短編小説|かわいそうな恋
ーー【ご報告】結婚しました。
何気なくスクロールしていたら流れてきた投稿に、思わず指を止めた。投稿の左上にあるのは、見慣れた彼のIDとプロフィール写真。
ーーこの度、大学時代よりお付き合いしていた美嘉さんと結婚いたしました。楽しいときもつらいときも、いつも僕を支えてくれた彼女には感謝しきれません。これからも誠実に、彼女と向き合っていきたいと思います。まだまだ未熟な2人ですが、変わらずよろしくお願いします!
1枚目には、婚姻届の上に3つの指輪が置かれた写真。左にスワイプすると、満面の笑みで婚姻届を持っている2人の写真が現れた。彼の隣にいる女性の顔は初めて見たが、素直に綺麗な人だな、と思った。
「ねえ、由香?」
投稿はたった4分前のものだったが、すでに30件ほどのいいねと5件のコメントが付いている。
ーーえー!そーたマジ!おめでとう!
ーーついにだね〜〜!幸せにしてやってよ🥺
ーー颯太も美嘉も本当におめでとう💐結婚式楽しみにしてる!
文字通り、幸せいっぱいの彼と彼の友人たちの言葉が、ひとり激しく動揺している自分の疎外感をより際立たせた。
「ねえ、由香!聞いてる?」
「わ!ごめん、どうしたの?」
頭を載せていた膝を揺すぶられ、私はようやく達也の声に気が付いた。上体を起こし、ソファで達也と向き合う。
「俺明日バイトで朝早いから、そろそろ寝るわ」
「そっか。そしたら私シャワー浴びてくるね」
「はーい」
手元のゲーム機から目を離さないまま、達也はあくびをしながら言う。付き合い始めてから3ヶ月、達也と同じ大学に通う私は、大学に近い彼の家に入り浸っていた。
そそくさとリビングを後にし、脱衣所で体育座りになってもう一度インスタを開く。見ると胸がグサグサ痛むことはわかっているが、投稿文と写真を食い入るように見つめてしまう。2枚目の写真の女性の隣に映るのは、私が何度も自分のものにしたいと夢にまで見た、颯太さんの笑顔。
颯太さんは、私が人生で一番好きになった人だった。
颯太さんと出会ったのは、私が高校3年生の頃。当時大学4年生だった彼は、予備校で私に数学を教える教師だった。歳が近かったことと、飄々とした性格があまりに「先生」という印象とかけ離れていたので、私は彼のことを先生と呼ばずに「颯太さん」と呼んでいた。すらっとした長身で、ゆるくパーマをあてた髪から覗く笑顔と八重歯は妙に愛嬌があって、私はいつの間にか恋に落ちていた。
彼と初めて予備校以外で会ったのは、私が高校卒業を控えた3月の初旬。無事受験が終わったお祝いに、と中目黒のお洒落なイタリアンに連れて行ってくれときだった。待ち合わせ場所で彼の姿を見つけた瞬間、ああ、やっぱり私はこの人のことが好きだと確信した。個性的な深緑色のチェスターコートすら自然と着こなす彼の姿は、いつも以上に大人びて見えた。
「でも、彼女さんとうまくいってないなんて意外です」
「でしょ?最近ロクに口聞いてくれないからなぁ」
楽しかった食事の時間はあっという間に過ぎ、駅までの目黒川沿いの道のりを歩いていた。隣でゆっくりと歩く彼を見て、彼も私との別れを惜しんでくれているのかもしれない、と一人うれしくなる。彼女とうまくいっていない、と彼が話の流れでポロッと口にしたのを聞いたとき、私は心の中で密かにガッツポーズをしていた。
「颯太さん優しいのに。彼女さんもったいないです」
なんとなく、思いを伝えるなら今しかないと思った。すると、不意に彼が立ち止まり、いたずらっぽい笑みを浮かべて私の顔を覗き込んだ。
「もし、僕と由香ちゃんが付き合ったら、どうなるんだろうね?」
え、と咄嗟に固まってしまった私を見た颯太さんは、眉を下げて困ったように笑っていた。
「冗談だよ。そんなにびっくりした顔しないで」
「私は好きです。颯太さんのこと」
「知ってる」
そのとき、私は彼に初めてキスをされた。ふと漂った彼のムスクの香水の香りが切なくて、どうしようもなく胸を締め付けられた。好きな人と唇を重ね合わせることがこんなに幸せなことなのだと、その時初めて知った。
それ以来、彼は私を何度も食事に誘ったし、その度に私はしっぽを振って待ち合わせ場所に向かった。デートを重ねる度に、私は彼の新しい服装、表情、言葉を知ることができて、その全てが私にとってのプレゼントだった。1人でいるときも、私は彼との会話を幾度となく反芻し、何度も恋に落ちた。弄ばれている思ったし、時折自分のことをどうしようもなく惨めな女だと思った。でも、それでいいと思った。
そんなとき、サークルの飲み会で出会ったのが達也だった。何度か2人で飲みに行った日の帰り道に告白され、二つ返事でOKした。達也がどれくらい私のことを好きなのかはわからなかったが、それすら大して興味もなかった。それは、私が達也と付き合うことを決めた理由が、この人と付き合えば惨めな自分と決別できる、という卑しいものだったからだ。だが、達也とデートをしているときも、彼と身体を重ねているときも、気付けば私はいつも颯太さんのことを考えていた。
次第に颯太さんから連絡が来る頻度は減っていたが、どこかでまだ私にもチャンスがあるかもしれない、という希望は捨てていなかった。彼がこのまま、彼女とうまくいかずに別れてくれれば、私にもチャンスがあるかもしれない。ある日突然、何も無かったかのように「元気?」なんて連絡がくるかもしれない。むしろ、その希望があるからこそ、自分が生きていられる感覚すらあった。
そのわずかな希望の光が、たった今消えたのだった。
リビングからは、達也がゲームをしている音が聞こえる。
大好きな人と一緒に過ごせる希望を失った私は、この先の人生を歩んでいくことができるのだろうか?大好きな人を忘れるために、自分を好きなのかすらよくわからない男とこれからも付き合っていくのだろうか?それとも、いつか大好きな人のことを忘れて、誰かとちゃんと愛し合うことができるようになるのだろうか?
ーー楽しいときもつらいときも、いつも僕を支えてくれた彼女には感謝しきれません。
投稿の文章と、彼の幸せそうな笑顔がフラッシュバックする。浴室に入ると、室内は静かなのに、頭の中がうるさかった。騒音をかき消すように、頭の上からシャワーを被る。
ーーこれからも誠実に、彼女と向き合っていきたいと思います。
答えは自分の中で、とうに出ていた。私は、この恋心が消えて無くなってしまうくらいなら、一生苦しんだままでもいい。なぜなら、私が彼を好きだという気持ちは、この世の中で、数少ない確かなものだから。
「大丈夫。私はもう、かわいそうな女なんかじゃない」
自分に言い聞かせるように、小さく呟く。シャワーに打たれながら、私は声を出さずに泣いた。
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