#番外編13 競馬は儚く美しい【博打&賭けの本質】
皆さんこんばんは!
いきなりですが今日は番外編として、自己紹介でも書き、たまにつぶやきもしていた、一昨日フェブラリーSがあり、盛り上がった競馬について語ろうかなと思います。
父と競馬を見ていた幼少期
自己紹介で書いていましたが、実は僕は競馬歴30年で、小学校の頃から父に競馬場やWINS(場外馬券場)に連れいかれて競馬をやりはじめました。笑
初めて競馬を見たのが1993年のトウカイテイオーが復活して勝った有馬記念。ウマ娘とかで知っている人は多いレースだと思いますが、当時、あの小さい中山競馬場に16万人のお客様が来ており、足の踏み場もないくらいギューギューでしたが、トウカイテイオーが上がってきた時の歓声が物凄く、勝った後のスタンドの拍手・・・
本当にあれは感動ものというか凄いの一言でした。
そこから2年ちょっと経ち、初めて馬券を購入して見たレースが1996年ファイトガリバーが勝った桜花賞で、その前世代がサンデーサイレンス産駒の最初の世代でジェニュイン・タヤスツヨシ・ダンスパートナーとサンデー産駒がクラシックレースを勝ちまくり無茶苦茶競馬界が盛り上がっていた時期です。
さらに上の世代には3冠馬ナリタブライアンや女傑ヒシアマゾンがいて、どのG1も凄い白熱した戦いが見れました。
そして僕の支えになってくれたのがグラスワンダーという栗毛の怪物と言われ、何度も故障をしては乗り切って凄い力を魅せてくれた馬がいます。1999年の有馬記念では武豊騎手の乗るスペシャルウィークと鼻差4㎝差で勝つと言う奇跡を見せてくれました!
あの時も父と競馬場に行き僕はグラスワンダーの単勝を2万円握りしめて、最初武豊騎手がウイニングランした時に負けたーと思い、父がニヤニヤしていると思ったら父はスペシャルウィークの単勝を5万円握りしめていたみたいで、、、その後の展開は想像にお任せします!笑
で、当時の有馬記念も観客数10万人はゆうに超えていたと思います。
今の競馬だと観客数10万人超えることなんてもうほとんどなく、2023年の日本ダービーでも7万人弱、イクイノックスVSドウデュースの2強戦いに沸いた天皇賞秋ですら7万人強、有馬記念が5.4万人と昔のような熱狂的な競馬ファンだったり馬券ファンはいなくなってしまったように思えます。
時代が進んだことにより、ギャンブルが良くないだったり、喫煙にたいして厳しくなる風潮が強まり、JRA(日本中央競馬界)や地方競馬も競馬場を場末な感じから、新しいデートスポットや家族で楽しめる遊園地のような感じにしてしまったことが原因の1つの気がします。
僕はどちらの雰囲気も好きですし、カオスみたいな雰囲気でも良いんじゃないかなぁというのはありますが、、、
ただ競馬場で本当に『博打』を打っている人は少なくなったなぁ・・・と思います。
父から昔の話を聞いたのですが、
『俺が若い頃(独身の頃)は給料全額握りしめて、競馬場にいったもんだ。』
と、、、
で、競馬場に行く前に必ず一ヶ月分のカップラーメンを買って、全額負けても食べていけるようにしていたそうです・・・笑笑
『博打』を打つということ
博打と聞くと、皆さん怖いイメージやネガティブな感情が先行してあると思います。
競馬のバクチは、『博打』を打つことと『場朽ち』ることの2つの意味を持っていると考えます。
バクチという響きを聞くとやっぱりネガティブなイメージが先行しますが、博打と書いてバクチなんですね。
つまり『博打』とは博識を打つことを言います。
博識とは、幅広い知識を持っていること。で、それを打つということは、すなわち知恵比べをするということ他なりません。
知恵を振り絞り戦い、馬券を的中させようとすることなんです。
そう考えると美しくないですか?笑
実際に宝くじとかの場合は運が全てです。本当に完全確率の勝負。つまり博打を打つということにはならない。そしてそこで手にしたお金もあぶく銭になります。
競馬は違います。血統・調教・タイム・騎手・成長・距離・コース・実際に走った距離・着差・レースの優劣・過去の傾向
そういう全ての知識を振り絞って予想する。そしてお金を賭ける。
これは博識を打つ以外の言葉はないと思います。
そして博識を打った結果、全力を尽くして負けたものは競馬場から去るしかない。そして誰一人と競馬場からいなくなり『場が朽ちても』全く不思議ではないのに、何十年と毎日のように中央・地方問わず競馬は存続しています。
父も未だに博打を打つし、僕も打つ。そして場が朽ちることなく競馬は続いていく。本当に凄いことだと思います。
なぜ父も僕も、そして競馬好きの人々は負けても懲りずに博打を打つ続けるのでしょうか?
賭けは死を垣間見れるもの
普通に生きている時は全くもって『死』というものの姿が自分の意識下に生まれることは非常に少ないと思います。
だけれども家族の死を見た時に『死』というものが目の前に突き付けられた気がしました。人間って死と隣り合わせで本当は毎日生きており、本当は生きると言うことは命賭けの戦いなんだと、、、
今の資本主義の世の中だと、色々なものに踊らされて生きており、この生きるということは命賭けの戦いなんだということから背を向けさせられます。
スマホを意味なくずっといじっていたり、携帯ゲームを脳死状態でやっていたり、季節のイベントが来ればそれに合わせて迎合して見たり、、、ホントに好きでそんなことやっているの?かと問われたら、そうじゃない!という人がほとんどなんじゃないかなぁって勝手ですが思います。
競馬でいうG1の日本ダービーとか先週のフェブラリーSなんかでのせられて競馬場に来て馬券を購入する人なんかは最たる例で、CMなどにのせられて競馬場は若い人や競馬を普段しないような人ばかり、購入する馬券も100円とかで記念に買っている位のもので、とても博識を打つという言葉からは程遠いです。
ただ資本主義社会に踊らされてきた、『みんながやるからやる。』という意識下ではそこに賭けるという考え方はなく、『死』からは全く遠ざかっています。
家族の死の話に戻りますが、生きているということは、必ずいつかはやってくる『死』というものを自分ひとりで引き受けないといけないということ。そして『全力で死に向かって毎日命賭けで生きなければいけない。』それが僕はこの世の真実だと思います。
だから先程話した資本主義社会にのせられ競馬のG1で馬券を購入して、お祭り騒ぎではしゃぎ、何の戦略もなく博打をすることもなく、ただ新聞の印を見て買う、名前が好きだから買う、パドックを見て可愛いから買う。
それで負けた悲しいとかほざいている人は賭けをおろそかにしているということ他ならないでしょう。
そしてもう一つ。
馬が走る理由って、人間が命賭けで生きる理由と似ています。
馬もいつかはやってくる『死』というものに向かって生きている。馬の本能は他の動物に襲われないために誰よりも速く逃げることであり、馬は死から逃げながら、同時に死に向かって全力で走っているんですよね。
競馬をやっている人はわかると思いますが、馬の1年は人間でいう4~5年にあたります。だから4~5倍速の速さで人生を映し出しているのが競馬というものなんですよね。
だから生まれながらに『死』の刻印が打たれた人間は、同じく『死』の刻印が打たれた馬を通して、人生を4~5倍速で映し出すことができると思います。
だから競馬って走る姿が美しいって言われますが、本当は哀しいんですよ。
その哀しさが美しいと思えるし、実は人間も同じで美しいんです。
ただ人間と馬の違うところが欲望があるかないかだと思います。
馬は純粋でエサを食べれることが幸せであり、欲で目がくらんだ人間と比べて『死』へ向かう哀しさと美しさを直に感じることができます。。。
今日の題名で書いた『競馬は儚く美しい』理由はこれなのかなって個人的には思います。
とここまでが今回のメイン部分です!笑
僕も競馬好きだったのと、父が病気になり残りの余生を楽しみたいということで、一昨年、無理やり有給を使い、父と10月にフランスの凱旋門賞を見に行きました!!
そんな感じで締まらない最後ですが、今日の記事はここまでで、また明日お会いしましょう!!
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