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はらぺこあおむし風刺画問題とイノセンスの所在について

毎日新聞の風刺画が話題になっている。
少し筆を取りたくなったので不肖ながら書いている。
大分前だが、かつても、毎日新聞では英文コラムに問題があるなどこうした事象が起きていた。
裁量が任されており、それによって数多の賞を受賞している側面もあるのだから、正直善し悪しなのだと思う。

私の娘も、件のはらぺこあおむしは大好きで、まだ2才にもならないがその色彩に心奪われて本読みをねだる。
風刺画は難しく、恐らくタイムリミットに迫られるほど中身は問われにくくなるのだろう。
手塚治虫さんも言っていた。創作に必要なのは、第一に批評性なのだから。

だが、現代においては第一義にイノセンスがメディアに求められる(SNSやYouTuberもそうだ)。
エリックカール氏は絵本というイノセンスの象徴であり、彼の死も、大いなるイノセンスだった。
今我々はさまざまな事情で(当然ながら私も)イノセンスを汚すものに敏感である。
今回、風刺画はイノセンスを汚した。
文脈や、ベストセラーにいたる歴史をないまぜにした過去から、今のイノセンスを「なかったかのように」風刺の舞台に登場させることは、現代において最も忌み嫌われることである。

そういう意味で、今回の風刺画は失敗と言わざるを得ないと思う。

他方、アリストテレスの言葉を思い出す。

「欲望は満たされないことが自然であり、多くの者はそれを満たすためのみで生きる。」

我々が10日くらい断食して(或いは10キロ走るか、古代からの不条理の闇にうずくまって)冷め切った目線で見れば、あおむしの健康的な成長と、IOC会長の生きる目的は同じなのかもしれない。

しかし、私たちはその狭間の、何か美しいものを見るのだ。
そのために生きると知れば、アリストテレスも違うし、なぜこの風刺画に私たちがむなしさを感じるのか、その本当の理由がわかるような気がする。

今日、2歳の娘が、公園で帽子を取り落とした男の子のそれを拾って、どうぞと差し出したのを見た。
私はその光景こそを信じたいし、たなびく新緑の緑がこの目にとってたしかに新しいのは、そういう理由なのだろう。

そんなことを思いながら、梅雨の合間も終わってゆく。

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