ヘビにかまれたこと、ありますか?  その1


「ヘビにかまれたこと、ありますか?
 わたし、二度あるんです。


 一度目は、わたしのちいさなころでした。
 わたしの家族は、都会のマンション暮らし、
 その日、わたしは習い事の帰り、
    ひとつむこうの駅前のバレエスタジオを出て、
 おかあさんにライン、
  ―ごめんね、まだ仕事終わってなくて―
 あのときは、よくあったことで、
  ―いいよ、本屋でまってる―
 駅ビルの、最上階のレストランフロアの
 下の階にある、いつもの本屋で
 立ちよみをしていたときのことでした。


 わたしはそのとき、ティーン向けの雑誌、
 背のびしてたわけでなく、
 ただそこにあったから、
 手あたりしだい、見るともなく見ていました。


 バレエ教室でいやなことがあったのか、
 おかあさんにうちあけられない、いや、
 言葉にできないような不満があったのか、
 まなざしは、わたしの内側にそそがれていて、
 頭の中にうずを巻く思い、
 左の親指でページをめくりながら
 掃いていくような気持ちだったの、
 今でもはっきりとおぼえています。


 あるページに目がとまりました。
 きれいなウエディングドレスをまとった
 おとなの女性たち、
 ブーケにヴェール、リボンにケーキ
 赤いリップ、白い扉、
 スタンダールの描く
 壮麗な舞踏館で華やかに舞う
 すべてにめぐまれた貴婦人たちのような
 浮遊感のある香りと雰囲気につつまれて、
 しなやかな白い手に、
 軽やかで肌触りのよい長い裾、
 まるで地上にふさわしくないような空間にふくらみ、
 とりどりに踊らせていました。


 その見開きに、なんで目がとまったのか、
 それは少女たちがあこれるようなはなやかさ、
 からではなく、
 わたしの個人的な既視感にふれた、
 それなんです。


 そういった女性たちの至福の到達点を目にし、
 少女たちが心ときめかせるような感慨は、
 あのときも、わたしにはありませんでした。


 わたしにあったのは、
 ある『狭さ』、だけでした。


 サイコロをふれば、6の目、
 ふと目をさませば、7時6分、
 はなびらをむしれば、『すき』、
 たとえばこんな、ささいなことたち、
 おなじことが三度つづくとき、
 どこか不安になりませんか。


 なにかにしばられていると実感してしまうような、
 だれかに『絶対』をおし売りされているような、
 そして、なんだか、
 すこしおおげさかもしれませんが、
 自分の人生を
 すっかりつかいはたしてしまったような哀しさ、
 きれいなお花畑をスキップしていて、
 灰色の壁に行きあたったときのような虚しさ。


 サイコロとか、いま何時とか、花占いとか、
 こういった気なぐさみ、そのなりゆきに、
 ほんとは、
 ささいな幸不幸を感じたり、
 ただなにも感じなかったり、
 するのがあたりまえかもしれないのに、
 わたしは、そう、わたしは、
 わたしの運命みたいなものを
 そこに感じてしまう、わたしなんです。


 なんでも、おんなじことが三度つづけば、
 わたしは狭くなるんです。
 わたしが狭くなって、わたしが決まる。
 わたしの皮膚にぴたっとひっついてしまう。
 モンティセリの『倒れた花瓶』、
 見たことがありますか?
 と、モンティセリってしらないですよね。


 枕草子、よんだことありますか?
 清少納言は、『とりえなきもの』の段の前に、こういっているんです。


   つれづれなぐさむもの、
   ご、すごろく、ものがたり、
   みつよつのちごの、ものがたりし、
   たかへなどいふわざしたる


 しらないですよね。


 わたし、枕草子、いちど
 源氏物語の作者の喉をかりてよんでみたんです。
 そう、そのときは、きっと今みたいに
 わたし、時間をもてあましていたんでしょうね。
 そしたら、その哀しげな声はこうよむんです。


   つれづれなぐさむもの、
   し、すごろく、ものがたり


 『ご』から『いち』をひくと、『し』、
 なんですって。
 『し』になると、
 『すごろく』や『ものがたり』はおろか、
 あとにつづく言葉たちが脱皮して、
 ほんとうの、なまなましい姿を、
 わたしにさらけだしてくるんです。
 そこがいかにも、彼女の人生らしくて。


 彼女の場合、字義どおり、
 ってわけにはいかなくなるんですね。
 現実に死角から刺されてはじめて、
 言葉たちは本来の意味から
 苦々しく解き放たれていくんです。


 そして、彼女はひとつの疑問を
 わたしにおいていくんです。
 ひいた『いち』ってなんだろう、
 わたしはそこまで考えてしまうんです。
 『位置』、じゃないかって。


 って、そんなこと、みんなからすれば、
 ただの言葉あそびにすぎないんですけど。
 『命がけの跳躍』って言葉、
 聞いたことありますか?


 ごめんなさい。
 すこし話がそれてしまいました。


 舌にふれやすい箇所に、
 口内炎ができた。
 なにもしないところから、
 ぬるい血がふきだした。
 ながす理由のない涙のとおり道に、
 ふきでものがでてきた。
 わたしは三つ、数えあげてしまうと、
 大好きだったバレエをやめてしまいました。


 と、そうでした、
 ヘビの話をしていたんでしたね。
 ごめんなさい。


 …ごめんなさいは、まだ、二回目ですよね?」



ー続ー

「その2」はこちら ↓


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