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ゴジラ初心者が「ゴジラ-1.0」を観た

お久しぶりです。3週間ぶりですね。もう誰だか覚えていらっしゃらない方もいるでしょうから、今一度自己紹介します。じらいじょていという名前で今年の9月から毎日note書いていた筈だけども、色々病んだりなんかあったりして2週間目あたりで毎日投稿できなくなり、しまいには3週間全くnote手付かずだった人です。よろしくお願いします。

ちなみに、その空白の3週間何をしていたかというと、とにかくnoteを書くのが面倒くさくなり、積んでいたノベルゲーの消化に生活の95%を費やしていました。そのノベルゲーの話も追々出来たら理想なのですが、ご存知の通り今はnoteに対するモチベが一旦下がりきってしまった状態から漸く少し回復してきた状況なので、またいつモチベの暴落が始まるかは私にも解りません。

まあ、そんな中でつい先日「ゴジラ-1.0」を友人と観てきたのですが、思いの外、好きな映画だったので今日はそのレビュー紛いの内容をお送りします。

ちなみに私は、ストーリーの要約やあらすじの説明が驚くほど下手な人間なので、ネタバレの心配はおそらくありません。

まず、本作において、物語の舞台が「戦中」から始まるという点が秀逸。これは単なる理由なき舞台設定ではなく、「1945年からの数年間」において日本にゴジラが出現することに意味を持たせている。

時系列的に見ても、ゴジラの設定の根幹である「核兵器の使用による出現」と1945年は辻褄が合い、そこから1952年公開の初代までの流れもスムーズに説明できる。

そして、戦後直後という状況なので、東京は焼け野原状態でまさにゼロな状況なわけだ。そこから徐々に復興していくなかで希望を見い出し始める周囲と、戦時中にゴジラの襲来を受けた中で数少ない生き残った特攻兵の主人公が、自らの「神風特攻からの逃げ」と「ゴジラに立ち向かうことからの逃げ」に後ろめたさを感じ続け、未だに「自分の戦争が終わっていない」と嘆く世間との対比がつくり出せる。これだけでこの「ゴジラ-1.0」は戦争映画の中でも一定のオリジナリティを演出することに成功している。

また、監督のゴジラに対するフェチズムも随所に感じられるのも魅力。本作ではゴジラ駆逐のために「高雄」という戦艦が登場する。私は戦艦に関しては全くの無知なので多くは語れないが、史実通りならばこの戦艦は1946年に処分されているため、劇中シーンの1947年には登場しない筈なのだが、史実を改変してまで、「ゴジラと高雄」の組み合わせが観たい、という監督のゴジラ熱が窺える。

また、特撮において最重要な「ビジュアル」に立ち返って観ても、本作は堂々の満点といえるであろう。

ゴジラがゴジラである所以、「災害の象徴」としてのゴジラが、そのまま表現されている。人間同士の殺し合い・戦争で生き残った勝者、戦いから逃げた敗者、戦いには巻き込まれなかった学者や若者、女、子供らが、「災害」を目の前にして等しく「被捕食者」と化す風景。数秒前までは、溌剌とした様子で街を闊歩する若者、どことなく憂いを抱えながら街をトボトボと歩く若者、それらを包む街を、一瞬にして等しく「無」へと帰す、蒼く輝く放射熱線。それが「災害としてのゴジラ」の醍醐味だ。それが本作ではちゃんと描かれている。やはり、これをMAXに体感するならIMAXの映画館で観るべきだ。なんか勝手にIMAX予約してくれてた友人に感謝。

そして、「災害の出現」とセットで語られるべくは「人間の知恵」。ゴジラを駆逐するための作戦もまた良い。本作独自の「戦後直後」設定が活きてくる。敗戦直後にGHQに占領されボロボロの状態の日本政府に、対ゴジラによる武装がソ連との対立を招く恐れが...とか言い訳を抜かしてシラを切るGHQ。絶対絶命のなか「これどうするんだ感」がマシマシで非常にいい感じ。この後の展開がかなり面白いのでこれは是非劇場に足を運んで確かめてもらいたい。最終的な対抗手段も「まさかそんな方法で!?感」が結構あり、いい感じだ。そして、それと同時並行で進む主人公自身の戦いが、映画のクライマックスで皆の大義と交錯する、そして戦争映画であるからこその、たった一つの結末。そこまで含めて非常にスムーズかつ観やすく、腹いっぱいになって帰れる出来上がりだ。

「シン・ゴジラ」からのバトンを正統に受け継ぎ、ゴジラ史においても一定の存在感を放つ一作になったといえるだろう。と友人も申しておりました。

私のような初心者からガチ勢、ファミリーからカップル、誰が観ても満足出来る「ゴジラ-1.0」。最近観た私の映画の中ではかなり良作でした。

とまあ、こんな感じでリハビリがてら3週間の穴を埋めるべくまた文章を書いていきたいと思いますんで、宜しくお願いします。では。

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