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【裏歴史スクープ】本当はエロい将軍「徳川慶喜」#02

この江戸幕府最後の将軍といえば徳川慶喜だが、じつは“超”がつくほどのスケベだという説もあるが果たしてその実態は──
(#02の続き)

ストレス解消はセックス

  慶喜は斉昭の7番目の男児として生まれたのち一橋家の養子となった。これは斉昭の、将来を見据えた措置だった。つまり水戸家は御三家ながら将軍に就けない決まりになっていた。なので斉昭は慶喜を御三卿の一橋徳川家に養子に出し、いずれ将軍に就けるという魂胆だった。
  一橋家の養子になって8年目の慶喜は18歳になり、21歳の美賀子を妻に迎えた。安政2(1855)年12月だった。美賀子という名は明治になってから改めたもの。結婚当時は延と名乗った。彼女は3歳年上の姉さん女房。しかも京都生まれのお公家様の令嬢ときている。なので結婚当初から夫婦関係は冷え切ったものだった。その証拠に2人の間に女児が1人生まれたが名がつくいとまもないうちに死去。この後彼女は死去するまでおよそ40年、いちども懐妊することがなかった。
 このほか夫婦仲がよくなかったことを伝えるものとして、慶喜がある未亡人と不倫していると邪推し、嫉妬に狂って狂言自殺をはかったというものがある。ま、今ふうにいえば世間体をとりつくろう仮面夫婦だったってことだろう。
 しっくりいかない夫婦生活を慶喜はもっぱら2人の側室とのセックスで解消した。慶喜は京都の二条城や大阪城に滞在中将軍になったので江戸城での政務経験はない。そのため大奥に踏み入ることなく退任した唯一の将軍だった。
 かつて大奥三千人ともいわれ、権勢を誇るとともに奥女中と茶坊主あるいは役者とつるんだのなんのとスキャンダルも絶えなかった。大奥には踏み入らなかったが慶喜にも十数人の側室がいた。だが将軍辞去後彼女らはお役御免となり、残ったのは須賀、お幸、お信の3人だった。このほかお芳という愛妾もいた。彼女は浅草の火消しの新門辰五郎の妹だった。
 須賀は旗本の娘。20歳で慶喜の側室になった。だがどうやらナニのほうはうまくいかなかったらしい。なのでヒットしたのはお幸とお信の2人で、どちらも子どもの名前が明らかになっている。名前を挙げるとこうだ。まずお幸が生んだのは厚、筆子、浪子、国子、糸子、誠。お信が生んだのは金子、仲博、経子、久、精、英子だ。このほか生母不明の鏡子がいる。また正室の美賀子がなした子や名もなく早世した子は含まれてない。
(#03に続く)

取材・文/岡村青