“わたし”にとっての戦争責任を考えたら、毎日の暮らしにつながった
今日は親友が司会を務めたオンライントークイベントを見て、”わたし”にとっての戦争責任とはなにか を考えた。
そもそも75年前の戦争を直接経験していないわたし(30歳)にはどんな責任があるのか?
スピーカーのひとり、
戦史/紛争史研究家の山崎雅弘さんは、
戦後に生まれた世代には大きく二つ、
なにが起きたかを知る責任と、
戦争を繰り返さない責任がある
とおっしゃっていた。
今回は、この
戦争を繰り返さない責任
についてわたし個人が思ったことを素直に書いてみる。(イベントレポートではありません)
そもそも繰り返したいと思ってるいる人は少ないと思うけど(そう願いたい)、
1930年代の日本人が、気づいたら戦争になっていた、という状況があったように、望んでなくとも大いにありうることだと思う。
じゃあ、どんなことが戦争につながるのか?
国家レベルでいったら、
憲法を変えることで法律上そういった行為が可能になることも戦争が始まるステップになり得るだろうし、
外交のやり方がいまいちで他国を怒らせてしまい、攻撃され、そこから始まることも考えられる。
個人レベルでいったら、
政治への無関心さ
自分さえ良ければいいという考え
自分の国さえ良ければいいという考え
一定の宗教や人種への偏見、差別
といった、考え方や思想が戦争につながる可能性や、
お金を預けている銀行が核兵器製造への融資をしている
みたいに、間接的に関与していまっているってこともあるだろうな。
ふむふむ。
じゃあ、わたしがわたしごととして感じる、
“わたし”にとっての戦争責任 ってなんだろう。
今日の対話でも話されていたけど、
“戦争”とは、なにかしらの大義名分のもと、あるいは一部の人の利益のために、個個の命が軽んじられる行為。
実はこれ、過去の話でも、遠い国の話でもなく、今現在、私たちの日常においてそこら中で起こっていると、わたしは普段から思っていて。
たとえば 経済成長 という大義名分のもと、便利さ や 安さ や 早さを求める一定の人たちの利益のために、他国では強制労働、人権侵害が、そして環境破壊による生活圧迫、貧困や病気が蔓延していること。
それを知ろうとすることも、
暴力と搾取で成り立つシステムの恩恵を受けて生きているわたしの責任だと受け止めている。
そして、そういった現状の上に成り立つわたしたちの日々の暮らしを、ひとつひとつ見直すこと。食べるもの、着るもの、使うもの、捨てるもの、住む場所、使うエネルギー。
これを作った/育てた/運んだひとたちには、
どんな暮らしがあるか?
それを想像する。
想像した上で、
これは違うなと思った何かを変えてみる。
行動してみる。
わたしはその結果、搾取のシステムにより不利な立場に置かれやすい人の生活や、環境、にできるだけ負担をかけない選択を日々し続けることに至っている。
具体的には、地産地消、オーガニック、自然に還る素材を選び、化学製品の消費を減らす、消費の際は地域経済を意識し、ごみを減らす工夫、新品をできるだけ買わない工夫、などといったライフスタイルにシフトすること。
かならずしも、すべての人がこういった選択することは、あらゆる理由で不可能なのも理解した上で、ならばそれが可能、なんならそれが喜びとして行えるわたしにとっての責任、でもあると思っている。
戦争からはだいぶ離れてしまったようにも思えるけど、想像できる限りのすべてのいのちを、できるだけ大切にする暮らしは、そうでなかったときに比べて、はるかに平和的だと感じる。
わたしにとって平和活動とは、戦争の体験談を広めることだけではなく、自分が暴力的なシステムに加担/依存せず、すべてのいのちが大切にされる世界を目指すことでもあるから。日々の暮らしに自分の意志を乗せた選択が反映されていることは、どんな社会、未来を望むのかを示し主体的に生きることの一歩でもある。
でも、これだけで、知らぬ間に始まってしまうかもしれない戦争を防げるとは思っていない。きっと、不断に政府の動きを観察し、危なそうなときには声を上げ、戦争反対の世論を大きくし、政府に圧力をかけることが、きっと直接的な効果の見込める行為なのだと思う。
でもわたしはそもそも「不断に政府の動きを観察し」が苦手だから、そこはそれが得意な信頼できる人たちにお願いして、でも自分もアンテナはちゃんとはっておいて、あぶないと判断された場合に加わる、というスタンスが私にとっては現実的。一人ひとり、優先順位や情熱、得意なことが違うのだから、役割も違っていいと思う。学び合いつつ。
ここまで書いて、やはり論点がずれちゃったかな?とも思うけど、ここで、なかなかできないであろうことを宣言するよりも(歴史もっと学びます!とか。そりゃ、今日のトーク聞いて、もっと学びたいとも思ったけど)、いまのわたしの心の底から湧き上がってきた正直な思いを書き残しました。
——ここからは感想——
トークを聞いて、
責任とはresponsibility であり、response (反応) である故、応えるべき相手の立場に立って考えることが大事、という石川さんのお話や、
責任とは知ることでもあり、知ったときの、わたしの問題、わたしの変容、を考えることが大事という永井さんのお話、
歴史や問題を知る上で、第一文献、現場、に触れようという姿勢が大事という山崎さんのお話、(イベント最後に流れた玉音放送という第一文献には、そのリアリティさに心が揺さぶられ、涙…)
そして、責任の所在を分けて考えること(人類として、日本人として、アジアに住む一人として、など) が、この問いを自分ごととして捉えるために大事だ、という田代さんのお話
が、とくに響いた。
Choose Life Projectのみなさん、スピーカーの方々、今回はとても大事なトピックについて考える機会を与えてくださり、ありがとうございました!世代、性別、立場の異なる4人のお話、というイベントの組み立てもよかったと思います。
いろんな視点からものごとを捉える哲学的思考はやっぱりおもしろい!
最後に、
私の尊敬する平和・人権運動家、禅僧、学者、詩人であるティク・ナット・ハンもよく引用することばを紹介して、終わりたいと思います。(出典は諸説あるみたい)
There is no way to Peace,
Peace is the way
(わたしの解釈)
平和とは、ゴールでも、獲得するものでもなく、自分自身が一瞬一瞬平和であることが道、つまり日常の中で実践するものなのだ。
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