ヘビにかまれたこと、ありますか? その2

「その1」はこちら↓




「雑誌をめくる左の親指が止まり、
 そのページに感じた既視感、それは、
 モデルをやっていたころの
 おかあさんでした。


 あこがれの白いチャペル、
 きれいな脚が、ドレスの下で美しく、
 バレエ仕込みの軽やかなステップに
 柔らかなAラインを踊らせ、
 ベールの下、みずみずしい白肌に
 浮かぶ至福の笑み。


 今そこにあるすべてに目を輝かせ、
 異国の神父、背後に青い海の広がる
 孤島の小さなチャペル、尖塔に鳴る鐘は
 モデルの一瞬一瞬を捉えようと追う
 シャッター音を優雅に包み、
 まだ見ぬ花嫁たちの先頭に立ち、
 あこがれのシーンをフィルムに刻んでいく、
 若々しい歓喜にあふれたおかあさんが、
 雑誌の見開きの中央に、
 踊り出すのです。


 けれど、…次第におかあさんは、
 ドレスの中に隠した
 右足首の痛みに耐えかね、
 そのしなやかでかほそい上半身の動きに
 ほころびがあらわれはじめるんです。


 歪む眉間が長い睫毛を組み伏せ、
 額に汗を滲ませていくおかあさん。
 ふいにバランスを崩し、
 …あぁ、って思った、その瞬間に、
 『痛っ』って、わたし、
 急に右の足首がチクってして、
 小さな悲鳴、
 はずみで雑誌を両手からこぼしました。


 その痛さに先立つ
 何か背中の奥のほうから襲ってくるような
 言い知れぬ恐怖に、
 痛む箇所も確認できないまま、
 すーっと、目の前が暗くなりはじめて、
 隣で立ち読みしていた若い女性が、
 その場に倒れた私に駆け寄ってきて…。


 そして、気がついたら私、
 白い天井を見つめて、それから
 わたしの名をちいさく口ずさみ、
 涙を浮かべるおかあさん、
 病院まで付き添ってくれた若い女性の
 安堵のため息、医師の微笑みに囲まれて、
 病院のベッドに横になっていました。


 救急車の中、どうやら私の携帯に
 仕事を終えた母から連絡があったようで、
 若い女性が親切にも、母に事情を説明し、
 病院の場所を教えてくれたそうなんです。


 おそらくムカデのしわざだろう。
 刺されたショックで、
 気を失っちゃったのかな?
 医師が言い切らないうちに、ふっと
 華奢な肩をすぼめながら、
 その親切な女性が、笑ったんです。


 品があり、責任感が強そうな、
 今思えば、ほんとうに
 いじらしいほどきれいなお姉さんでした。


 みんな、不思議そうに彼女を見つめると、
 『あ、ごめんね。あのとき本屋で
  倒れちゃったあなた、抱き起こして
  どうしたの?って聞いたら
  ヘビにかまれました、って
  答えたのよ。覚えてる?
  今ね、よくよく考えたらそんなこと
  ありえないなって、ね。
  あんなきれいな駅ビルの上で。
  …って、そういう意味だと
  ムカデもめずらしいんだけど。
  そう、それで、
  そのときわたしも気が動転してたから、
  ヘビってことでスルーしちゃってて、
  救急車の方にも、そのまんま
  そう答えちゃったなって。
  あ、ごめんね。気にしないで』


 覚えのないわたしの返答を耳にし、
 わたしの奥底に巣食う不安が
 フナムシの群れように黒く這い出し、
 ムカデなんて、あのころわたし、
 実際に見たことなかったし、
 その不気味な名前と、図鑑に載ってた
 リアルな絵が、頭の中で、
 三十センチくらいの大きさで蠢いて、
 ぶくぶくふくれていくような、
 膝上にまで迫りそうな、
 はちきれんばかりの右足の痛みに
 ふいに意識がいっぱいになり、
 急におそろしくなってきて、
 先生に聞いてしまったんです。


 『足、切らなくって
  だいじょうぶなんですか』


 驚いた顔を見せた後、
 『え?うん、だいじょうぶだよ』って、
 先生と女性は、おかあさんのこと、
 きっとおかあさんの右足のこと、
 気にしながら、いたたまれない表情に
 固まってしまい、
 病室が、すんと冷たくなったの、
 あっ、て気づいて…。


 自分だけは助かりたいって
 思ってしまったわたし自身、
 おかあさんの傷をえぐり出した
 バカな質問に、わたし、
 つらくって、耐えきれなくって、
 泣きたいのは、おかあさんのほうなのに、
 泣いてでも、思い切り叩かれてでも
 許してもらいたい気持ちで
 いっぱいになりました、そのとき。


 4歳の頃、父に思い切り頬を打たれた
 ことがありました。


 わたし、父とおかあさんを巻き込んで、
 リカちゃん人形で、ごっこ遊びを
 していたんです。
 理由は忘れてしまいましたが、
 遊びの途中、おかあさんに
 強い怒りを感じた幼い私は、
 母にとんでもない仕打ちをしたんです。


 手元にあったリカちゃんの
 すらっとしたきれいな長い右の脚を
 膝から後ろに無理矢理折って、
 『はい、おかあさん』って、見せました。


 そのことをふと、その場で思いだし、
 わたし、こみあげてくる不安と罪悪感で
 いっぱいになり、みんなの前で、
 あのときみたいに泣きだしてしまいました。


 こんなこと、だから罪深いわたし、
 この思い出を、
 わたしがはじめて
 ヘビにかまれたことにしているんです。


 だって先生は、
 実際に目撃したわけじゃないし、
 あの女性は笑ったけど、
 人に笑われるようなことでも、
 信じるのは本人の自由、
 ですものね?


 おかあさんの右足をかんだのが、
 ムカデだったら、
 ウェディングドレスを着た
 おかあさんの写真は、
 今も残っていたはずだから。

 あの日から、わたしは踊れなくなりました」

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