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不思議な和歌(後編)

みみらくの我日本の島ならばけふも御影にあはましものを

散木奇歌集

前回は、この "不思議な和歌" と出会うまでの経緯をお話したのですが、今回は、いよいよこの和歌の内容について、掘り下げてみようかと思います。

「海上の道」によると、この和歌には、源俊頼の書いた次のような詞書(ことばがき)が添えられているようです。

尼上うせたまひて後、みみらくの島のことを思ひ出でてよめる

散木奇歌集

尼上(あまうえ)というのは、恐らくは俊頼の父が亡くなった後に出家した、俊頼の母上のことを指すのではないかと思われますが、不勉強のため、その点定かではありません。

ですが、誰か俊頼の身近に居た女性が亡くなって、その人を偲んで詠んだ歌であることは間違いないでしょう。

では、その亡くなった人の御影(みかげ)=姿に、今日も会えただろうに、と言うこの和歌の後半部分は、一体何を意味するのでしょうか?

この歌の前半部分では、 "みみらく" が、我日本(わがひのもと)の島、則ち日本国内に在る島であれば、と歌っています。

これを素直に読めば、「ミミラクという名の島が、日本の島だったなら、自分がそこに出掛けて行って、亡くなった尼上にも会えただろうに」、という意味であると解釈出来ます。

仮定法の文なので、実際には、「死者に会えるというミミラクの島だが、他の国の島なので、行くことが出来ず、尼上に会うことも出来ない」と嘆いている歌である訳です。

「死者に会える島」、なんて聞くと、完全にファンタジー(或いはホラー?)の世界のように思える訳ですが、昔の人は、そういう言い伝えを本当に信じていて、亡くなった人に一目でも会いたいと思う自分の気持ちを、その島への憧れのような感情に置き換えて表現したのかも知れません。

「海上の道」でこの歌を取り上げた柳田国男は、源俊頼の時代(1055~1129年)には、実際にそういう言い伝えが残っていて、それが日本に実在する或る地名と、何らかの関係を持っているのではないかと考察しています。

(ここから先は、「海上の道」の内容に少しばかり踏み込んで行きますので、ネタバレを嫌う向きの方は、事前に「海上の道」を読むことをお勧めいたします)


その地名というのが、長崎県の五島列島の福江島にある「三井楽(みいらく)」です。この名前は、「万葉集」にも「肥前国松浦県美禰良久埼(まつらあがたみねらくのさき)」という名で登場し、「続日本後記」という古典にも、「松浦郡の旻樂(みんらく)の崎」という名で登場するそうです。この場所は、遣唐使を載せた船が、中国へ渡る途中に立ち寄る、中継基地のような港だったとのことで、今でも周辺には、遣唐使に縁のある史跡が、幾つか残っているようです。

辞本涯の碑

但し、柳田によれば、この場所が "ミミラクの島" そのものであるという訳ではなく、 ミミラクの言い伝えを元に、外国への門戸のような場所であった五島の港を、新たに "ミミラクの崎" と名付けたのではないかと言うのが、柳田の考察です。

確かに、海外への門戸のような場所だったとはいえ、遣唐使の昔から、五島は "我日本の島" だった訳ですし、三井楽の辺りで死者と会える、みたいな言い伝えが、かって有った/今も残っているというような話も、(自分の知る限りでは)聞いた事がありません。

と、言い切って一度記事を書いてしまったのですが、少し気に成って後から調べてみたら、「海上の道」を読んだ当時には見落としていた、幾つかの重要なことがわかりました。

それによると、源俊頼より少し前の時代に、藤原道綱母(ふじわらのみちつなのはは)という人の書いた、有名な「蜻蛉日記(かげろうにっき)」(974年前後)という作品があって、その中に "みゝらくの島" の話が出て来るようなのです。

藤原道綱母も又、百人一首に選ばれた歌人の一人で、「蜻蛉日記」にも、沢山の和歌が収録されています。和歌の第一人者であった俊頼も、当然の事ながらこれを読んでいたのだろうと思われ、恐らく俊頼は、この「蜻蛉日記」の記事のことを思い出して、みみらくの島の歌を詠んだのだろうと思われます。

「蜻蛉日記」では、母君の喪中であった藤原道綱母を相手に、読経の合間に僧侶が語った話として、以下のような内容が記されています。

「このなくなりぬる人の、あらはに見ゆる所なむある。さて近くよれば、消え失せぬなり。遠(とほ)うては見ゆなり。いづれの國とかや、みゝらくの島となむいふなる。」

国立国会図書館デジタルライブラリの「日本文学大系:校註 第三巻」「蜻蛉日記」の条から引用

この通り、「蜻蛉日記」自体には、"みゝらくの島" が何処の国の島であるかは、分からないという風に書かれているのですが、「日本文学大系:校註」によると、以下のような注釈がうたれています。

"みゝらくの島" 續日本紀「耳楽崎肥前國松浦縣」此の島には夜死霊現はるといふ。

同上

という事で、三井楽で幽霊が出るというような言い伝えは、本当に存在したのかも知れません。

ただ、その後も調べてはいるのですか、「続日本紀」の中には、"耳楽崎" という名は登場しないようです。"旻樂" が出て来るのは、「続日本紀」なので、果たして、出典を取り違えたのか、それともこの伝聞自体が誤ったものなのか……。

ちなみに、僧侶から "みゝらくの島" の言い伝えを聞いた藤原道綱母は、すぐに次のような和歌を詠んでいます。

ありとだに外(よそ)にても見む名にし負はば我に聞かせよみゝらくの島

同上

この歌は、「名前通りの(死者に会えると言って "耳を楽しませる" )みみらくの島が、本当にあるのならば、せめて遠くからでも(母上の姿を)見たいから、何処にあるのか私(の耳)に聞かせて欲しい」というような意味らしいです。

それを考えると、道綱母の和歌を知った人が、後から "耳楽" という漢字を当てたような気もいたします。

そういう訳で、俊頼が "みみらくの島" の和歌を詠むに至った背景は、何となく理解出来たように思うのですが、だからと言って、柳田の仮説が全く否定された訳でもないと思われます。

ですので、以下の記事は、最初に書いた時のままに、みみらくの島は、三井楽とは何処か別の場所に在るという想定で書いてあります。

柳田国男が、「海南小記」「海上の道」を書いたのは、日本民族の南方起源説というものを提唱するためでした。柳田は、中国大陸の江南地域で発生した稲作文化が、黒潮の流れに沿って、先島諸島→沖縄諸島→薩南諸島と伝いながら日本に到達したと考えていたのです。

柳田は、「海南小記」を書いてから「海上の道」を書くまでの間、三十数年間を掛けて、南方起源説を証明するための証拠を、少しずつ集めていたようです。以下に幾つかの例を挙げてみます。

例1)一般に "浦島太郎" の名で知られている仙境説話などに見える「竜宮」のことを、沖縄方面では、ニルヤ、ニラなどの名で呼んでいる。「おもろ草紙」と呼ばれる、琉球王国で編纂された歌集に出て来るニライカナイ(ニルヤカナヤ)も同じものである。稲の種は、ニルヤからもたらされたというような説話が沖縄各地にある。

例2)関東の鹿島神宮周辺を中心に伝わる「弥勒揺(みろくうた)」という歌や、「弥勒踊(みろくおどり)」という踊りには、幸福を運んで来るという「みろくの船」への信仰が描かれている。

例3)中国文化の影響を受けて以降、死者の国=地下の黄泉(よみ)の国という観念が広まったが、日本の古典においては、死者の国は根の国(ネノクニ)であり、ミミラクの島と同様、死者と生者が交わる場所という観念がある。

等々

以上のようなことから柳田は、沖縄の「根の国」に当たるニルヤ、ニラが、ニーラ→ミーラと変化して、ミミラク或いは、ミーラクという名に転じたのではないかと考えていたようです。死者の国とは、転じれば御先祖様の国と成る訳で、海の向こうに在るという死者の国は、正に日本民族のルーツのような所だったのではないかと、柳田は考えていたのです。

柳田は、自分の探求結果に満足はしておらず、最晩年に至って、このルーツと成る場所の探求を、誰かが継承してくれるよう望んでいたようです。「海上の道」は、学会での講演が元と成っており、講演を聞いた研究者達は衝撃を受けて、以後この方面の研究が盛んに成ったと、角川ソフィア文庫版の解説で、中沢新一という人類学者の方が書いています。

以上、少しばかり難しい話に成ってしまいましたが、そもそも柳田国男が、黒潮に運ばれて原日本人とでもいうべき人々が日本に渡って来たという発想をするに至ったのは、意外に素朴な体験が元に成っていたようで、大学二年生の夏休みにひと月を過ごした、愛知県の伊良湖岬の海岸で、三度に渡り流れ着いた椰子の実を見たことが、その切っ掛けだったようです。

どの辺の沖の小島から海に泛(うか)んだものかは今でも判らぬが、ともかくも遥かな波路を越えてまだ新しい姿でこんな浜辺まで、渡って来ていることが私には大きな驚きであった。

海上の道

柳田は、東京に戻ってから、この話を文豪の島崎藤村にしたらしく、それが「名も知らぬ遠き島より 流れ寄る椰子の実一つ」という出だしで有名な、「椰子の実」の詞に繋がったという話です。

ちなみに、柳田が椰子の実を見たという砂浜は、"恋路ヶ浜" という名の付いた景勝地だという話です。自分も、そんな場所で優雅にひと月くらい過ごせたらな、なんてついつい思ってしまいます。

恋路ヶ浜


それでもって、最後にちょっと、自分自身は "ミミラクの島" とは何を指していると考えているのかという話をしたいと思っているのですが、自分的には、「海上の道」にもしばしば登場してくる、先島諸島の宮古島のことが気に成っています。

"ミミラク" と "ミヤコ" では、駄洒落にも成らないくらい隔たりがあるようにも思われるかも知れませんが、これは司馬遼太郎の「沖縄・先島への道」にも出て来る話なのですが、沖縄地方の発音は基本三母音式と成っていて、aiueo の発音が、aiuiu に成ってしまうらしいのです。

それで行くと、"宮古" の現地式の発音は "ミヤク" で、実際の所は、"ミャーク" に近い発音をするようなのです。

そして、沖縄地方と言えば、ユタや祝女(ノロ)と呼ばれる神女が居たことで有名な場所です。神女は、内地で言う巫女のような存在で、我が身に死者の霊を降ろして言葉を語らせるという、いわゆる霊媒師/降霊術師に相当するような役割の女性達です。

宮古島には、琉球王朝公式の神女であったという祝女は置かれず、代わりにツカサと呼ばれる神女が居ました。沖縄の中でも特に信仰の強い島で、御嶽(ウタキ)と呼ばれる聖地が島内に数多く在るそうですが、ツカサは、今でもその御嶽での儀式を司どっているようです。

以上のようなことに加えて、中世の宮古島は、琉球王国の島であり、我日本の島ではなかったという事実もあります。

という訳で、自分は、死者に会える島ミミラクというのは、能力の高い霊媒師の居た、宮古島の噂が広まったものではないかと思うのですが、皆さんはどう思われますか?


以上、自分の出会った一つの和歌を元に、色々なお話をしてきましたが、こういう探求をしていて常々思うことは、在り来りではありますが、本当に普段何気なく見過ごしているような物でも、追求してみれば、色々な歴史的背景とか、人の思いとかが、裏には隠されているんだなということです。

そういう事は、専門分野に没頭するのみの理系人間だった頃は、正直あまり考えていなかったように思うのですが、一方で、今でもそういう伝統とか仕来りとか信仰のようなものを大事にしている人達は、自分の想像している以上に多く居るなという印象を、今では持っています。

そういう事への知識が全く無いと、お互いの考えていることが通じ合わないということも、多々あるのではないかと思われます。

そう言うと、今はもうそういう時代じゃないよ、と思われる方も、やはり多数いらっしゃると思います。ですが、今の先進国も、元を辿ると近代の「国民国家」という概念を元にその基礎が作られています。明治の頃に、柳田国男のような民俗学者が登場したのも、この「国民国家」を確立するためには、国民全体で無理なく共有出来る歴史認識という物が必要で、その為には、「そもそも我々日本民族とは一体何者なのか?」という定義を明確にする必要があったからなのです。

まぁ、そんな小難しい話ではなくても、そういう事にまで思いを致すように成ると、例えばただ行って帰って来るだけだったような観光旅行も、一段と楽しさが増します。

だからと言って、せっかくの楽しい旅行で、あれこれと難しいことばかり考える必要なんて、全くありませんが。

以上、最後まで長々とお付き合い戴いてありがとうございます。

それにしても、成就しない恋愛祈願の恨み節をぼやいたり、和歌の権威でありながら、結局出世の出来なかった自分の半生を恥じて、自らの歌集を「散木奇歌集」と名付けたりと……源俊頼……嫌いじゃないです……(笑)

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