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月曜日の憂鬱と、ただならぬ食い意地

月曜日の夜8時過ぎ、オフィスを出た私は、スーツ姿のサラリーマンに紛れて都営三田線に乗り込んだ。優先席に空きを見つけ、一瞬躊躇するも疲労感が勝って足早に座席に直行する。昨日、日曜日だからといって昼から酒を飲みすぎたせいだ。今日は一日中、意識の表面をなぞっているような感覚だった。たぶん、そうでもしてないと不意に二日酔いによる吐き気を認識してしまいかねなかったのだと思う。

仕事に対して、こうも気力が湧かなくなったのはいつからだろう。先週毎日残業していて、精神的にすり減ってしまってからだろうか。それとも、「私が今やっていることは本当に人の役に立っているのか?」という疑問を無視できなくなってからだろうか。私が日夜気を揉めながら広告運用するのと、オート配信機能で機械に運用を丸投げさせるのとで、いったい売上にどれだけの差が生まれるのだろう?そんなことを考えることが多くなっていた。

自分の限界に想像がつくと、途端に熱が冷めることがある。がんばれる限界、成長できる限界。だから尊敬できる人がいたり、将来の夢がある人は強いんだろうなと思う。まぁ何も、いきなりこんなに人生に悲観的になってしまった訳ではない。今まで見て見ぬふりをしてきた自分の人生に対する違和感が、このタイミングで少し溢れただけだ。



職場と最寄駅の中間地点に着いた辺りで、今日の夜ご飯はどうしようかなと考え始める。今日は無性に好物のブリトーが食べたい気分だった。ブリトーはどこにでも売っている訳ではないので、行くぞ、と意を決さないとありつけない食べ物だ。無論、コンビニでブリトーという名前で売られているものとは全くの別物である。私は家から一番近いブリトー屋のインスタを開いて営業していることを確認し、今日の夜ご飯をここにしようと決めた。私はどんなに無気力なときでも、食欲が衰えることはない。それはこの生を全うする上でのせめてもの救いだった。

そもそも、私はこれまでの人生で手放しで自分の生を祝福できた瞬間は果たしてどれくらいあっただろうか、と考える。自分がこの世に存在することに疑問を抱く間もないほど、我を忘れた瞬間はどれくらいあっただろうか。そういった意味で、私にとって生きるということは、無意識に遂行できることではなかった。常にこの先の楽しみな予定や、自分に対する興味を燃料としてくべ続け、生きるという選択肢を選び取っている感覚がある。

逆に言えば、私にとって自分に対する興味がなくなるということは、生きることへの興味がなくなることと同義であった。私はいつも、自分を通して世界を見ていた。異性への興味も、仕事へのモチベーションも、全ては私が私自身に興味があるからこそ湧いていたものだったのだろうと、電車に揺られながら考える。



普段利用している駅の一つ隣の駅に着くと、ざーざーと雨が降る中、私は店へ足を運んだ。10分ほど歩いた頃、ようやくライトがほんのりと灯る、ウッド調の店が見えた。店内に入り、ポークブリトーとコーラを頼む。樽で仕入れているというクラフトビールも気になったが、どう考えてもこの二日酔いではソフトドリンクの気分だった。

先に提供されたコーラに口をつけながら、ぼーっと考え事に耽る。10分ほど経ち、だんだんブリトーのことしか考えられなくなってきた頃、待ちに待った彼が目の前に運ばれてきた。空腹で半ば正気を失いながらビリビリとアルミホイルを破ると、具材でパンパンになった妖艶なトルティーヤが姿を現した。

一呼吸置いてかぶりつく。一口目は、スパイスで味付けされたポークとジャスミンライス、サルサが口いっぱいに広がった。あまりの美味しさに眉が下がる。二口目、少し左にずれてかぶりつくと、今度はワカモレとサワークリームが姿を見せた。まるで贅沢な果実を口いっぱい頬張っているような幸福感だ。いや、この世にブリトーほどおいしい果実なんて存在するわけがない。そんな意味のないことを考えながら、私はひたすら目の前の食べ物に没頭していた。



うまい飯は良い。食べることは、たとえ生きる希望がなくたって、自分の存在価値を見失ったって享受できる、数少ない幸福だ。生きていれば日に1,2回は耐え難い空腹に襲われ、それを満たすことで私は幸福を感じられる。うまい飯を食べているとき、私は将来のこととか、自分の存在意義を考える必要はない。空腹と飯の間にそんなものが入り込む余地はなく、ただ一心不乱に目の前の飯を食べることに集中できる。

今日だって、こうしてうまい飯に幾分救われた。それは、”生きていればこんなにうまいものが食える”という未来への希望ではない。はたまた、”この美味しさがわかるくらい舌の肥えた自分”的なものに陶酔してるわけでもない。ただ飯がうまいということ。自分のことを嫌いになろうが興味をなくそうが、それは覆せない事実だ。そういった即時性と確実性が、私が食べるという行為が好きな理由の一つなのだろうなと思う。ブリトーを両手に窓の外の雨を眺めながら、そんなことを考えていた。

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