ハイジャック【掌編小説】
彼は何も言わなかった。
私も何も言わなかった。
重々しい手つきで入口の鎖を外し、彼は、観覧車のスイッチを入れた。
そうしてまた私の背に銃口を突き付けた。
平日の遊園地に人影はまばらで、昼の光がくたびれたようにアスファルトにのびていた。
ゴンドラが少し上がると、彼は銃口を下げ、少し笑った。
ガラス越しに見下ろすと、もう、観覧車の周りじゅう何台も、パンダカラーの車が乗り付けてきていた。
せっかく人質を取ったって、あんなにぐるりを囲まれたんじゃ、望みがあるようには思えなかった。
どこへどうやって逃げるつもりなのか、聞いてみたかったけれど、なんだかそれもかわいそうな気がして、やはり私は何も言わなかった。
拉致されたのは私だったし、追われているのは彼だったけれど、彼は被害者の顔をしていた。悲しそうで、つらそうで、どうにもならない行き詰まりの崖の上みたいな顔だった。
てっぺんが近くなると、彼は私に背を向けて、熱心に景色を眺めはじめた。
「ああ」
黒い小さな拳銃を足元にごとりと置いて、彼は、どこかを指さした。
「何か、見えますか」
私は当たりさわりのない質問を選んで口に出した。
「あれです」
彼はこんこんと指でガラスをたたき、また少し笑った。
「あの山」
こんもり緑色の小山をさして、こう続けた。「子どものころ、遠足で……僕だけ行けなかった」
「ああ」
私はうなずいた。私自身も小学生のころ遠足に行った山だった。小さくて面白味のない山だった。
「どうして行けなかったんです? 風邪でも?」「さあ。忘れてしまいました。とにかく行けなかったんで」
それだけのやり取りをして、彼はまた拳銃を拾い上げた。
ゴンドラが地上へ向かいゆっくりと降下を始める。
「行かなくていいんですか」
私はさっきの小山を思い浮かべて尋ねた。
彼は黙って、銃でゴンドラの扉を指し示した。
地上に着くと、観覧車はきしみながら停止した。
制服を着た人たちが私と彼を何重にも取り囲み、彼から小さな武器を取り上げた。
彼は何も言わなかった。
私も何も言わなかった。
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