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フロム・オキナワ

去年の夏のはなしだ。
もうすぐお盆休みに入ろうというころのある日、仕事をおえて携帯をみると、しらない番号からの着信履歴があった。
なんだろう。まちがい電話かな、と思って放っておいたのだけれど、翌日もおなじ番号から着信履歴があって、さらにその翌々日には留守番電話も入っていた。もしかして、わたしが登録していない親戚とか、友達かもしれないな。と思って、留守番電話を聞いてみることにした。

あたらしいメッセージが1件あります、という合成音声のあとで、ズズーというノイズに混じってもしもし、という声がきこえた。

《こうちゃん、沖縄にはいつ帰ってくるんかい、おばあちゃん待ってるからね。》

のんびりとしたおばあさんの声だった。
むろん、わたしはこうちゃんではないし沖縄に祖母はいない。

見知らぬ人からの切実な伝言を聞いてしまったことになんとなく罪悪感のようなものを感じながらも、どうしよう、まちがいだって教えてあげなくちゃ。という気になった。掛け直してみようかどうかすこし悩み、けっきょくその日はリダイヤルする勇気がなくてやめてしまった。もし掛け直したりして、「こうちゃん」からの電話だと思ってぬか喜びさせてしまったら余計わるいし、それを差し引いたとしても、まちがい電話のことをわざわざ報せるのはおせっかいすぎるようにも思えたからだ。

2、3日して、こんどは仕事中に電話がかかってきた。あの、沖縄からの番号だ。
一瞬ためらって、受話器のボタンをタップする。

《こうちゃん?》

携帯を耳に押しあてると期待のまじった明るいおばあさんの声が聞こえて、話がはじまるまえにあわてて口をひらく。あの、あのこれ、まちがい番号なんです、何度も電話もらってしまってごめんなさい、と口早に告げると、電話の向こうのおばあさんはえっ、と短く発したあと、そうだったの、あらあごめんなさいね…。とすまなそうに言った。赤の他人にダイヤルしつづけてほとんど1週間近くをむだにさせてしまったのだから、さすがに落胆するだろう。

おばあさんの声色は留守番電話できいたのんびりしたそれとはちがって、わたしという他者に対してのいくぶんかしこまった態度になっていたことは、わたしが「こうちゃん」ではないということの明確な証明といえた。わたしの電話番号と、「こうちゃん」の電話番号をいっしょに照らし合わせて電話をきる。どうやらさいごの1ケタだけがちがっていたようだった。

それからまちがい電話はこなくなった。

会ったこともない沖縄のおばあさんのことを、いまでもときどき思い出す。「こうちゃん」が、孫なのか息子なのか娘なのか、はたまた別の関係性なのかはわからないし、それでも、おばあさんは元気にしているだろうかとか、沖縄ってどういうところだろう(じつは行ったことがない)とか、会ったことも会うこともない他人とほんの一時だけ関わりをもったことの不思議なよろこばしさが、とりとめない想像をうんだりする。

そういえば、いまとは違う携帯だった高校生のころ、じぶんの電話番号の下1ケタだけ違う数字にコールしてみたことがある。なんとなく、他人同士がひとつだけちがう番号に割り当てられるというのはほんとうに存在するのだろうか?とか、そういうたわいない疑問と好奇心が引きおこしたことだったように思う。

何回かの呼び出し音のあとで、はい、と短く男のひとの声がした。じぶんからかけておいて失礼な話なのだが、おどろいてすぐに電話を切った。11ケタのめぐりあわせに割り当てられた無数の他者たちの、隣人としての輪郭がみえることは、ほんとうはちょっとこわくもある。

わたしと、わたしの隣人の「こうちゃん」は、これから先もきっと出会うことないまま隣同士の電話番号をかかえて毎日をすごす。
それでもまた、1ケタちがいのうっかりで、沖縄からのメッセージがとんできたりはしないだろうかと、じぶん宛ての留守番電話をきくたびに思ったりする。

そのときはめぐりあわせのつもりで、隣人についてのことを、すこしは尋ねてみたっていいかもしれない。

こうちゃん、ことしのお盆は、沖縄に帰っただろうか。


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