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表現と表出の隙間

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△Cinefil BOOK Vol.1 寄稿文章より



 アキ・カウリスマキ監督作品「パラダイスの夕暮れ」の中でニカンデル(マッティ・ペロンパー)が、恋人イロナ(カティ・オウティネン)の浮気心を察するシーンがある。


僕が映像作家として活動を開始した2016年の夏。
その頃はまだ役者との兼業をしており、先輩俳優の豊かな芝居に感動しては何か盗めないかと模索していたが、監督業に転向した頃から演技の見方が少し変わってきた。日常で起こりうるシチュエーションの中で、映画特有の大きなリアクションが連発されることに違和感を覚えるようになったのだ。人の感情が揺れ動くとき、それが誰の目にも明らかであることはどのくらいあるのだろう。僕は電話相手の発言にイラっときても、それが伝わらないようにするし、お風呂の水が突然止まっても声に出して驚くような真似はしない。それが日常で起こるありふれた反応だと思う。人目につく場所なら尚更、スマホを見てニヤっとしてしまった直後に我に返り、誰にも見られていなかったことに安心する。人は出来るだけ感情を隠す生き物だ、と思う。



 アキ・カウリスマキについて。彼は一風変わった作風で知られるフィンランドの映画監督。日本の巨匠、小津安二郎をリスペクトすることでも知られ、特徴的な色使いには彼の影響が垣間見える。どこから引っ張り出してくるのか、日本のマニアックな歌が劇中で使われていたりと、何かと日本との結びつきを感じさせる監督。主に低所得層の人間像をユーモアたっぷりに描く。作品の中で役者(それも登場する顔ぶれは大抵同じという偏愛ぶり)はひたすらに無表情を貫く。恋人が家を飛び出しても無表情、仲間の死体を発見しても無表情といった具合に。「パラダイスの夕暮れ」は1986年公開の長編第3作。東京国際映画祭やカンヌ国際映画祭に出品された出世作。ゴミ清掃車の運転手であるニカンデルの毎日はただ同じことの繰り返し。ある日ニカンデルはスーパーのレジ係のイロナに恋をする。やがて2人は一緒に住み始めるが、幸せな日々はそう長くは続かなかった。イロナは新しい男と惹かれ合うようになる。「散歩に行ってくる」と言うイロナに対しニカンデルは「洗い物が終わったら一緒に行こう」と返すが、イロナは「独りで行きたいの」と告げて部屋を出ていった。イロナの出ていった方を見やるニカンデルにカメラがじっくりと寄って行く。長めのクローズアップが映し出す彼の顔はあくまで無表情。約7秒間(!)の無表情ショットの後、彼は何事もなかったかのように洗い物を続ける。その無表情芝居を眺めていると、一つ気づかされることがある。それは「無表情」=「無感情」ではないということ。「悲しい」という感情を表現する時「泣く」芝居と「無表情」の芝居があったとして、そのどちらもが観客に同じように想像を掻き立てる芝居であったならば、「泣く」芝居は決して当たり前ではないのでは、という疑問が生まれる。ニカンデルが見せた無表情芝居の中には「疑い」が読み取れるのはもちろん、「動揺」「不安」「悲哀」までもを思わせる。このシュールな演出はカウリスマキの「作風」であり、リアリティとは少し離れていると思っていたが、最近では、人の日常も案外こんなものなのではと思うようになった。涙を流したり怒鳴ったりすることが分かりやすい形であったとしても、それが感情のピークにあるとは限らない。


 1年前、台東区にある鶯谷駅前でちょっと奇妙な体験をした。線路の上に架かった橋を渡っている時、1人の女性が缶ビール片手に泣き叫んでいた。「死にたい」と言っているのがしっかり聞き取れた。おそらく20代前半。動きも危なっかしい。橋の上ということもあり、最悪の事態を想定すると声をかけずにいられなかった。「どうしたんですか、大丈夫ですか」と尋ねると彼女はそれまでの様子と打って変わって叫ぶのを止め、ビクッと静止した。そして僕の方を見、目に涙を浮かべながら、それでもしっかりとした口調でこう言った。「死にたい」。こうして僕は彼女の口から2パターンの「死にたい」を聞いたわけだが、そこに含まれる意味合いがそれぞれ違っていたと思っている。

・1度目の「死にたい」は、一種のポーズ。助けての合図。
・2度目の「死にたい」は、私はまだ死にたくない。助けての合図。

どちらにも「助けて」の気持ちが含まれていたと思う。そして僕に「助けて」の意がより伝わってきたのは、言わずもがな2度目。その時はそんなことを考える余裕なんてなかった(周りの目が気になったし、僕も声をかけるのにドキドキした)が、後から考えると1度目は「表現」が濃かったわけではなく、あくまで「表出」のサイズが大きかった。2度目は「表出」こそ小さかったものの、「表現」が大きい(濃い)ことで、僕に伝わるものが大きかった。それが2度目の「死にたい」が僕の感情に訴えかけることとなった理由の1つだと思う。
 随分回りくどくなってしまったが、「パラダイスの夕暮れ」におけるニカンデルの7秒間の芝居も同じことが言えるのではないだろうか。無表情の芝居は「表出」されるものが少ないが、「表現」として受け取るものが非常に多かったように思う。「表現」のつもりが実は「表出」に過ぎず、その表出のカップを埋めるだけの感情が準備できていなかった、というパターンは割に少なくないのではと思っている。とは言えこの映画を撮った時、カウリスマキ監督はまだ20代・・・恐るべし。


 ファッションデザイナーのトム・フォードが初めて映画監督に挑戦した「シングルマン」は男であればたまらない映画の一つ。冒頭、トム・フォードの代表作と言える眼鏡TF5178と仕立ての良いスーツを纏ったアカデミー賞俳優のコリン・ファースがこの上ない芝居を見せているように思う。彼が演じるジョージは突然の電話で大事な人の訃報を聞かされる。感情を表に出すことを嫌う性格のジョージは「表出」を最小限に抑え電話対応をするが、大切な人を失くすという非常事態に徐々に呼吸が乱れる。明らかにショックを隠しきれない表情に変わるまで実に180秒の長尺が続く。結果この映画で最も長いシーンとなった。「表出」のカップを感情が満たし、溢れまいとしても尚「表現」が溢れ出るという、魅力たっぷりな、僕にとって忘れられないシーンの一つ。決して派手な芝居ではないが、その分受け取り手の想像力を喚起する余白がしっかりと残っており、目頭が熱くなる。もちろん限られた枠で豊かな表現をするにはそれなりの尺が必要で、細かなカット割りと急ピッチな展開ではなかなか難しいのかもしれない。
 「表出」が同じレベルの場合でも役者によって見え方、写り方が違い、結果的に受け取り方が変わってしまうという点は、当然といえば当然だが忘れられがちだと思う。大切なのはどう受け取られるかであって、「表出」と「表現」はその手段。とある受け取り方をして貰うために、ある役者は思いっきり表出する必要があるかもしれないし、ある役者は表出を最小限に留める必要があるかもしれない。大切なのは脚本の意図。好きな俳優の演技法を真似てもそれが場面にそぐわないことがあるのはそのためで、自分をかけ合わせていく作業を怠ってはならない気がしている。そのために僕らは役者と向き合うことを止めない。でも分かっていながらたまに言ってしまう。「深津絵里さんみたいに演ってよ」と。最悪だ自分。

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△Cinefil BOOK Vol.1 刊行イベントより


 日本人は遠慮の精神を持っている。他者への配慮に長け、自分をあまりアピールしないと言われている。完全なる私見だが、思っていることを表に出さず内々で完結させる日本人の特徴こそが、映像作品の中ではユーモアを生むと思っている。結婚披露宴での集合写真を撮る際に中心に立つことを避け、真ん中へどうぞどうぞと譲り合う国民性!そうした大人しさは「表出」の少ない芝居の中で豊かな表現をする素地が生来備わっているということではないかと思う。ロマン・ポランスキーに「おとなのけんか」という素晴らしい作品があったが、日本人が演じるには難しいシーンだらけだと感じた。1つの部屋の中で4人中4人共が豊かな表出を繰り返し、抑えても抑えても感情が爆発し、とんでもない事態に・・・そんな非日常的空間であるにも関わらず、無理がなく、等身大のスケール感の中で芝居をできるのはそもそも国民性の違いだ。遠慮の精神を反映させ、無理のない表出の中で起こる豊かな表現を生かした日本人ならではの芝居を作ってみたいと、個人的に思っていたりする。いつか。
 


 鶯谷駅で自殺を図った彼女は美大生だった。自分の絵が売れないことに絶望していたらしいが、その後無事卒業してアーティストとして活躍している。現在では、まだ売れない映像作家の僕を励ましてくれている。


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