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「自分の気持ち」はどこにあるのか?

「自分の気持ち」というものが、身体の外にある気がしている。

これは私が生きている中で、ずっと抱いている違和感だ。昔から、学校でも家でも感情を押さえがちだったのか「思った通りに動く」ことが苦手だった。

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今でも覚えているのが、中学2年生の頃のこと。もともと私は一重まぶたで、真顔でいると常に不機嫌そうに見えることがとてもコンプレックスだった。周りの誰からも嫌われたくなかった私は、心の中で「いつもヘラヘラしていよう!」と心掛けていた。(なんと健気で不憫な14歳…。。)

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当時何かと残念キャラだった私は、ある日いつも通り、クラスメイトから自分の容姿だか性格だかをいじられたのだと思う。それでもヘラヘラしていた私は、

「和田って何言われてもヘラヘラしてるよね」と言われたとき、
「え、私って今笑ってるの?」と笑いながら自分の顔を指さして聞いていた。

本当は悲しいのにヘラヘラしていたら、心と身体がちぐはぐになっていたのだった。私の心と身体をつなぐ司令塔はとうに不在で、私の形をしたロボットは、いつも周りの目線を気にしながらぐにゃぐにゃに変容してしまっていた。

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そんな借り物の身体で生きるような生活が、少し変わったきっかけがあった。大学生になり、一人暮らしを始めたことである。バイトか何かの帰り道だったと思う。夕暮れ時、自転車で家に向かいながら、(今日の夜何食べよっかな〜)と、ごく自然と思った。

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そのとき、私は初めて「自分の気持ちに従う」ことが自然にできたことに気づいた。牛丼を食べたければ吉野家に行けばいい。サラダにおにぎりに、色々食べたければコンビニに寄ればいい。

それから、自分の気持ちに耳を傾けるのが、少しずつ得意になっていった。

机の上にお花があったらいいな、
今日帰りに買って行こう

この服ずっと着てるけど可愛くないな、
捨てちゃおう

今楽しくないと思ってるな、
この場から離れよう

依然として、自分の気持ちに従うというのは、自然にできることではない。まるでロボットの操縦士になって、自分の形をしたロボットを動かしているようだ。でも、操縦士が不在だった昔と比べれば、随分と生きるのが楽になった気がしている。

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とはいえ、今でも操縦を誤ることはよくある。好きだと思い込んでいたものを食べていたら、食べ過ぎて大嫌いになったり、好きだと思い込んでいた人と一緒に生活していたら、いつの間にか自分の精神が潰れてしまったり。自分の気持ちは、意外と奥深くに沈んでいたり、毛布でぐるぐる巻きになっていたりして、よくわからないものである。

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それに、いくら耳を傾けようとも、応答がないこともままある。例えば、私はこれといった趣味を持ったことがないし、将来の夢も、やりたいこともない。

(蛇足だが、自分でこうしたい、という欲があまりないので、人から必要とされることに異様に喜びを感じてしまう。そんな私のことを、友だちはよく「やさしいね」と言ってくれる。でも、実際のところ、私が友だちの相談に乗ったり困っているときに手を貸すのは「友だちを助けたい」という自発的な思いからというよりは、「友だちから必要とされることがうれしいから」という自慰的な理由が大きいように思う)

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ただ、これはこれでいいのかなと思っている。いつか自分の心が身体にフィットして、すくすくと育ってくれたらいいなと思いつつ、別にこのままでもいいやと思いつつ。巷に溢れる「やりたいことを見つけよう!」「やりたいことを仕事にしよう!」と言った言説には(うるせー黙れ)と中指を立てつつ。大好きな友だちがいて、おいしいごはんとお酒とNetflixがあれば、私はたぶんずっと生きていける。

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