の前に警官がいたので驚いて周囲を見回すと、何と私は広い道路の交差点の真ん中で眠っていたのです。交番に連れて行かれた私は、警官に事情聴取されました。警官に昨夜のことを一部始終話しましたが、警官は、酔っぱらって夢でも見ていたのだろうと、笑って言います。
 タクシーのナンバーと車種、運転手の名前を控えていたことを思い出し、それを警官に告げました。警官はタクシー会社に電話をし、車種と運転手の名前を確認しましたが、タクシー会社は、そんな運転手はいないと警官に告げたようです。私は、警官に電話を代わってもらい、昨日の夜の一部始終を話し、見も知らないところで無理やり降ろされたと抗議しました。
 最初は、そのような運転手は存在しないと突っぱねていたタクシー会社でしたが、一応、確認すると言って、一度、電話を切りました。警官は半信半疑の様子で私を見ていましたが、少しは私の言うことを信じてくれる気になったようです。私と一緒にタクシー会社から連絡が来るのを待ちました。10分ほどして連絡がきました。タクシー会社の担当者は、
 『あなたのおっしゃられた、昨夜、乗車したという運転手ですが、一カ月半ほど前に事故死しています。控え間違いか、記憶違いではないでしょうか』
 と言います。私は、決してそんなことはないと激しく抗議した後、途中で乗車してきた女性のことを思い出し、その女性に聞いてもらったらよくわかる、と告げました。すると、その担当者は、『もしかしたら、その女性は――』と女性の様子を詳しく話します。
 まったくその通りの女性です。急いでその女性に聞いてください、と担当者に言いましたが、担当者は、声のトーンを落として、
 『残念ですが、その女性はお亡くなりになっています』
 と話し、『あなたが抗議されている運転手の車に同乗して事故に遭われて二人とも亡くなられました』と言うのです。
 では、私の乗ったタクシーは、この世のものではなかったということですか? と聞きましたが、それに対する答えがないまま、電話を切られてしまいました。
 信じられない思いの私は警官に事情を話し、一カ月半前にこの近くで遭った交通事故について調べさせてほしいとお願いをしました。最近のことなので、すぐに事故資料が見つかり、それを見た私は、腰を抜かさんばかりに驚きました。
 
 ――三月八日未明、南光梅タクシーの大貴徹さんの運転する車が、前方から猛スピードでやって来た信号無視の大型トラックと正面衝突し、タクシーは大破、運転していた大貴さんは即死、乗客の伊藤みすずさんも即死する事故がありました。トラックを運転する原本晃の居眠りによる重大な過失によるものと判断、原本の身柄を拘束した――。
 
 被害に遭った運転手の大貴と乗客の伊藤のどちらにも、私は昨夜会っている。私は幽霊が運転する車に乗っていたのか……。そう思うと一気に寒気がしてきました。昨夜は事故から四十九日目。あのまま、車を降りずに、乗り続けていたらどうなっていただろう――」
 
 「信じられない話ですが、すべて本当のことなんです」
 男の作り話のようにも聞こえたが、青ざめた男の表情を見ていると、安易に作り話だと否定することはできなかった。
 前方に灯りが見え、ようやくタクシーが帰って来たようだ。一台しか帰って来ていなかったので、私は男に、「お先にどうぞ」と勧めた。
男は申し訳なさそうな顔をしたが、タクシーが近づいてくると、
 「それではお言葉に甘えて」
 と言って席を立った。
 タクシーが停まって、男は乗り込む途中、
 「このタクシーがこの間のようなタクシーだったらどうしようかな」
 と言って笑って乗り込んだ。井森は思わず、運転手の顔を覗きこんだ。暗くてよくわからなかったが、六十過ぎのメガネをかけた男だった。
 やがてしばらくしてもう一台、タクシーがやって来た。
タクシーに乗り込んだ私は、運転手にぼやいた。
 「今日は忙しいのですかね。ずいぶん待たされましたよ。先ほどようやく一台が来て、待っていた方が乗られましたが、私は都合1時間近く、ここで待たされていました」
 すると運転手は怪訝な顔をして、私を振り返って言った。
 「私の前に一台、来ましたか? おかしいなあ、今日は人手が足らなくて、こちら方面へは私しか来ることができなかったはずですが――」
 「じゃあ、流しのタクシーが寄ってくれたのかも知れませんね。ともかく、来てくれてよかった。来てくれないのではと思ってハラハラしながら待っていたんですよ」
 笑って言うと、タクシーの運転手も、同じように笑いながら、「申し訳ありませんでした」を繰り返した。
 翌日、いつもより遅く目を覚ました私は、顔を洗い、歯を磨くと、トーストを焼きながらテレビを点けた。残酷なニュースの報道に嫌気をさし、チャンネルを変えようとした時、アナウンサーが「今日未明、○○町で事故が発生しました」と告げた。○○町といえばこの近くだ。興味を持って画面を眺めていると、大破したタクシーと大型トラックの映像が流れた。居眠りをしたトラックが分離帯をはみ出してタクシーに衝突したと報じ、乗っていた乗客が即死したと伝えた。事故に遭った被害者の顔が画面に映し出され、その顔を見て思わず目を見張った。昨夜、私と一緒にタクシーを待っていた男だった。
 もし、私が男に代わって先にタクシーに乗っていたら、私が男の代わりに事故に遭っていたかも知れない。そう思うと背筋が凍るような恐怖を覚えた。
 出勤する用意を整え、家を出ようとしたところで、忘れ物に気が付いて再び家に戻ると、テレビが点けっ放しになっていた。確かに消したはずなのにと思いながら、画面を見ると、テレビのニュースが事故の続報を報じていた。
 『大型トラックとタクシーが衝突した痛ましい事故ですが、その後の調べで、大型トラックの運転手が居眠りをして、中央分離帯を乗り越え、タクシーと正面衝突したことがわかりました。なお、この事故で大破した、タクシーを運転していた運転手の遺体が発見されていないことが、その後の警察の調べでわかっています――』
 テレビの画像を見た私は愕然とした。男が話していた事故とまったく同じ映像のように思えたからだ。あの事故も、大型トラックとタクシーの正面衝突だった。しかも今回と同様にタクシーの乗客は即死している。何かの因縁だろうか、それとも単なる偶然か。
 タクシーの運転手の遺体が発見されていないことも気にかかった。
昨夜、出会った、亡くなった男は、再び幽霊タクシーに乗っただろうか。考えれば考えるほどわからなくなった。
 
 夕方になって有川から電話がかかってきた。昨夜、遅くまで引き留めたことへのお詫びかと思ったが、要件はそうではなかった。
 ――実は女房との仲が険悪になっていて……、このところ毎日のように離婚が話し合われていたのだが、きみのおかげで、何とか回避できそうだ。ありがとう。
 と有川が言う。
 ――おれのおかげ? どういうことだ。
 不思議に思って尋ねると、有川は、
 ――実は、離婚話が女房から出たのは、女房がおれの浮気を疑ったことにあったんだ。毎晩のように呑んで帰るし、帰りが遅いものだから疑ったのだろう。実は、女房が疑うのも無理はなくてね。実際、おれはあの店のホステスと付き合っていて、深い仲になっていたんだ。ところがそのホステスが交通事故で亡くなってね。ショックを受けているところに女房からの離婚話だろ。参っていたんだ。昨日、遅く家に帰ると、女房が待っていてね。誰と呑んでいたとすごい剣幕で聞くので、お前も知っている井森だよ、と言ったんだ。けれど、女房の奴、信じなくてね。仕方なく、おれは店で写した写真を見せたんだ。すると女房が大笑いしてね。見ると、井森、お前が裸踊りしているところや、馬鹿笑いしているところ、変な写真が満載でね。それを見て、女房の奴、あんた、いつも井森さんに付き合わされていたのね、と言うんだ。おれは、そうだよ。あいつは……、と申し訳ないが悪口を一杯言わせてもらった。おかげで、女房の機嫌も直ってね。よかったよ。
 と言う。私は、怒り心頭で有川に言った。
 ――そんな写真、いつの間に撮ったんだ。ひどいぞ!
 まあ、しかし、有川の離婚が回避できたのなら仕方がないか。そう思い直したものの、裸踊りの写真を奥さんに見せて二人で笑うなど、やっぱり許せない。そう思った私は、
 ――有川、おれは、もう、おまえとは一緒に呑まんぞ。
 と怒りの声を上げた。有川は、悪かったと連発し、
 ――おれもあの店にはもう行かないよ。好きだった子が亡くなって、もう行く気がしない。この間が最後だ。これからはせいぜいお母ちゃん孝行をするよ。
 と神妙な口ぶりで言う。
 ――面食いのお前が好きになった女だ。さぞ美人だったんだろうな。
 冷やかすようにして言うと、有川が、
 ――めっちゃ美人だった。
 と感慨深げに言う。おまけに、
 ――その女性の写真をメールで送るからじっくり鑑賞しろ。
 と言って、電話を切った。
 しばらくして有川からメールが届いた。メールを開くと写真が添付されていた。ワクワクしながら添付した写真を開けると、有川の言う通り、美人の顔が現れた。こんな美しい女性が亡くなったなんて……、そう思っているうちに、その写真の女性が誰かに似ていることに気が付いた。だが、どれだけ考えてもわからない。有川と違って美人に縁のない私であったから、知っている美人といっても限られてくる。
 メールを閉じたところでハッとした。もしかしたら――、そう思って、有川に連絡をした。
 ――メールの女性だが、名前は何というんだ?
 有川は、どうしてそんなことを聞くんだと、ぶつぶつ言いながら、
 ――ジュリーだよ。
 と言った。ジュリー……、違っていた。安堵していると有川がまた言った。
 ――もっともそれは店での源氏名で、本名は伊藤みすずだよ。
伊藤みすず――、私は思わず携帯を床に落とし、足を震わせた。
 ――もしもし、もしもし――。
 有川の声が受話器越しに響いたが、落とした携帯を拾い、これ以上、話す気にはなれなかった。
〈了〉


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