ツルさん、赤ちゃんを拾う

高瀬 甚太

 背中に背負った幼児をあやしながら、ツルさんこと鶴本喜一は、立ち呑みの店「えびす亭」で一人、酒を呑んでいた。誰とも話すことなく、日本酒を舌で味わいながら、いかにもおいしそうに、ゆっくりと呑み干す。そんなツルさんがおんぶしているのは、一歳になるかならないかの赤ちゃんだ。キャッキャと笑って愛らしい。
 ツルさんはえびす亭の常連だが、赤ちゃんを背負ってやってくるようになったのは、ここ三カ月ほど前からのことだ。
 「ツルさん、どうしたの? その赤ちゃん」
 重量挙げ選手のような体格のツルさんが背中に子供を背負ってやってくる、その異様な姿に驚かない者はいない。
 「かわいいやろ。竜馬と言うんや」
 背中の子供をあやしながら、笑顔を見せるツルさんだが、一カ月も経たないうちに笑顔が消え、誰とも喋らなくなった。
 ツルさんは四十歳の厄年で、建設会社の現場監督をしていると聞いたことがある。確か、独身のはずだった。少し酒乱の気があって、呑むと大暴れすることが少なくなく、マスターから出入り禁止を言い渡されたことも一度や二度できかなかった。そのツルさんが、赤ちゃんを背中に背負って店に来るようになって、急に大人しくなった。以前は、大声で喋っていたのに、赤ちゃんを気遣ってか、誰とも口を利かなくなった。
 何があったのだろうか――。えびす亭の客たちが心配した。独身のはずのツルさんが赤ちゃんを背負ってやってくることも異常だが、それ以上に背中の赤ちゃんを気にして、豪快に酒を呑まなくなったツルさんのことが気になっていた。
 ただ、不思議なことに、ツルさんがおんぶする赤ちゃんは、店の中では絶対と言っていいほど泣かなかった。いつもニコニコして、客があやすと、キャッキャと声を上げて笑った。
 そのツルさんが、珍しくえびす亭に顔を見せない日が一週間ほど続いた。喧嘩っぱやくて、乱暴者のツルさんだったが、意外にもえびす亭のみんなに好かれていた。だから、客の誰がツルさんのことを心配した。
 「ツルさん、どうしたのかな。何だか、最近、様子がおかしいよな」
客の一人、竹本がつぶやくように言った。それは、その客一人の思いではなく、ツルさんを知るえびす亭みんなの思いでもあった。
 「ツルさんて、確か、独身だったよな?」
 竹本がマスターに聞いた。
 「女が出来たという話すら聞いたことがないよ。ふられた話なら万と聞いたけどな」
 マスターが笑って言ったが、誰も笑わなかった。
 「独身なのに、赤ちゃん背負って――。性悪女に押し付けられたんじゃないか」
 「そうかもしれん。鶴さん、気がいいから、よっしゃ、まかせとけ、と言って引き受けたのかもしれん」
 「そやけど、ツルさんに子供が育てられるんかいな。心配になって来た」
 「ツルさんが赤ちゃんのおしめを換えている姿、想像でけんわ」
 それぞれ、てんでに噂をするが、内心、誰もがツルさんのことを心配していた。
 「誰か、ツルさんの家、知らんか?」
 世話好きで有名な森さんが聞いた。今年、八〇の大台を超えた森さんは、年齢のわりに矍鑠としていて動作が若々しい。その森さんは、ツルさんのことをこんなふうに想像した。
 「わしが思うに、ツルさんは、性悪女と出会って一緒に暮らすようになった。ところが、女に男が出来て、生まれたばかりの子供を置いて出て行った――。そんなところじゃないかな。誰か、家を知っているものがいたら、教えてくれんか」
 だが、誰一人としてツルさんの家を知っている者はいなかった。
 森さんの想像に近いものを、誰もが抱いていた。
 ――女に騙された。女に逃げられた。女に子供を押し付けられた。
 赤ちゃんを背負って、酒を呑むツルさんの姿から想像できるのは、たいてい、そんなところだった。
 二週間が経った頃、久々にツルさんが姿を見せた。相変わらず背中に子供を背負っている。
 「ツルさん、どないしてたんや。心配しとったんやで」
 森さんが声をかけた。ツルさんは森さんの方を見て軽く頷くと、美味しそうに酒を呑み始めた。
 「ツルさん、世の中、女はぎょうさんおるぞ。くよくよせんと頑張れよ」
森さんがツルさんを励ますように言った。励まされたツルさんはキョトンとした顔をしてポカンとしている。
 「そうやでツルさん、逃げた女房にゃ未練はないが~。歌にもあるやないか。お乳ほし~がるこの子がかーわいい。子供のためにも頑張れよ」
 教育委員会に勤務している狭川さんが浪曲子守唄を歌いながらツルさんを励ました。
 「ツルさん、俺なんか、自慢やないけど、三回も女に逃げられている。もうすぐ四回目になるけどな」
 商社に勤める木島さんが自虐的に言ったが、誰も笑えない。
 「俺は、アルチューだ!」
 どさくさに紛れて、河本さんが叫んだ。
 その時になって、ツルさんはようやく気が付いた。みんなが自分のことを心配してくれているのだと。
 「おおきに。皆さんに心配をおかけして」
 ツルさんのその一言で、騒動しかった店内が、急に静かになった。
 「でも、申し訳ないけど、わし、女に逃げられたり、騙されたりしてまへんので安心してください」
 それを聞いた森さんが言った。
 「ほな、その赤ちゃんはどないしたんや?」
 「この子はわしの子供やないんです」
 「ほな、誰の子供やねん。悪い女に押し付けられたんか?」
 追及の手を休めない森さんの詰問が続いた。
 「違います。この子は捨て子です」
 「エッ!?」
 えびす亭の客から一斉に驚きの声が上がった。
 「捨て子って、あんた――」
 驚いた森さんが、詳しい話を聞こうと身を乗り出した。
 「わしの家の前に捨てられていたんです。置き手紙と一緒に」
 森さんだけではない、えびす亭の客の多くが身を乗り出した。ツルさんに背負われた子供がそれを見て、キャッキャと笑った。
 「仕事に出かけるために家を出ようとしてドアを開けたら、何か、ひっかかっているようで重たかった。どうにか押し開けると、扉の前に白い毛布で包まれた赤ちゃんが置かれていたんや。驚いて、抱き上げると、赤ちゃんの置かれていた下に手紙があった。

 『この子を育てることができません。心中も考えましたが、かないませんでした。いつか必ず受け取りにきますので、それまでこの子を預かっていただけないでしょうか。昨夜、あなたを見て、この方ならと思い、子供を預ける決心をしました。よろしくお願いします。ちなみに子供の名前は竜馬です』

 その手紙を読んで、無性に腹が立ってね。こんなかわいい子供を捨てるやなんて、とんでもない母親だと。そのまま、施設へ預けるか、交番にでも行こうと思って家を出たのだが、子供を抱いて歩いていると、この子、わしを見て、キャッキャと笑うんや。それがかわいくてね。結局、自分で育てることにした。
 ところが、子供など育てたことのないわしには、どうやって育てたらいいか、見当がつかない。本を読んだり、医者へ行って聞いたり、熱が出た時は夜も眠れんぐらい心配で、仕事をする時も、食事の世話をしてくれる人に金を払って見ていてもらったりして、後はずっと、どこへ行くにも背中におんぶして――、ただ、子供のことが心配で、前ほど呑めないし、酔っぱらうことも出来ない。この前など、子供が熱を出して、慌てて病院へ駈け込んで、そりゃあもう、大変やった。おかげで一週間もえびす亭に顔を出せなかった。
 知り合いの医者に相談して、本格的に竜馬をわしの養子にすることにした。手紙には、必ず迎えに来るようなことを書いていたけど、生まれて間もない子供を置き去りにするような女や。まず、迎えに来ることはないと思うし、そんな女に竜馬を渡されへん」
 ツルさんは、そんな話をみんなにした。
 「そうか、逃げられたわけやなかったんや」
 森さんがガッカリしたような声を上げ、えびす亭のみんなの顰蹙を買った。
 「それにしても、男手一つで子供を育てるのは大変やで。この際、結婚でもしたらどないやねん」
 木島さんの言葉にツルさんがため息を漏らした。
 「この年まで一度も女にもてたことのないわしや。独身ならまだしも子持ちの男に誰がついて来る」
 それもそうだとは言えず、黙ってしまった森さんと木島さん、ツルさんの背中におんぶされた子供がまた、キャッキャと笑った。

 子供が伝い歩きを始めても、まだ、ツルさんは竜馬を背中に背負っていた。「乳母車にしたら楽なのと違うのか」、
 と誰もが言ったが、竜馬はわしの背中が好きなんや。と言って聞かない。ツルさんの背中でニコニコ笑っている。
 「この子はなかなかええ顔してる。この子のお母さんは結構な美人やないか」
 と森さんが褒めた。確かに竜馬は、目鼻だちのはっきりした整った顔立ちをしていた。竜馬の母親は、きっと美人なのだろう。ツルさんもそう思っていた。
 「わしに似て来たと思わへんか」
 えびす亭の面々が口を揃えて言った。
 「似てへん、似てへん」
 ツルさんは、子供がかわいくてたまらないのか、酒を口にしながら、しきりに背中の息子に話しかけ、おでんのじゃがいもやちくわ、コンニャクを、一度、自分の口に入れてよく噛んだ後、口移しで食べさせていた。
 「それにしても、ツルさんがこんなに子煩悩やとは知らんかった」
 教育委員会の狭川さんが感心したように言った。
 「わし、この子と一緒にいる時が一番、幸せなんや」
 ツルさんがそう言うと、背中におんぶされた竜馬が、また、キャッキャと笑って大はしゃぎした。
 えびす亭を出たツルさんは、竜馬がいつの間にか眠っていることに気付き、慌てて背中から下ろすと、温かな毛布で包み、風邪をひかないように気を付けながら、再び背中におんぶした。竜馬のかわいい寝息を聞きながら、ツルさんは家に急ぐ。酒の酔いはすでに醒めていた。このところ、ずいぶん酒に弱くなった。家に帰ってもほとんど酒を口にしない。以前とは大違いの生活だ。
 家に近づいた時のことだ。ドアを開けようとしたら、
 「すみません……」
 と背後から声をかけられた。
 慌てて振り向くと、女性が立っていた。暗いのではっきりと顔は見えなかったが、二十代前半ぐらいのほっそりとした女性だった。
 「何でしょうか?」
 ツルさんが恐る恐る尋ねると、女性は黙ったまま、言葉を発しない。何も言わず、ツルさんの背中におんぶされている竜馬をじっと見つめている。それを見てツルさんは、
 ――竜馬の母親だ。
 と直感した。ツルさんは、女性に向かって、
 「まあ、どうぞ。汚いところですけど、入ってください」
 と言って部屋に招き入れた。
 マンションの2DK。鶴さんの部屋は一階の一番奥にあった。入ってすぐのところに一部屋あり、DKを挟んで、奥にもう一部屋。広くはないが、狭いというわけでもなかった。
 ツルさんは女性を奥の部屋へ案内した。
 「適当に座ってください」
 と言いながら座布団を差し出し、ツルさんは竜馬を背中から降ろして竜馬用に買った小さな布団に寝かしつけた。竜馬はスヤスヤと軽い寝息を立てている。
 「竜馬のお母さんですね。竜馬は元気にしています。安心してください」
と言いながら、ツルさんは女性に、もっと竜馬の近くに来るよう勧めた。
竜馬の寝顔を見ていた女性の目から、突然、ポロポロと大粒の涙がこぼれ出た。
 「本当に申し訳ありませんでした」
 女性は畳に額を擦り付けるようにしてツルさんに謝った。
 ツルさんは、女性に頭を上げるように言うと、
 「いろいろ辛い事情があったんだろうけど、どうしてこんなかわいい子を捨てる気になったんです?」
 と聞いた。
 女性は一つ大きくため息をつき、ツルさんを見つめると、か細い声で、捨てるに至った状況を話し始めた。

 ――田村奈津美と申します。二十三歳になります。両親が教員という厳格な家で育った私は、子供の頃から奔放で自由な生き方に憧れを抱いてきました。私立の女子中、女子高と何不自由なく進み、そのまま女子大へ進もうという時、一人の男性と知り合いました。通学の途中、声をかけられたのです。オートバイに乗ったリーゼントスタイルの彼は、笑顔で「おはよう」と言うと、身も知らない私に、突然、後ろに乗らないか、と言いました。その時の私はきっとどうかしていたのだと思います。男の後ろに乗って――。
男と付き合うようになった私の人生は、そんも時から変わりました。卒業間近の高校へ行かなくなり、家に帰らない日が続いたのです。両親は怒りますし、もちろん、彼のことを認めようとしません。それに腹が立って家を飛び出しました。
 男は私の他に何人もの女を作っている遊び人の男でした。私は本気なのに、彼にとって私は、遊びで付き合っている一人に過ぎませんでした。
 家を出た私は、彼の住まいに飛び込みましたが、そこは彼が同棲している女性の部屋だったのです。仕方なく、私は、手っ取り早く稼げそうなキャバクラに勤め、そこの寮で暮らすことにしました。
 そんな私のところへ男は時々やって来ては、『お前だけや。俺の女は』と甘い言葉をささやいて、金をせびり、私を抱いて帰るのです。そんな生活がしばらく続いたある日、私は妊娠しました。男に告げると、『堕ろせ』と声を荒げて言いました。仕方なく中絶しましたが、その時から、私は男のことが嫌になり、逃げるようにしてキャバクラをやめると、女子寮のある工場で働き、男の前から完全に姿を消しました。
 工場で二年ほど働き、その後、友人に誘われて、日本橋にあるお惣菜店を手伝うことになりました。小さな1DKのマンションを借り、仕事も充実して本当に楽しかったのですが、どこで知ったのか、私が働くお惣菜店に男が突然、現れたのです。
 男に捕まった私は、元の木阿弥です。男は完全なヒモに成り下がっていました。私に食らいついた男は、飴と鞭で私を束縛し、風俗で働かせようとしました。私は男から逃げました。捕まったら何をされるかわからない恐怖に怯えながら、私はいろんなところで働き、大阪を出ることを考えました。大阪を出ることが出来なかったのは、両親のことが心配だったからです。家を出た後、私は一度も家に帰っていませんでしたが、それでも時々、両親の様子を見に家の近くに行くことがありました。男が両親を脅迫しないか心配でしたし、元々、二人共、病気がちでしたから二人の健康が心配でした。
 それでも、しつこく私の後を追いかけてくる男に、いつ、居場所を突き止められるかわかりません。友人の家を転々としているうちに、妊娠していることに気付きました。医師に相談すると、今度、堕胎すると、今後、子供が生まれない可能性がある、と言われ、悩んでいるうちに、時期を逸してしまいました。親切な友人の世話になり、どうにか子供を産むことができましたが、いつまでも友人の世話にもなることができず、新しい勤め先を探したのですが、子供がいては仕事が出来ず、悩んで、友人の家を訪ねる途中、あなたを見かけました。酒に酔っているのか、大声で歌を歌いながら私の前を歩いていました。身体も大きいし、恐そうな人だな、と思い、近づかないようにゆっくり歩いていると、突然、私の方を振り返って、『今晩わー! 元気ですか!』と声を上げるんです。その声に驚いて、竜馬が大きな声を上げて泣き出すと、あなたは、私の近くへやって来て、竜馬を抱き上げ、『ベロンベロンバー』とやると、泣いていた竜馬がキャッキャと笑い出して、目をキラキラさせてあなたを見ているのです。竜馬を受け取り、去って行くあなたを、思わず私は追いかけました。独身なのか、既婚なのかわかりませんでしたが、この人なら、竜馬を大切に育ててくれるのではと、その時、思ったのです。
 マンションの一階、ドアを開けて入ったあなたの様子を見て、独身であることがわかりました。私は、あなたの部屋のドアの前に子供を置いて行こうと思い、子供を置いてマンションを離れたものの、また、すぐ引き返して子供を抱き上げる――。朝までそんなことを続けているうちに夜明けがやって来ました。手紙を書き、封書に入れ、それでもまだ、悩んでいました。子供のそばを離れるのが寂しくて、竜馬に申し訳なくて――。
 その時、ドアがガタガタと鳴って、ドアが開きかけました。午前五時、こんな時間に仕事に出かけるのかと思い、驚いて、思わず、竜馬をドアの前に置いて、走り去りました。
 ドアを開けたあなたは、赤ちゃんがいることに驚き、警察に届けようと思ったのでしょう。赤ちゃんを抱いたまま、急ぎ足で歩いて行きました。やはり、取り返そう、竜馬を取り返そう、そう思った私はあなたの後を追いかけました。すると、あなたは、急に立ち止まると、竜馬に何か話し始め、竜馬がキャッキャと笑うと、頬を摺り寄せて、そのまま家に戻りました。
 その日、あなたは、竜馬を背中におんぶして仕事に出かけました。その姿を見て、私は何とも言えず、申し訳ない気持ちで一杯になりましたが、あなたのところへ行って、竜馬を取り返すことはとうとうできませんでした。

 田村奈津美は、再び畳に額を擦り付け、詫びながら泣きじゃくった。
そんな奈津美を見て、ツルさんが言った。
 「今日、わしのところへ来たということは、ようやく竜馬を育てる目途がついたということやな」
 奈津美は、嗚咽しながら、小さく頭を振った。
 「わかった。竜馬にはお母さんが必要や。大切に育ててやってくれ」
 眠っている竜馬を抱き上げると、毛布にくるんだまま、奈津美に手渡した。
「 わし、あんたと初めて会った夜のこと、酔っぱらっていて何も覚えてない。朝、ドアを開けたら、赤ちゃんが置かれてあったのでびっくりして――。でも、よかった。こうやって迎えに来てくれて。実は、わしもあんたには感謝しているんや」
 竜馬を抱いた奈津美が、エッという顔をしてツルさんを見る。
 「竜馬と暮らした半年余りの時間、わし、ほんまに楽しかったわ。ありがとう」
 そう言ってツルさんは、奈津美に右手を差し出した。髭もじゃの大きな手である。一瞬、奈津美はためらったが、差し出されたツルさんの右手をしっかりと握り、もう一度、ツルさんに感謝の言葉を述べた。
 帰り支度を始めた奈津美に、ツルさんが聞いた。
 「あんたをしつこく追いかけまわしている男やが、その後、どうなった?」
 奈津美は首を振って、
 「捕まらないように逃げています。今はどうしているか、まるでわかりません」
 と答える。
 「その男があんたを追いかけまわさないようにしてもええか?」
 「えっ!?」
 「わしが話を付けてもええかと聞いているんや」
 「あなたがですか? でも、あの男、凶暴ですし、暴力団とも関わりがあるようなので、危険です。あなたをそんな危険な目に合わすわけには行きません」
 「竜馬のことを心配して言ってるんや。あんたが、その男に未練がないんやったら、わしがその男に会ってくる。かまへんか」
 「でも……」
 「まだ、未練があるんか?」
 「未練はありません。あなたにそんなことまでさせて、申し訳ないと思っているだけです」
 「かまへん。半年余りやけど、わしは竜馬の父ちゃんやった。かわいい子供のためや。気い使うことあらへん」
 ツルさんは、奈津美を追いかけまわしているという男の居場所を奈津美から聞き、
 「何も心配せんと、竜馬を大事に育ててやってくれ。ええな。二度と捨てたりしたらあかんぞ。そんなことをしたら、わしが承知せえへんぞ。何か困ったことがあったら、何でもええ、相談に来い」
 と言って聞かせ、部屋から送り出した。ドアの前に立って、ツルさんが二人を見送ろうとした時、そのことに気付いた竜馬が、
 「父ちゃん! 父ちゃん」
 と舌足らずの大きな声でツルさんに向かって叫んだ。
 ツルさんが手を振ると、竜馬は、奈津美の腕から逃れてその小さな手を精一杯伸ばして、ツルさんを呼び、何度も何度も「父ちゃん、父ちゃん」と泣き叫んだ。
 ツルさんは、こらえきれず、ドアを固く閉めた。
 「父ちゃん、父ちゃん」
 甘えん坊の竜馬の声は止まなかった。耳を塞ぎ、聞こえないようにするのだが無駄だった。ツルさんはその場にしゃがみ込み、大声を上げて泣いた。

 翌日、仕事を休んだツルさんは、奈津美に聞いた男の住まいに出かけた。午前十時を過ぎた時間だというのに、男はまだ部屋の中にいた。
ツ ルさんがドンドンとドアを叩くと、男は激しい剣幕でドアを開け、
 「何じゃこらぁ! 朝早うから何の用事じゃ!」
 ツルさんに食ってかからんばかりの勢いでまくしたてた。
 「田村奈津美を知ってるか」
 ツルさんが聞くと、男は薄ら笑いを浮かべ、
 「奈津美の居場所を知っているんか。知っていたら教えてくれや。奈津美は俺の女や。あいつにはもっと稼いでもらわなあかん。借金して追込みをかけられてどうしようもないんや」
 と言う。
 「お前、女と一緒に住んでいるやないか。奈津美のこと、何で追いかけまわすんや」
 「使える女は使わな損や。あいつは俺にとって便利な女や」
 男の言葉が終わるか、終わらないうちに、鶴さんのげんこつが男の顎に飛んだ。男は一回転してぶっ倒れ、しばらく起きて来なかった。
 「何さらすんじゃ。お前、わしのケツモチ、誰か知っとるんか」
 再び、ツルさんの拳が起き上がって来た男の鳩尾を捉えると、男は九の字に体を曲げ、腹を抑えてうめき声を上げた。
 「奈津美はわしの女じゃ。今後、二度と奈津美に近づいたら、お前、命ないぞ! わかったか」
 男は、腹を抑えたまま、じっとツルさんを睨みつけている。その男の顔をツルさんが容赦なく蹴とばした。
 「わかったかと言うとんのじゃ。返事をせんか、返事を!」
 息も絶え絶えの男は、ハアハア喘ぎながら、声も出ない。
 その男の髪の毛を掴んで立ち上がらせると、男の目を睨みつけてツルさんが言った。
 「まだわかってないんか? 奈津美にお前がしたことを考えたら、殺しても飽き足らんのやが――」
 男の髪の毛を鷲掴みにしたまま、鶴さんが拳を大きく振り上げると、男は情けない声を上げて、
 「わかりました。二度と近づきません。本当です」
 と拝むようにして言った。
 「聞こえへん。もっと大きな声で言わんか!」
 ツルさんが男の頬を強くビンタをすると、男は、
 「近づきません。近づかないから許してください」
 と泣き叫ぶようにして言う。
 「もし、一歩でも近づいたら、わしが速攻でお前を壊す。このぐらいで済んでラッキーやと思とけよ。今度はお前の体、バラバラにする。どこの暴力団か知らんが、駆け込むんだったら駈け込んでもええぞ。わしは現場の肉体労働者や。いくらでも相手にしたる」
 男は体を丸めたまま、
 「助けてください」
 を連呼する。ツルさんは、ようやく男のそばを離れ、ドアを閉めた。

 ツルさんがえびす亭のガラス戸を開けると、中にいたみんなが、驚きの声を上げた。
 「ツルさん、赤ちゃんはどうしたんや!?」
 ツルさんは、寂しく笑って、
 「逃げられた」
 と答えると、えびす亭の中にいた森さんが、
 「そうか、赤ちゃんにまで逃げられたんか」
 と、しみじみとした声で言ったので、えびす亭にいた客たちが思わず爆笑した。
 「マジでどないしたんや?」
教育委員会の狭川さんが真面目な顔で聞いた。ツルさんが淡々と答える。
 「竜馬を捨てたお母ちゃんが、迎えにきたんや」
 「迎えにきた? それで、あっさり渡したんかいな」
 「子供を育てるの、わしには無理や。どっかへ捨てたろかなと思っていたところに、うまいこと竜馬のお母ちゃんがやって来て、戻してくれと言われたから、これ幸いにとばかりに渡したんや。何や知らん、えらい楽になったわ」
 そう言って、ツルさんが日本酒を呷った。
 「でも、楽になったのに、何でやろ、酒がまずいわ……」
 ツルさんはそう言って嗚咽し、大粒の涙をこぼした。

 竜馬のいない家に帰ると思うと、何となく足が重たかった。ツルさんは、それほど深酔いすることなくえびす亭を出て、とぼとぼとした足取りで家に戻った。
 ドアを開けようとすると、
 「父ちゃん!」
 と、たどたどしい声がした。慌てて周囲を見回すが、竜馬がいるはずもなく、苦笑して、ドアのノブに手をかけると、再び、
「父ちゃん!」
と声がした。今度はよちよちした足音が同時に聞こえた。その方向に視線をやると、竜馬が拙い足取りで近づいてくるのが見えた。驚いたツルさんが、
 「竜馬!」
 と声を上げると、竜馬が龍手を伸ばしてツルさんにしがみついてくる。竜馬を抱き上げたツルさんが、
 「竜馬、どないしたんや?」
 と声をかけると、竜馬の背後から
 「この子が、父ちゃん、父ちゃんと言って泣きやまないので――」
 と、奈津美の声がした。いつの間にか、奈津美が立っていた。それを見たツルさんが、
 「奈津美さん、どうして?」
 と驚いた声で尋ねると、奈津美は笑顔で、
 「この子にはあなたが必要なようです」
 と言う。ツルさんは、首を振って、
 「でも、お母さんはもっと必要ですよ」
 と言い聞かせるように言うと、奈津美が小さな声で言った。
 「竜馬があなたを必要としているように、私にもあなたのような人が必要です」
 ツルさんが、目を丸くしていると、奈津美がツルさんに聞いた。
 「あなたに、私は必要ありませんか?」
 竜馬を抱いたまま、ツルさんが顔を真っ赤にしていると、竜馬がその顔を見て、キャッキャとひときわ大きな笑い声を上げた。
<了>


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