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JOG(262) 恩田杢 ~ 財政改革は信頼回復から

 性急な増税で農民一揆を招いた前任者の後で、恩田杢は農民との対話集会から改革を始めた。


■1.改革への第一声■

 宝暦8(1758)年2月27日、松代城の大広間前の庭には、松代藩全200余ケ村のうち、73ケ村の領民代表が参集していた。各村の庄屋は、それぞれ百姓の中から「よくもの言う者」を引き連れて参集せよ、と家老・恩田杢(もく)に命ぜられていた。残りの130余ケ村の代表は、翌日呼ばれていた。

 大広間には杢より年長・格上の家老職や、諸役人が並んで座っている。江戸時代に藩内の武士階級が一同に会して討議を行うことはよくなされていたが、百姓の代表まで呼ばれるというのは、前代未聞であった。現代流に言えば、タウン・ミーティングである。

 杢はこう切り出した。「先ず以て、殿様不如意につき、只今まで御領内の者ども、殊の外難儀致す儀に候故、、、」。杢は「殿様不如意」、すなわち藩の財政が失敗し、領民たちに「難儀」をかけている事を正面切って認め、詫びた。その上で、自分が勘略奉行(財政担当)になったら、難儀はなおも増え、「気の毒に存ぜられ候が」、「先ず手前儀、第一、向後虚言(うそ)を一切言わざるつもり故、申したる儀再び変替(へんがえ)致さず候」。

 嘘は一切つかないので、言ったことは決して変更しない。この宣言が「信頼回復」を最優先する杢の財政改革の第一声であった。

■2.足軽ストライキと農民一揆■

 17世紀末、貨幣改鋳により通貨供給量が一挙に倍増して生じた元禄バブルは、その後の18世紀前半の正徳、享保年間での通貨収縮により崩壊し、幕府、諸藩を、深刻な財政危機に陥れた。各藩は増収のために、盛んに大河川の中下流に新田開発を行ったが、そのために築いた長大な堤防が台風などの増水時に決壊すると、大規模な水害をもたらした。

 松代藩においても、寛保2(1742)年の千曲川と犀川の大水害で、10万石だった年貢収入高が2、3万石に落ち込んでしまった。そこで松代藩は原八郎五郎を勝手掛に任命して、財政再建に乗り出したが、原は藩士の棒給を半減とし、それすらも滞りがちであったので、ついに足軽層が出勤拒否のストライキを起こしてしまった。

 次に財政改革を任されたのは、藩外の浪人で田村半右衛門という財政再建コンサルタントだった。田村は短期に再建実績を上げようと、無茶な支出切り詰めと過酷な増税を強行し、松代藩全域にわたる大規模な農民一揆を引招いてしまった。

 この混乱に中で藩士や農民をなだめて常態に復帰させたのが、恩田杢だった。恩田が財政再建を命ぜられた時の松代藩は、二人の強引な再建屋が去った後の殺伐とした雰囲気であった。

■3.「決して虚言を申さず」■

 宝暦7(1757)年、恩田杢は藩の財政を預かる勝手掛に任命されたが、家老職の家柄とは言え、その家格は必ずしも高くなく、年齢もまだ41歳の若さであった。そこで杢が就任の条件としたのは、藩の重臣達すべてが、自分の打ち出す施策に従うことを約束する「誓詞」を差し出すことだった。従来の家老合議や、先例墨守では、とても抜本的な改革などできないので、まずはリーダーシップの確立を狙ったのである。

 しかし、同時に杢自身も「拙者不忠の儀御座候はば、如何様(いかよう)の御仕置(おしおき)仰せつけられ成し下され候とも、その節に至り少しも御恨み申すまじく候」と誓った。改革のために全権を握るが、それを少しでも私利私欲のために不正利用することがあったら、どのような罰も甘受するというのである。

 さらに杢は、家族、家来、親戚一同を集めて、「役儀の邪魔になる」との理由で「義絶」を申しつけた。妻が涙を流しながら理由を聞くと、恩田は役儀のために、向後一切虚言(うそ)をつかないと決意したが、家族や親類がウソをついたのでは、信用されないからだ、と言う。また改革を前に自分の生活を切り詰めて、「飯と汁より外は、香のものにても」食さず、と約束したが、そういう生活を一同にさせるのは忍びないと述べた。

 一同は、杢と同様、「決して虚言を申さず、飯と汁より外は食わず」と約束して、義絶しないで欲しいと嘆願した。こうして杢は、家族や親類、藩内の信頼を固めてから、いよいよ改革に乗り出したのである。

■4.「かく言うは理屈なり」■

 松代城中に参集した領民代表に、杢がまず切り出したのは、一部の農民達に来年、再来年までの年貢を先納させていた問題である。

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 これまで、先納・先々納を指上(さしあ)げ候百姓共、参り居り候や。この者どもは何故先納・先々納は指上げ候や。但(ただし)、先納すれば、何ぞ勝手によろしき筋これあり候て先納致し候や如何(いかが)。
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「年貢の前払いをなぜするのか。何かいいことでもあるのか。」と杢が聞いたので、農民たちは当然ながら、「とんでもありません。役人に命令されて、いやいやながら前払いしているのです。」と答えた。

「1年分も前払いするのも大変なのに、2年分も前払いするとはなにごとだ。そんなことをするのはよくよくの暗鈍(たわけ)者ではないか」と杢は農民達をなじった。農民達はあっけにとられた。藩の役人から半ば強制されて仕方なく先納をしているのに、なぜ非難されなければならないのか。

 杢は、唯々諾々と役人の命に従い、年貢の制度を逸脱して先納、先々納をしている農民たちの唯々諾々とした態度をなじった後、一転して穏やかな調子で「かく言うは理屈なり」と続けた。農民たちも先納は迷惑なことであるけれども、藩の内情をよく承知しており、役人達が私腹を肥やすためにやっているのではないことを理解しているがために、応じたのであろう。

 こうして、杢は役人も農民も、現在の制度が、先納などというルール逸脱でようやく維持されている情況を明らかにした上で、改革の提案を切り出す。

■5.杢の提案■

 杢はまず二つの約束をした。第一に役人に対する贈答の類を一切なくし、役人にも賄賂を取らせないようにすること、第2に年貢督促のために村々に足軽を派遣していたが、それを取りやめること。

 これまでは年貢督促に派遣された足軽たちは、この時とばかり、村の豪農の家に何日も泊まっては、飲んだくれて騒いでいた。杢はこれらの賄賂や接待に要する負担が、年貢の7割にも相当する額であることを試算していた。それを止めさせることを条件に、杢は農民達に次の提案をした。

 農民の中には、年貢を滞納している者もいれば、1年先、2年先まで先納している者もいる。水害に困窮した農民は年貢を払おうにも払えなかったし、余裕のある者は先納を半ば強制されていた。それを杢は未納も先納も帳消しにして、今年の分から払ってくれ、と頼み込んだのである。

 農民達は、足軽たちが督促に来ないのであれば、2年分づつ年貢を納めても大丈夫だと、喜んで杢の申し出を受け入れた。

■6.合理的でシステマティックな提案■

 もう一つの杢の頼みは、今まで年1回、現物米で納入されていた年貢を、毎月、現金で納めてくれ、というものであった。当時の各藩は年貢米の換金を大阪などの大商人に頼んでおり、収穫までの所要金を前借りする、という方式が通常だった。

 当時の金利は非常に高く、年3割から4割がざらだった。したがって半年分の前借りでも、複利で負債が雪だるま式に溜まってしまう。杢が提案した月割り金納制なら、松代藩は借金をする必要がなくなり、大阪の大商人に支配されることなく、健全な財政を維持できるのである。

 しかし、農民が作物を自由に換金できるという前提がなければ、この提案はなりたたない。杢は、当時の松代藩の農民達が、米以外にも栗や紅花、生糸など商品作物を作っており、それを上方の商人がやってきて買い上げるという貨幣経済が十分に発達していたのを読んでいた。杢の提案はあくまで合理的でシステマティックであった。

■7.納得づくでの税制改革■

 しかし、どんなに優れた提案でも、相手側が十分理解し、納得して受け入れて貰わねば、意味がない、というのが、杢の姿勢であった。杢はこの趣旨を「小百姓までも申し聞かせ」「得と熟談の上、追って返答してくれよ」と村内で十分に相談し、合意が出来た所で、実施に移そうとした。特に換金の機会と能力において弱い立場にある小百姓たちに配慮しつつ、新しい税制を、村民一同が納得した形で導入する事を目指したのである。

 さらにこの月割り金納制という革新的な税制を3年間の時限立法という形で導入したのも、杢の政治姿勢をよくあらわしている。3年間試行してみて、本当に無理なく運用できるのか、小百姓に至るまで納得して受け入れているのか、手直しすべき点はないのか、皆で考えようというのである。

 3年後の宝暦11年2月には、再び3日間で229カ村の代表を城中に集め、この3年間新税制が円滑に運用されたとして、全村に褒美を下し、「小百姓まで申合」せて頂戴するように、と述べ、さらに3年間、この制度を延長することを申し合わせた。

 この延長は、繰り返し実行されている。杢の姿勢は、あくまでも藩と領民の双方の納得づくのもとで、税制改革を実現させていこうとするものであった。

■8.信頼を大切にする姿勢■

 十分な対話を通じて、相互の信頼をもとに改革を進めていこうという杢の姿勢は実施面でもよく現れた。対話集会の一年後、宝暦8年3月、藩の郡奉行の下僚・小山忠助というものが、不届きの件で叱責された。この不届きとは、農民が年貢を持参した所、多忙を理由に出直しを命じたというものである。

 藩からの処罰申渡しでは、小山が役儀を粗略にして農民の苦労を無視する態度をとったことは軽率であって、本来は厳重に詮議すべきところであるが、今回は特に不問にするとしていた。年貢を納める農民の苦労を考えよ、と役人側の意識改革を狙った一罰百戒(一人を罰して、多くの人の戒めとすること)の処置である。これを聞いた農民側も、藩への信頼を一層強めたであろう。

 宝暦10年10月には、藩の勘定所にて、公金32両2分が紛失するという事件が起きた。その後、勘定方役人・水井久太夫が、犯人は自分の息子の喜十郎であることを申し出てきた。喜十郎は父親の見習いで勘定所に勤務していたのであるが、たまたま放置してあった公金に手をつけてしまったのである。

 事件を詮議した杢は、喜十郎が父・久太夫の説得に服して自首した事と久太夫の長年の功績も考慮して、死罪を免じて、父のもとに「永御預」、父・久太夫も自宅謹慎という異例に軽い処置とした。逆に公金を放置していた勘定方二人が譴責処分、その上司の郡奉行が管理責任を問われ、免職になっている。

 正直者への温かい配慮と、システムとしての欠陥は厳しく追及する合理的な処置は、ともに「信頼」を何よりも大切にする杢の姿勢の表れと言える。

■9.百年後の成果■

 こうした杢の改革は、どのような結果をもたらしたのだろうか? 年貢の納め方を変えただけなので、収納高はわずか数%しか増えていない。藩の財政はその後も苦しい状態が続いた。

 杢は宝暦12年正月に46歳の若さで急死する。対話による改革を始めてからわずか4年後のことであった。しかし、改革は後任の義弟(妻の弟)望月治部左右衛門、および、杢の両腕となってきた成沢勘左右衛門、禰津要左衛門に引き継がれた。

 これらの後継者の努力もあって、藩財政に改善の兆しが見えたのは明和3(1766)年頃であった。すでに農民との最初の対話集会から8年も経っていた。農民側では年貢の7割にも相当する賄賂や足軽の接待の負担がなくなり、また年貢未納分の棚上げ、理不尽な先納の廃止などにより、きちんと決められた年貢さえ払っていれば、あとは真面目に農作業に精を出していればよい、という安心感が生まれたのであろう。

 19世紀に入ると、松代藩は裕福な藩へと変貌していく。開明君主として名高い真田幸貫は、佐久間象山を抜擢し、洋学研究を進めさせた。象山は高額な洋書を大量に購入して研究し、大砲や元込め銃の製造に成功したが、これも藩の財政が安定していたからこそ可能になったのである。杢の財政改革は百年経ってから、花開いたと言える。

■10.政治への信頼回復■

 杢の前に藩の改革を担った原八郎五郎と田村半右衛門の改革が足軽のストライキや、大規模な農民一揆を招いて失敗したのに対し、杢の財政改革はどこが違っていたのか。これは現代日本の財政改革にも重要なヒントになるだろう。

 原や田村の措置は短期的な改革成果を狙って、足軽の棒給半減や過酷な納税を強行した。それに対して、杢が目指したのは、先々納などというルールから逸脱した取り繕いを一切止めさせ、農民との対話を通じて、公正で合理的な財政システムを作り上げて、政治への信頼を確立することであった。その信頼によって、農民達が仕事に精を出して、長期的な財政改革をもたらしたのである。

 杢の改革を記した「日暮硯(ひぐらしすずり)」は、江戸時代のうちから全国各地で読み継がれ、政治学の古典的教科書としての地位を確立していった。それはアメリカ流のトップダウン的改革とはまた違った、より民主的な改革の原理として、現代日本においても読み継ぐ価値のあるものである。
(文責:伊勢雅臣)

■リンク■
a. JOG(130) 上杉鷹山 ~ケネディ大統領が尊敬した政治家~
 自助、互助、扶助の「三助」の方針が、物質的にも精神的にも 美しく豊かな共同体を作り出した。
https://note.com/jog_jp/n/nfe3ad35584c8

■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
1. 笠谷和比古、「『日暮硯』と改革の時代」★★★、PHP新書、H11

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