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湖南アルプス・ハイキング(2024.02.10)

3連休初日、職場の同僚に誘われて湖南アルプスをハイキングしました。
約3時間、距離にして8.4km。
お天気にも恵まれ、雪も残っていません。
いい汗をかいてきました。


コース案内

「国土交通省 国土情報ウェブマッピングシステム(https://nlftp.mlit.go.jp/webmapc/mapmain.html#16/34.930064/135.956626/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1 )を加工して作成」


湖南アルプスについて

琵琶湖の南部に位置する山々の総称。
中心となるのは、田上(たなかみ)山。

琵琶湖南部に位置する湖南アルプスの一角を構成する。主峰は不動寺のある太神山(たなかみやま)で、このほか笹間岳(ささまだけ)、国見山(くにみやま)などで、ほぼ全域が花崗岩を主体とする。太神山の標高は599.7メートル。水晶、トパーズ(黄玉石)を産出する。古来から神体山としてあがめられ、山頂付近には円珍が開創した不動寺がある。大津市枝三丁目の田上公園から天神川沿いに上る道が主な参道である。北麓には大戸川、西麓には信楽川が流れている。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%8A%E5%B1%B1


今回ハイキングしたのは、不動寺への主な参道となる道の北に位置する堂山(384m)。低山ではあるもののアルプスを名乗るのは、険しい岩山が続くから。

湖南アルプスの岩場(モアイ岩)のあたり


岩が剥き出しです。


明治22年に作られた堰堤です。今も現役で機能しています。


堰堤が完成して80年後(現在から遡ること50年前)はまだ、植林が進んでおらず、ほぼ砂に埋まってしまったそうです。
今は植林が進んで砂の流出が減少し、こうして姿が見えるようになってきました。
立派に持ち堪えています。


ロープ伝いのルートが随所に現れます。

堂山

山頂付近からの眺め
大小の岩がゴロゴロゴロ、、、。


振り返るとこんな景色

なぜこんなにも緑の少ない岩山なのか?

はげ山と治山事業、、、太古の昔はヒノキの古木が鬱蒼と生い茂っていた。藤原京造営やその後の平城京遷都、寺院造営などに際して、瀬田川、木津川を利用した水運による利便性と山中の木々の良質さから、田上山のヒノキを数万本伐採して用いたとされている。このため田上山ははげ山となり、江戸時代には「田上の禿」という言葉もあったという。雨が降るたびに大量の土砂が瀬田川に流れ込み、大規模な氾濫を繰り返してきた。そのため明治期以降は、田上山の関津狐ヶ谷に谷止工(治山ダム)を計画し設計したオランダの技術者デ・レーケ、防砂技術の集大成『水理真宝』を著した市川義方、ヒメヤシャブシ やアカマツなどを植林し「緑山郡長」と慕われた松田宗寿など、様々な人が田上山の砂防に取り組んできた。この一連の土木事業には地元の人々も参加したが、大正期の地元民の手記には「砂防工事へとワラジをはいて肩の痛い芝運搬にと、天びん棒の下で目をむいて数年間」という言葉が残されており、当時の作業の過酷さが伝わってくる。江戸時代から現在に至るまで緑化が続けられているが、1992年時点での被植率は61.8%である。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%8A%E5%B1%B1#%E3%81%AF%E3%81%92%E5%B1%B1%E3%81%A8%E6%B2%BB%E5%B1%B1%E4%BA%8B%E6%A5%AD

なんとこの辺一体はかつて、ヒノキの原生林だったけれども、藤原京造営から平城京遷都、寺院造営のために数万本単位で伐採したため禿山となってしまったとのこと。1000年以上前の人々の営みがもたらした自然破壊の後始末を、江戸時代から今もなお、緑化事業を通して続けているとのこと。
一旦失ったものを取り戻すのに、とてつもない時間を要することを私たちは忘れてはいけない。


デ・レーケについて

ヨハニス・デ・レーケJohannis de Rijke1842年12月5日 - 1913年1月20日)は、オランダ土木技師

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%8F%E3%83%8B%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%BB%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%82%B1

大量の砂が流出して度々水害を起こしていたことに対して、明治政府はオランダから招聘したデ・レーケに指導を仰ぎました。彼は30年間日本に滞在し、その間に淀川の改修などにも参画しています。

そして、このデ・レーケと一緒に日本に招聘されたのが、G.A.エッセル。

ゲオルギ・アルノルド・エッセル(オランダ語: George Arnold Escher、1843年5月10日 - 1939年6月14日)は、オランダの土木技術者。または、エスヘル、エッシャー、エッシェルとも呼ぶ。明治期にお雇い外国人として来日した。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%8E%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%A8%E3%83%83%E3%82%BB%E3%83%AB

ご存知の方もおられるかもしれませんが、この方は版画で不思議な世界を表現するマウリッツ・エッシャーさんのお父様なのでした!

マウリッツ・エッシャーオランダ語: Maurits Escher、またはM.C.Escher、本名:マウリッツ・コルネリス・エッシャーオランダ語: Maurits Cornelis Escher)、 IPA(国際音声記号):[ˈmʌurɪt͡s kɔrˈneːlɪs ˈɛʃər]1898年6月17日 - 1972年3月27日)は、木版画リトグラフメゾティントなどの版画制作でよく知られる、オランダ人画家版画家)である。

建築不可能な構造物や、無限を有限のなかに閉じ込めたもの、平面を次々と変化するパターンで埋め尽くしたものなど、非常に独創的な作品を作り上げた。その作品のバリエーションは、トロンプ・ルイユ(だまし絵)のような錯視を利用したものから、数学的・工学的なアプローチを使ったものまで幅広い。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%A6%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%84%E3%83%BB%E3%82%A8%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%BC

記録は確認できませんでしたが、G.A.エッセルさんが湖南アルプスの砂防工事に関与していたのかもしれません。その息子さんの作品展が滋賀で開催されていたなんて、なんか不思議な感じ!


いい汗かいたのはいいけど、足がガクガクです。
今夜はゆっくりしよっと。


ここまで読んでいただき、有難うございました。

これまでの収益は全て、それを必要としておられる方々へ、支援機関を通して寄付させていただきました。この活動は今後も継続したいと思っています。引き続きよろしくお願いいたします。