シェアハウス・ロック2404初旬投稿分

【Live】忙しい週の後半0401

 忙しいときは、忙しいことが重なる。これはどういうことなのだろう。
 先週前半は本当に忙しかった。後半も、金曜日はライブを聴きに行き、土曜日は飲み会である。なにもない週(こっちのほうが、実は多い)は本当になにもない。散歩に出るくらいしか外出しない週すらあるくらいだ。
 金曜日は、モリさんというピアニストのソロライブだった。
 ここから先は、私の言っていることのわかる人はたぶん相当少ないに違いない。もし、「わかった」と言う人がいたら申し出てほしい。友だちになりたい。
 モリさんは、失礼ながら無名のピアニストで、彼のピアノを初めて聴いたのは15年ほど前だ。場所は文京区の教会。仲間内で開催したようなライブだった。彼が弾いたのは『沈める寺』(ドビュッシー)である。この曲は、ケルトの民話だか伝説にドビュッシーがインスパイアされて書いたものだと言われている。湖だかに沈んでいる教会が、なんかの加減で水の中から出現するという不思議な話である。
 曲も負けず劣らず不思議である。メロディがない。和音(不協和音)を置いていくだけ(だけは、多少言い過ぎだけど)という曲である。余談だが、「音楽の歴史は、不協和音の許容の歴史だ」と言ったのはドビュッシーである。
 そういう曲なのに、人間の悲しさというか、音楽家の悲しさというか、そのような曲でも、ついつい「歌って」しまう。ここも、わかりにくいところだろうと思う。比喩で説明する。「人間は無意味な模様にも、ついつい意味を見い出してしまう」、あるいは「枯れ尾花に幽霊を見てしまう」と言えば、おわかりいただけるだろうか。つまり、音楽をやろうとすると、ついつい「歌って」しまうのである。
 ところが、モリさんは、見事なまでに「歌わない」ピアノを弾いたのである。「これがこの人の特質なのかな」と私は直観し、それからチャンスがあるたびに彼のピアノを聴きに行くようになった。
 この「直観」は正しかったようで、ドビュッシー以外の曲も、音を置いていくような演奏を、モリさんはする。バッハは端的にそうで、ショパンですら、そのスタイルを感じさせてくれる。もちろん、ショパン、モーツァルトを「歌わずにやれ」というのは無茶だが、それでもベルトルト・ブレヒトのいう「異化効果」のようなものを感じ取れる。
 ここからは、ますますマニアックな物言いになる。
 ジャズ・ピアニストにセロニアス・モンクという人がいた。この人の曲に『マンガネーズ』というものがある。たぶん、「マンガン(金属)」のことなんだろう。この曲そのもの、また彼の演奏から感じる硬質性を、モリさんのドビュッシーからは感じ取ることができる。
 次のように申しあげればご理解いただけるか、あるいは、ますますわからなくなるか。
「セロニアス・モンクがバッハを弾いたら、もしかしたらこうなるかもね」というバッハをモリさんは弾く。当日、バッハを3曲弾いてくれた。『平均律クラヴィア曲集』の1-1、プゾー二が編曲した『イエスの名を呼ぶ』(元はオルガン曲)、『ゴールドベルク変奏曲』のアリア。モリさんのバッハを、私は堪能した。
 もちろん締めは、『沈める寺』だった。

 
【Live】うるささの本質0402

 昨日の続きで、音楽の話から始める。
 私は、楽音はどんなに大きくても平気である。でも、そういう人間は少数派であることは知っている。だから、我がシェアハウスでは、他の人の迷惑にならないように、ヘッドフォンで聴くか、オープンエアで聴くときにも極力音を小さくする。
 いわゆる騒音も、どちらかと言えば平気である。電車のガード下で暮らせと言われても、たぶん平気だ。これは意味のない、騒音(そのもの)だからである。
 だが、意味のある騒音は苦手で、一番苦手なのが、テレビのバラエティ番組の音だ。あれは、自分が目立ってなんぼという基本ポリシーなので、出演者がとにかくうるさい。内容的には無意味なのに、意味ありげなことを言い、騒いでいるだけのものだ。意味ありげな無意味ほどうるさいものはない。
 さて、飲み会の話である。
 私らが住んでいるところの最寄り駅は、計画都市のなかにある。よって、駅周辺にはチェーン店しかない。つまり、地べたから生えて来たような店がない。
 それで、土曜日の飲み会は、バスで数停留所分行ったところにある地べたから生えて来た店に行ったのである。ここは料金も手ごろで、その割にはちゃんとしたものを出し、私らは気に入っているのである。「私ら」は、おばさんと、おばさん骨折事件に遭遇したケイコさん、マエダ(妻)と私である。マエダ(夫)は、己の罪障の深さに恐れおののき、四国八十八か所への巡礼に出ていて欠席。「罪障の深さに恐れおののき」は冗談だが、「四国八十八か所への巡礼」は本当で、四十三か所を巡り、月曜日に帰ってきた。
「地べたから生えて来た店」は、その店の雰囲気通り、普段は静かな店なのだが、この日はうるさかった。混合ダブルス×2の若い衆がいて、女のうちの一人がやたらうるさい。前述の無意味をまき散らし、店全体の音量の半分以上を担当していた。しかも、自意識過剰らしく、まき散らす合間に「聞いて、聞いて」という陰の声までが響いてくる。うるさいぞ。
 それで私らは早々にそこを出て、またバスに乗り、駅前の立ち飲みバーに向かった。四谷にいたころは、はしご酒のはしごは徒歩で登ったのだが、八王子に来てからはバス、あるいは電車を使うようになってしまった。広域はしご酒である。
 ところが、立ち飲みバーも、この日はうるさかった。一瞬、先ほどの店の女が追いかけて来たのかと思ったくらいである。
 こういったうるささに遭遇した経験のない方は幸せであるが、このうるささを味わいたかったら、夕方5時台にテレビ朝日系のニュースショウをご覧になれば堪能できる。
 我がシェアハウスのおじさんは自ら認めるテレビっ子で、夕食時はテレビをつける。前述の番組に出てくる気象予報士の女性が、やはり同じようなしゃべり方をする。音量こそたいしたことはないものの、「うるささの本質」のようなものは同じである。
 
 
【Live】あの方の名は杉田水脈0403

 以前、「品格に欠けるので、その方のお名前は出さない」と書き、アイヌの民族衣装やチマチョゴリを着た女性に対し、「完全に品格に欠けます」と言い放った方のことを書いた。もう、私なんざぁ品格に欠けてもいいよ。そんなことを言っていられない。そのお方は、杉田水脈衆院議員その人である。
 以下は、ネットニュースそのまま。
   
 自民党の杉田水脈衆院議員は26日付のX(旧ツイッター)投稿で、離婚後の子どもの養育に関する制度の見直しに関し「法案を議論する有識者会議に極左活動家を入れているようでは絶対にダメです。公安の協力を得て、締め出せ」との意見を法務省に伝えたと書き込んだ。法制審議会(法相の諮問機関)の家族法制部会での議論を念頭に、国家権力による言論統制を公然と求めた形だ。
 投稿で杉田氏は、自身が「極左」と判断する有識者の排除に関し「全ての省庁に徹底してほしい」と記した。問題が解消しないのは「左翼」弁護士が離婚調停を勧めるからだとの持論も展開。「離婚でもうける弁護士=左翼活動家をリストにして国民に知らしめるくらいやらないと(解決しない)」と主張した。

 すごいねえ。批判の前に、むしろ感心してしまう。田舎のおじさんがこういうことを言うのは、まだいいよ。これが田舎のおじさんの発言にしたって、実のところは相当ヘンだが、それでもそれはぎりぎり思想信条の自由の範囲ではある。ごめんね、田舎のおじさん。
 だが、いやしくも国会議員たるものが、こういうことを言うことは大問題だ。まず、公安およびすべての省庁に明らかに圧力を加えたことになる。
 日本国憲法第19条に「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」とある。国会議員たる者の第一の務めは、憲法を順守することだ。なぜなら、憲法は国家が国民にした約束であって、たとえ百歩譲って、自身が現行憲法に反対であっても、それを改正だか改悪だかする前に憲法規定に違背する言動は、それだけで国会議員失格である。フライイングだからね。競技だったら、3回(かな?)繰り返せば、出場停止である。
 それを、「公安の協力を得て締め出せ」というのもスゴい。公安だって憲法、法律の下で動いている。おまえの飼い犬ではない。心ある公安なら、こんなトンでも意見には従わないだろう。まして、「全ての省庁に徹底してほしい」というのもスゴい。
 超保守派というよりも、バカなのかね。ネトウヨにも、ここまでの人はなかなかいない。以前、この方を評して、やくざ業界でいう鉄砲玉なのかねと申しあげたことがある。まあ、鉄砲玉だな。この方を選出してしまった選挙民は、ちょっとは恥じたほうがいい。
 ここで、告白すると、私どちらかと言えば、この方のファンになった。ここまでメチャクチャ言う人もめずらしい。一般人でもめずらしい。ましてや、国会議員では、稀有と言っていい。奇跡の人である。
 プロレス界には、「悪党人気」という言葉がある。つまり、プロレスはヒールとベビーフェイスというのに大別されるが、ヒールのほうであまりにそれっぽい人には人気が集中することがままある。私がファンになったというのも、これに近い。
 そんなこと考えていたら、4月1日の『毎日新聞』に米下院議員のウォルバーグという人が、「ガザに原爆を落とし、ヒロシマ、ナガサキのようにすべきだ」という意味のことを、講演会で発言したことが報じられた。エイプリルフールネタだろうか。
 数行前で、私、一瞬ファンになりかけたが、杉田クンまだまだだね。もっと勉強しなさい。

【Live】今日はハイドン日和0404

 朝起きると階下のキッチンに行き、コーヒーを淹れ、リビングでバッハを聴きながら飲む。途中、空腹をおぼえるとパンを焼き、食うが、その間ずっとバッハが流れている。『無伴奏バイオリン組曲』なら、通常CD2枚組の1枚分は確実に聴く。全曲聴くこともまれではない。『無伴奏チェロ組曲』でも同様である。
 これが私の一日のうち、最も充実した時間だ。
 水ぬるむころになるとバッハでなく、ハイドンを聴きたくなる。ほとんど弦楽四重奏である。階下に行くのに、フリースをはおるだけでよく、靴下も履く必要のない温かさになったころである。ちょうどいまごろだ。そんなころの天気のいい日を、私は「ハイドン日和」と呼んでいる。
 たぶん、これは私の造語だと思う。
 季語に「チェホフ忌」がある。これを季語に取り入れたのは、中村草田男だという。だが、知ったかぶりをしたわりには、私が「チェホフ忌」を知ったのは寺山修司のなにやらで、高校一年のときだった。つまり、傍系の本で、たまたま知っただけである。
「ハイドン日和」も季語になってもいいと思う。
 バッハは、可憐、軽快というものもあるが、多くは峻厳、重厚というイメージが強い。それに対して、ハイドンは、春風駘蕩、穏やか、暖か、晴れやかである。もちろん、これは私の「感じ」であって、そうでないものもそれぞれにあることは知っているつもりである。たとえば、『十字架上のキリストの最後の七つの言葉』などはネタがネタだけに、峻厳を通り越して屹立に近い。もとは管弦楽曲で、弦楽四重奏版とオラトリオ版もある。私がもっぱら聞くのは弦楽四重奏版である。
 クラシック音楽の編成のなかで、私が一番好きなものは弦楽四重奏だ。弦楽四重奏であればなんだっていいと言って過言ではない。これはなんでなのかと、かなり真剣に考えたことがあるのだが、結論としては「それぞれの演奏が、他の奏者に影響を与えられるぎりぎりの大きさ」といったものしか考えつかなかった。
 これがオーケストラになると、そんなことをやっていたらぐちゃぐちゃになることは必定で、指揮者にすべてを委ねることになってしまう。私は、こういう全体主義のようなものは、嫌いである。
「それぞれの演奏が、他の奏者に影響を与えられるぎりぎりの大きさ」というのは、私からすると「複雑系」の定義に近く、それで好きなのかと思い至ったわけである。「複雑系」を説明するなかでよく使われる喩えは、「北京で蝶が羽ばたくと、パリで嵐が起こる」というものだ。私は、「複雑系」も好きだ。
 バッハは、弦楽四重奏を一曲も書いておらず、また弦楽四重奏はハイドンの発明であるとされている。ここから考えると、私がバッハの欠落をハイドンが埋めてくれていると感じているのかもしれないし、峻厳→春風駘蕩の季節の移りに反応してハイドンを聴きたくなるのか、いずれそういったあたりなのだろう。
 もっとも、バッハが弦楽四重奏を一曲も書いていないというのは、まだ発見されていないだけかもしれない。『無伴奏チェロ組曲』は、パブロ・カザルスがパリの古本屋で発見し、それから知られるようになったというのは、有名な話である。それほど昔の話ではない。だから、誰かが、どっかの古本屋でバッハの弦楽四重奏を発見してくれるかもしれない。
 昨日が嫌な話だったので、本日は、私の最も好きな話とその周辺の話をした。少なくとも私にとっては、毒消しにはなり、口直しにはなった。
  
 
【Live】複雑系0405

 前回、弦楽四重奏が好きな理由を述べるとき、苦し紛れに「複雑系」などと口走ってしまったので、その説明をしなければと考えた。ところが、これが意外と難しい。
 まず、「フラクタル幾何学」「カオス理論」「複雑系」は、私も含む素人は「近縁」と考えてもそれほど問題ではないことを言っておく。
 エウクレイデスの幾何学は、直線が引けるというのが前提になっている。ところが、自然界には直線などは存在しない。簡単には海岸線を考えればよい。「日本は、総延長約3万5千kmにおよぶ長い海岸線を有しており」などと簡単に言うが、これはたとえば1mメッシュでとったときに言えることで、メッシュを細かくし、最後は砂粒のオーダーで考えれば、ほぼ無限大になってしまう。こういうことを扱うのがフラクタル幾何学である。フラクタルは、カケラのことだ。
 フラクタルの解説では、自己相似(自己相同)とか、フラクタル次元、ハウスドルフ次元、コッホ曲線等々、いろんなものが出てくるけど、基本の基本は前述である。
「カオス理論」「複雑系」は、たとえば自動車の設計を考えればよい。あるところまでは決定論的な、たとえばニュートン力学でいけるかもしれないが、それに、摩擦、抵抗、素材などを考慮する段階になると、かなり怪しくなってくる。
 カオス、複雑系の説明でよくあるものは、「決定論的な秩序と確率論的な乱雑さとの中間にある」というものだ。
『忙しい週の前半0330』で、『宇宙はわれわれの宇宙だけではなかった』(佐藤勝彦、同文書院)のなかに、「宇宙という言葉は、『淮南子』から来ていると、この本で知った。『四方上下これを宇といい、往古来近これを宙という』とあるそうだ」と書いたが、実はこの「宇宙」はcosmos(秩序)であり、これの対義語がchaos(カオス)であり、これは「混沌」や「無秩序」といった意味である。また、そのときの宇宙論に戻っちゃうが、宇宙がある程度安定するまでは「混沌」「無秩序」そのもののような気がするし、その「混沌」「無秩序」のなかにも「秩序の光」のようなものが見えることがある。
 かなり単純な数式でも、係数のある範囲で、カオス的にふるまう結果が得られることもよく知られているところだ。
 前述の「決定論的な秩序と確率論的な乱雑さとの中間」をカオスの辺縁(edge of chaos) という。これも、感覚的には、カオスをよく表していると思う。
 複雑系の数理モデルを援用する研究者は多くの分野に及び、数か月前の『毎日新聞』にも北海道大学の経済学(だと思った)の教授が、複雑系を使って研究を進めているという記事が載っていた。経済学で言えば、生産までは決定論的にほとんど解けるが、その先になるとカオスの辺縁になってしまうと感じられる。
 さんざん書いてきて、一回分じゃどうやっても説明は無理だと思いはじめた。ごめんね。
 おわびの印に、『カオス―新しい科学をつくる』(J・グリック、新潮文庫)を紹介しておく。これは、複雑系を知るにいい本である。
 最後に、予告を。前述の、『淮南子』に関連するが、次回から暇ネタ「近代日本語をつくった人たち」になる。

近代日本語に着目した理由

 やみくもに日本が好きだという人たちがいる。たとえば、安倍晋三は、「日本をとりもどす」「世界の中心で輝く日本」などと言った。前者は、「誰からどういう日本をとりもどすのか」「それなら、いま日本を奪っているのは誰なのか」という説明がまったくない。後者は、「どの部分が輝いているのか」という言明がまったくない。説明や言明をすると困ったことになるのか、あるいは説明ができないのか。もしくは、やみくもに日本が好きなだけなのか、日本は素晴らしいという「気分」を醸成したほうが都合がよいということなのか、いずれそういったあたりなのだろう。
 麻生太郎は、新型コロナウイルスの感染者も、死者も、日本では(というか東アジアでは、なんだけどね)少なかったのを、「民度が高いからだ」と言ったという。高くねえよ。高かったら、おまえらなんか選ぶもんか。
 だから、そういう気分を具体化した、『Youはなにしに日本へ』などというテレビ番組が、私は好きではない。
 だいたい、こういう、「気分」でものごとを進めていくという姿勢を私は好まない。大げさに言えば、なんとなく「神国日本」などといったところに簡単に接続するような気がするからだ。
 日本は「神国」などと言ったが、神さまなんてどこだっている。酒を持ってない民族がごくたまにはいるが、神さまを持たない民族はたぶんいないだろう。だから、神さまを必要以上に強調すると、まず神さま同士が殺し合いをはじめ、それにつられて人間同士が殺し合いをするはめになる。一神教同士でそれが激しいのは衆目の一致するところだが、多神教の土壌でも、殺し合いは起こる。『バガヴァッド・ギーター』だって、あれは一面、戦争の話だ。
 私は、「神国日本」のなれの果てが、大敗戦国日本だと思っている。
 そうだ。日本が素晴らしいかどうかという話だった。
 私は、日本はたいした国ではないと思っているが、日本語は素晴らしいと思っている。これにしても、敬語があるからとか、繊細だからとか、的外れなことを言う人が多い。これも、英語にすら、敬語はないまでも敬語的表現はあるという点を挙げるだけで十分反証になろう。
 私が日本語が素晴らしいと思うのは、近代日本語、特に幕末から明治にかけて、その時代人の努力によって語彙を増やし、かなりややこしいことまで日本語で言えるようになったという点である。これに応えた一般日本人も偉い。
 私は昭和24年生まれである。私が30代くらいのころ、アメリカで、「日本の大学では何語で授業をするのか」と何回か聞かれた。「日本語だよ」と答え、びっくりされたことが、これも何回かあった。
 思うに、その当時、諸外国では、高等教育、特に大学になると、英語、フランス語、ドイツ語、そしてせいぜいスペイン語で授業をするというところが多かったのではないか。つまり、日本語は、大学教育に耐えられるほど鍛えられたのである。

語彙が、自国語では足らない0407

 私が、日本語は大学教育に耐えられる程度には鍛えられたと思い至った体験談をする。
 40代に入ったあたりに、ある事情からフィリピンのマニラに行った。数日間の日程だったので地理をおぼえる気もなく、移動はもっぱらタクシーだった。タクシーに乗ると、運転手はラジオをかけている。放送はタガログ語なのだろう。私は、タガログ語はからっきしと言っていいくらいわからないのだが、ラジオでなにを言っているのかが、なんとなくわかった。もちろん、全部はわからないが、どういうことを話しているのか程度はわかった。これはどういうことなのだろうと思い、それからはちょっと注意して人々の会話を聞くようにしていたら、あることに気がついた。
 つまり、外来語である。それが多い。
 前述のラジオでも、パーラメントがどうしたこうした、コングレスがどうした、ナショナル・バンクがどうしたと言っていたことに思い至った。
 それも、おそらく日本語を普通に使うときに出てくる外来語より頻度が高い。それでタガログ語が皆目わからなくても、いま放送で話されていることは、なんについてのことなのかがわかったのだと思った。
 そう言えば、「フィリピンでは、小学校の高学年になると、英語で授業をする」と聞いたことがある。これはアメリカに行くときに、隣合わせに座ったフィリピン人のあんちゃんに聞いた話だ。この人は、もしかしたら特殊な学校(たとえば、インターナショナル・スクールなど)に行っていたのかもしれないが、彼の話の内容からは、そうも思えなかった。
 彼は10代で来日し、それからずっと日本で働いていたと言っていた。だから、日本語が堪能だった。インターナショナル・スクールに進むような家の子弟なら、まだアメリカの大学あたりに行っているような年齢だったのである。
 で、マニラにいた私は、彼の話を思い出し、「タガログ語の語彙だけだと、小学校高学年の授業ができず、英語を使わざるを得ないのではないか」と推測したのである。あたっているかもしれないが、あたってないかもしれない。ものの本で読んだことも一度たりともなく、前述の体験だけからの推測だからだ。
 だが、日本の高等教育が、すべてと言っていいくらい日本語でなされるのは、日本語の語彙がそれに耐えるだけあるからだという考えにとりつかれた。
 その後、それを確かめようとしたのだが、いまに至っても、適切な書籍を発見できないでいる。しかたがないので、門外漢ではあるが、コツコツと自分で勉強してみようという気になった。
 だから、次回からお話しするのは、その勉強のためのノートのようなものである。

中華人民共和国0408

 日本は朝鮮にひどいことをした。中国にもひどいことをした。フィリピン、インドネシアや東南アジアにもひどいことをした。「だが、いいこともした」という人たちがいる。私が、若干でもいいことをしたと考えているのは、おそらく彼らとはちょっと違うことである。しかも、フィリピン、インドネシアや東南アジアには、ほとんどいいことはしていない。この地域では、オランダ、フランス、スペインなど、南蛮、伴天連などの奴ばらより、我が大日本帝国は多少はましだったという程度である。とは言っても、決して日本人が善良だったわけではないと思う。ただ単に、植民地経営に素人だったというに過ぎなかった程度のことだと、私は考えている。
 閑話休題。
 たとえば、中国の正式名称は、「中華人民共和国」である。このうち、「人民」も「共和(共和国)」も日本語である。より正確には、日本でつくられた言葉である。
 前々回お話ししたように、「特に幕末から明治にかけて、その時代人の努力によって語彙を増やし」た結果、日本語で複雑怪奇なことを表現できるようになり、それが逆輸入された形になったものが、前述の「人民」「共和(国)」なのである。
 だから、漢字を使う人たちには、少なからず貢献したことになる。韓国、北朝鮮はどうなのだろう。韓国では、朴正煕の時代に基本的に漢字を全廃し、若者は漢字が読めないようになって、自分の名前すら漢字で書けない世代が出てきたなどという話があったのは、記憶に新しい。
 石川九楊に『二重言語国家・日本』という著作がある。内容を大雑把(にもほどがあるが)に紹介すると、
・日本語には音が少ない
・だから、同音異義語がたくさんある
・それでも、会話などで混乱しないのは、たとえば「かいしん」と発音するときに、頭のなかでは(聞くほうも)「改心」という文字を浮かべているからだ
ということである。これが石川九楊の言う「二重言語」の意味だ。
 ちなみに、いま私が使っているIМEでは、回診、会心、回心、戒心、改進、開進などが出てくる。これらを頭のなかで変換し、選別して、我々は会話していることになる。
 だから、日本語で言えば「かな」に相当するハングルだけだと、だんだん原義のようなものがわからなくなっていくのではないだろうかという心配がある。
 中国では、こういった混乱を防いでいると思われる要素に、四声がある。
 脱線した。日本での「発明語」の話だった。
 たとえば、「society」を「社会」としたのは福沢諭吉と言われている。ただ、これにも諸説あって、福沢ではないとも言われている。ちなみに、「speech」を「演説」と訳したのは福沢だとされているようである。
 だから、福沢が「社会」と言い出す前に、日本の、少なくとも庶民には「社会」はなかった。代わりにあったのが「世間」である。ただ、「世間」はフラット、かつルーズな庶民の共同体とでもいったもので、ここには「統治」も「政治」も「規約」も含まれていない。ただ、「規範」は含まれている。
 ああ、だけど武士には「社会」に近いものはあったようだな。「統治」も「政治」も「規約」もあったようだから。でも、「社会」という言葉はなかったはずだ。
 だから、「世間」しかなく、「社会」を知らない言語は、「統治」も「政治」も「国家」も、扱えなくなってしまう。
 

音楽同様、日本語も幕末前後で断層がある0409

 以前、日本の音楽は二度死んだというお話をした。一度目は、明治6年だったか、「唱歌」という科目ができ、西洋音楽(というか、西洋音階および西洋音律)を導入したとき。二度目は、敗戦で西洋音楽が大量になだれ込んで来たときである。
 日本語のほうも、幕末あたりを境に、明治、大正、昭和(戦前、戦後)と、だいぶ変遷を重ねてきている。このことは、日本語も、英語も並みの日本人が、たとえば近松門左衛門、シェイクスピアを読んだときのわかりにくさでわかる。日本語も、英語も並みだったら、近松のほうがわかりにくいはずである。つまり、それだけ日本語は、特に幕末、明治初期にかけて変貌してしまったのである。
 変貌したおかげで、日本では、自国語で高等教育ができるようになったのだが、その代わりに失ったものも大きかった。前述の、近松門左衛門がわからなくなったのもそのひとつである。
 だが、その代わりに、物理、化学、数学、歴史、地理、社会学等々を日本語で学べるようになった。これはトレードオフではあるが、私個人としては、近松こそわからなくなったものの、得たもののほうが大きかったのではないかと思っている。
 ただ、近松に関しては、ちょっと微妙なところがある。
 縁あって、文楽の東京公演には必ず行くようになったことをお話ししたことがある。文楽を見に行くようになり、私が立てた戦略は、「なめてかかる」というものだった。
 素人が考えると、文楽は、なんとも高尚なものに感じられ、うかうかと敷居が高いと思ってしまうが、落ち着いて考えれば、江戸時代の番頭さんとか丁稚さんとか、そういった、つまり非インテリ層が楽しむものだったはずだ。だから、それほど高尚なものであるはずがない。「わからないはずがない」と強い心で臨み、慣れさえすればなんとかなると考えることにしたのである。
 10回目くらいからは、なんとなくわかるようになってきた。
 それで、何人もの人を誘い、一緒に行くようにしたのだが、これらの人たちの理解度にどうも濃淡があるようであった。
 なんどか当『シェアハウス・ロック』にご登場いただいたマエダ(夫、妻)は、両方とも関西圏の出身である。マエダ(夫)のほうは一回目から相当理解できたようで、それ以降も夫婦ともに「皆勤賞」である。文楽の言葉は、関西の言葉だから、彼らにはわかりやすいのだろうか。
 いま、当『シェアハウス・ロック』は近代語の成立シリーズになっている。文楽との関係で言えば、浄瑠璃に出てくる言葉は、基本的に江戸時代の言葉である。
 だから、文楽を見ながら、私は、同時に近代語の成立周辺の知識も得ていることになる。つまり、文楽には「発明語」は出てこない。だから、「発明語」っぽい言葉であっても、太夫さんが語れば、それは「伝統語」であり、『菅原伝授手習鑑』では、「推量」「差別」「未来永劫」などがそれに該当する。

機縁と契機0410

 前回、「発明語」「伝統語」と申しあげた。「発明語」は、一度や二度はお目にとまったことがあるだろうけど、「伝統語」のほうはあまりお聞きになったことがないと思う。本日は、その解説をする。
 まず、幕末、明治にできた言葉が「発明語」である。それ以前にも、いろんな人が発明したに違いないが、それはとりあえず置いておく。
 では、伝統語とはなにか。
 私が伝統語などという概念に突き当たったのは、野村万作さんの講演である。まとまった講演というよりも、狂言を取り入れた芝居のアフタートークだったと思う。1967年のことだったはずだ。つまり、その当時の野村万作さんということである。
 万作さんは、「大和ことば」という言い方をし、「それが保存されているのは、狂言の言葉」と言ったのである。「なるほど」と思った。
 山本夏彦先生は、名著『文語文』のなかで、「現代語は冗長」と嘆き、文語への圧倒的支持を表明するが、先生の「文語」アバウトイコール「伝統語」は、わずかに幕末、明治、せいぜい大正の言葉であり、そのピークは明治30年前後といったあたりと推定できる。
 現在の落語の言葉は、大正、戦前の昭和といったあたりで、大圓朝の速記本の『塩原多助一代記』を青空文庫で読んでみたものの、私にはまるで歯が立たなかったとお話ししたことがある。圓朝は、天保10年生まれ、明治33年没だから、『文語文』の中に出てくる「天保老人」(ただし、大正期くらいまで生きないと、そうは呼ばれなかったようだ)であり、夏彦先生くらいになれば、『塩原多助一代記』をすらすら読めたに違いない。
 だから、一口に伝統語と言っても、話の内容によって「伝統」のレンジが違ってくるんだろうなあ。よって、あまりポピュラーになっていないのかもしれない。
 なんでこんなことを言いはじめたかといえば、前回、「縁あって、文楽に行くようになった」と書いたときに、「機縁」という言葉が浮かんだからである。『歎異抄』のなかに「機縁」という言葉があったと思った。それを知るまでは、私は「機縁」という言葉は使ったことがなく、その代わりに「契機」という言葉を使っていた。
 ここで、「機縁」は「伝統語」であり、「契機」は「発明語」っぽく響く。だが、「契機」も、もしかしたら「伝統語」なのかもしれない。それを追求するためにも、近代日本語シリーズを書いているわけである。

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