postコロナの中でのニュースペース

レムコールハースのグッケンハイムNYで眠る ‘countryside , the future’展のスライド。

https://oma.eu/lectures/countryside

さすがいつもながら多義的矛盾平衡をゴロんと示す切れ味は変わらず。そして偶然にもこのタイミングに田舎を語る運の振幅力。
コロナ前に作られたこのイシュー「田舎/未来」だが、情報技術革新が生み出した集約型農水畜産工場と、憧憬の衣を纏ったオフィスや宿といった飛び地的多レイヤーとクラスター。このまだらな都市空間への変容を捉えているのは「大都市の建築の為の事務所」を主宰するレムであり、彼の慧眼さが半端ない。

今突きつけられた社会的距離というニューデフォルトの前で都市の価値は劇的に暴落した。
全ての農業、産業、経済、文化も都市そのものも人も「集まる」事にひたすらに向かって来た。技術は集まる空間と物質と情報をひたすら密にし、その出入り速度を可能な限り上げてきた。都市はその象徴だった。スポーツもマーケットもフェスも。
この「新しい都市」像は、過密から適疎という、コンパクトシティーのようなゾーニング分節ではなく、疎に広がる小規模の密がパーティクル状に分散する。それは細菌やウィルスのようでもあり、発酵する善玉と宿主の細胞を壊死させる様なウィルスという2つの事象の同時発生である。
With&afterコロナの世界において考えなければいけない事。
ーツーリズム後
ーグローバル後
ーマスギャザリング後
という、レムですらスコープに入れていなかったニューノーマル。ビジョンではなくリサーチの観察事実として示されたcountrysideはどう変容するのか?

ここは我々はどんな社会を目指したいのかから再考したい。デジタルによる透明性と新しいプライバシーの技術の構築、そしてそれを生かした倫理的信用を担保できるガバナンスが必要。それを空間(土地)レイヤーで区切られた地域行政のみに寄らないネットワーク型はより進めなければいけない。そして工業化した多様性なき農業と酪農(集中型)はウィルスへの脆弱性を抱える故、集中効率を落とし情報通信技術を駆使する事での分散農へ。そしてリサーチには現れなかったエンターテインメント産業は、運用コストが低い自然を十分な空間(3疎)と時間で他者との距離を保ちながらその隙間に展開する。
アクティベートさせる空間をcountrysideまで点的に広げ、時間利用は1日を24時間へ引き延ばし、人と活動を分散。そういう分母の上に人を最低限必要な物質(容積/質量)と、必要性を忘れてしまう程の十分な情報インフラを、公道の様な公共土木として整備すべきだと思う。その中で、他所同期的文化が多孔質でトポロジカルな社会空間の中で生まれる筈だ。




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