世界には恵まれない子ども達が沢山居る


幼い頃は酷い偏食を患っていたので、食べられないものがたくさんあった。
まず、豚肉や牛肉、鶏肉の脂身。野菜全般、特にキャベツの芯。これらは目に入るだけで嗚咽が込み上げた。
ショートケーキは口にするまでは良いが、口にしてしまうと途端に具合の悪くなる甘美な毒。
ドライブスルーで受け取るマクドナルドのバーガー、調子に乗って頬張っては頭が痛くなって、車の後部座席でよく吐いた。
口に入れる前、口に入れた後、それぞれ体が受け付けないということがとても多かった。

ある先生は、ピアスをして入園した私のことが気に入らない。痛みに大泣きして通った糸の鋭さを覚えている。輝くピアス。みんなの耳たぶには穴が空いていない。
みんなと違うと「仲間はずし」が起きるんだ。そういった危機感と、この共同体で生き抜かなければならないというある種の防衛本能を感じてから、早い段階でピアスホールに何も入れなくなったけれど。

ある先生は何かにつけて、私へ小さな意地悪をした。私が外国人の子で、ピアスを付けているから気に入らないんだ、なんて心の中で悲嘆した。
みんながお昼寝している間、私は泣きながら給食を食べた。あと少し。あと一口が飲み込めない。
先生が私の口元を、無表情で見張っている。食べ終わるまでこの残酷な試合は続いていく。永遠に終了の合図は訪れず、みんなは寝息を立てている。

どうしても我慢ならず、食べたものを口に含んだままトイレに行った。ひっそりと便器に流してしまいたかったので。でも先生、進撃の巨人のアレみたいに上から覗いているから、それも叶わなかった。
最終的には先生が席を外した一瞬の隙に、咀嚼しすぎて形の無くなったそれをティッシュにくるんでゴミ箱に捨てた。
ごめんなさい。私はゴミ箱の中に謝った。
誰に謝ったんだろう。何に謝ったんだろう。

小学生に上がると、給食を見張られることは無くなった。偏食は続いていて、毎食のように食べられなかったものを「ごめんなさい」と捨てていると、ある日侮蔑の表情を浮かべた上級生の女の子が言った。

"あのねえ!世界には恵まれない子ども達が沢山居るのよ!"
本当にこの台詞のまま言った。
まだ小学四年生の小さな女の子が。
ハッキリ言って、ショックだった。
食べ物を残すということが、ごめんなさいでは済まないことだというのが分かってしまったのだ。


私は帰ってから泣いた。
神様。どうかこの私の食事を毎食、
恵まれない子ども達のもとに届けてください。
そうしたら、私は嫌いなものを食べないで救われますし、
一食くらい食べないでも生きられます。
学校から帰ったら、好きなものを食べますから。
そして恵まれない子どもたちもきっと、
一日を生き延びるのでしょうから。
小学一年生、最初で最後の一生を賭けた祈りだった。


いつの日かそんな切実な祈りのことも忘れ、
私はなんでも食べるようになった。
好き嫌いは関係なく、皿の上の全てを浚った者だけがこの世界で最も尊い人であり、私もそのひとりである、ということを証明するかのように食べた。もう、あの意地悪い先生や、正義感溢れる上級生に蔑まれるような人間ではないと言いたかったし、「残している人」と比べて「残さない自分」という正しさに酔っていた。

天の国に引き上げられるのは正しい人らしい。
ならば、なんでも食べるようになった私は天国に行くのだろうか。
「残している人」を出し抜いて自己陶酔している醜い人間が、天国の扉を開けるというのだろうか。
「恵まれない子ども達に私の食べ物を送って、救って欲しい」と切実に願っていた小さな私を差し置いて、我先にと助かろうとする人間が、本当に天国の扉を開けるというのだろうか。


私は違うと思っている。

そんなことを思いながら深夜、マクドナルドのバーガーを注文した。



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