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挑戦し続けるエネルギーと闘い続ける心、そして強い思い !


羽田空港の第1ターミナルの展望台に上がってみるとJAL、ANAの旅客機が滑走路から全速力で離陸していく姿が見えます。
この展望台には女性も男性も老いた人も若い人も、たくさんの人が来ていますが、誰もが離陸する旅客機の様子を真剣な眼差しで見ています。

大きな旅客機が全速力で滑走路から離陸していくその姿に、自らの思いや願いが重なり、感動を呼び起こすのかもしれません。

旅客機は離陸後、一気に高度 10,000メートルまで上昇飛行するそうですが、その旅客機が高度10,000メートルに達するためには、滑走路を離陸してから約 50 キロメートルの上昇飛行距離が必要になるそうです。
そして高度 10,000 メートルに達すると、その高度を維持しながら水平飛行に入り目的地に向かって飛行して行くそうです。
飛行機は向かい風に向かって走行し離陸していくため、風向きが変わると離陸する方向が変わるため、滑走路が替わることがよくある様です。
風向きが、これだけ飛行機の離陸に大きな影響を与えていることを知りました。

旅客機が約50キロメートル上昇するために必要なガソリンの量は、1,000キロメートルを水平飛行するときに必要とするガソリンの量とほぼ同じだそうです。

言い換えると、大きな旅客機が高度10,000メートルまで上昇するために必要なガソリンの量は、水平飛行するときに必要なガソリンの量の約20倍が必要になるということになります。

400席もあるような大きな旅客機が満席で、燃料を満タンにすると旅客機の総重量は、約400トンにもなるそうです。

この約400トンもの重量がある旅客機が離陸しようとするときは、機体を翼もそれだけ大きくなるため、空気抵抗もより強くなり、その抵抗に負けないだけの翼とエンジンのバワーが必要になってきます。
つまり、それだけのエネルギーが必要になってくるわけです。
そんなことに思いを巡らせながら、眼の前の滑走路を大きな旅客機が、エンジンパワーを全開にして離陸していくその姿は、エンジン音と共に迫力とパワーを感じます。
 
空港の展望台からそんな光景を見ていると、人が高い目標に向かって全速力で挑戦していくその姿と、大きな旅客機が滑走路から離陸し、全速力で上昇飛行していくときの姿は、どこか重なって見えて来るときがあります。

旅客機が離陸し全速力で上昇飛行をしているとき、何らかの原因でエネルギーを失うと失速し、飛行機は墜落してしまいます。
人も逆境に出遭ったとき、目標を失ない諦めの心が強くなると、エネルギーも無くなり、やがて失意と彷徨の内に人生の幕を閉じてしまうことがあります。

旅客機と人との大きな違いは、旅客機は水平飛行の高度まで全速力で上昇し、その後、水平飛行に入ると自動操縦システムに切り替わるため、パイロットの操縦負担が軽減され、また人的ミスのリスクも軽減されます。そしてその状態でそのまま水平飛行 (ときにはジェット気流に乗り) を継続し、やがて着陸する目的地の空港に近づくと、管制塔からパイロットに向け着陸準備への指示があり、その指示に従って着陸態勢に入っていけば無事に目的地の空港に着陸することが出来ます。
けれども人には水平飛行はありません。
1つの目標が到達されると、さらに高い目標を設定し挑戦していくからです。
挑戦する人の進むべき道には着陸する空港は用意されていませんし、管制塔からの指示も水先案内人もいません。
すべては自らの羅針盤を頼りに、自らの翼と、自らのエネルギーのパワーを信じて、飛行して行くしかありません。

そんな時、逆境に遭遇し、それに心を奪われ振り回されると、目の前の微かな光さえ見失ってしまうことがあります。またときには様々な理由から、夢に向にかって行こうとすることにブレーキをかけてしまうことがあるかもしれません。
また理不尽な目にあったり、時には足下さえすくわれてしまうことがあるかもしれません。
また他人の言葉や世間の常識に縛られ、それに振り回されている内に、自分の頭で考え、自分の意思で行動することを忘れてしまい、ついには他人の意見や考えがまるで自分の考えや意見であると思い込むようになり、そのように人生を過ごしてしまう人もいます。

そんなことに思いを巡らせていたとき、随分前に読んだ安藤忠雄さん自らが著した本を思い出しました。
その本の中に、当時まだ若かった安藤さんが開高健さんから投げ掛けられた言葉のエピソードが記されていました。それを読んでいると、何かもっと深い意味があるのではと、そんなことを思いながら、そのエピソードの部分を鉛筆で四角く囲っておいたことを思い出しました。

そしてその後、ときに触れ、その言葉のことが脳裏から離れず、何かの機会にふと思い出すことがよくありました。 

それは開高健さんが、書物から得た机上の知識を言葉にするのではなく、常に自らの身体で人や物事に体当たりして、そこから人間の本質を見抜いて来た、その体験を踏まえて、見越して、安藤忠雄さんに投げ掛けた言葉だったからです。

それから年月が経ち、漸く開高健さんの言葉の真意を解することが出来る様になったように思います。

それは「高いハードルを幾つも越えて高い目標に向かって行く時には多くの困難に出遭うでしょう。
でも、それに心を奪われず、後ろを振り向かず、前を向いて全速力で走って行くこと。
今は答えが見えなくても、先が見えなくても、成果が出なくても、いつかきっと光が見えてくると自分を信じ、全力で走り続けること。それが大切なんだ。」とそんなことを言っていたのではないだろうかと、後になって気付きました。

安藤忠雄さんが、開高健さんと出会ったときのエピソードの会話を、安藤さんの著書の中で語っていますので、それをここに掲載しました。

【  開高健 に会ったのは、80年頃だろうか、大阪ミナミの街中を友人と歩いていたときだ。 前から熊のような男がひとり、人波の2倍のスピードで近づいて来た。それが開高健だった。たまたま一緒にいた友人が彼と知り合いだったので、紹介してくれたのだ。
開口一番、そのとき彼は言った。
『 おまえが安藤か。 おまえは若いんやから、全速力で走らなアカンで!』
『はい、走ってます』
わけが分からず、僕はそう答えた。
『もっと全速力で走れ! 後ろを見るな! 全速力で走ってれば、そのうち、見えんもんが見えてくる。 それじゃ!』
そう言い残すと、彼はあっという間に去っていった。   その間、わずか2、3分だったろうか。彼の後ろ姿は、またたく間に人込みの中に消えていった。 それが開高健に会った最初で最後であった。
見えないものが見えてくるとはどうゆうことなのか? 見えないものとはいったい何なのか? その時はよく分からなかった。】

ここで少し開高健さんについて触れておきたいと思います。

 開高健(作家:1930~1989年 )さんは、戦後、世界43ヵ国を渡り歩き、人間というものの本質を摑もうと、常に人や物事に五感と意識と自らの身体のすべてを使って、真摯な心で正面から全速力で体当たりして来た人でした。その体験から得たことをルポルタージュにしたり、エッセイにしたりしていました。
また旅や釣りなどにも造詣が深く、活動分野がとても広く多才な人でもありました。
また人々の生き様を常に冷静な眼で見て描いていた開高健さんの純文学の小説についても、小説家としても国内外で非常に高い評価を得ていました。
一方で、取材のため南ベトナム政府軍に従軍し、激しい戦闘に巻き込まれ、奇跡的に生還出来たジャーナリストとしても知られていました。
さらにまたサントリーでは広告コピーライターとして洋酒文化を日本に根付かせた人でもありました。
 
著書には、組織や人間の問題を扱った「パニック」「裸の王様」、そしてベトナム戦争では、激しい戦闘に巻き込まれた自らの体験をベースに著した「輝ける闇」という著書もあります。
物事の本質を適確に、しかも繊細な言葉で示すことの出来る特別な才能を持った人として高く評価されていました。 

次に開高健さんから言葉を投げ掛けられた安藤忠雄さんについて書きたいと思いますが、その前にどうしても触れておかなければならない人がいます。

それは近代建築の巨匠であった建築家のル・コルビュジエについてです。
何故、ル・コルビュジエなのかと言いますと、かつて安藤忠雄さんは、『 建築家 ル・コルビュジエがそうであったように、私も1人で、ル・コルビュジエの生き方と建築を指針に建築家の道を切り開いて来ました。』と語っていたからです。

それだけ安藤さんに大きな影響を与えたとされるル・コルビュジエという人は、どのような人で、どのような業績を残されたのか、そのことについて触れたいと思います。

ル・コルビュジエ ( Le・Corbusier:1887~1965年/ 77歳没 ) は、20世紀の建築と都市計画に最も影響を与えた世界的な建築家で近代建築の巨匠です。 
 
ル・コルビュジエは1908年に生まれ故郷のスイスからパリに出で来て、鉄筋コンクリートの先駆者であったオーギュスト・ペレ(当時、最も新しい技術とされた鉄筋コンクリート造、その技術で建築の芸術的表現を追求した……鉄筋コンクリートの父と言われた建築家)のもとで、その後、ペーター・ベーレンス(工業建築の分野の発展に大きな影響を与えた建築家)のもとで実務を経験しました。
その後、1922年には事務所を設立し、翌年には「建築をめざして」を出版し、以降、生涯に「エスプリ・ヌーヴォー」「ユルバリズム」「今日の装飾芸術」「モデュロール」等、多くの著書を世に出して来ました。

そのような ル・コルビュジエですが、1927年に行われたジュネーブの「国際連盟のためのコンペ」では1位になったにも拘わらず外されてしまったことがありました。
一方でこんなエピソードもあります。1936年にソ連が主催した「ソビエト宮殿」のコンペがあり、これには落選してしまいましたが、このコンペで見せたル・コルビュジエの案は、とても斬新で多くの注目を集めました。

【 余談になりますが、このル・コルビュジエの案が丹下健三さんの眼に止まり、これがきっかけとなり丹下さんは建築家を志すことになった様です。
このことは、後の日本の建築界に、とても大きな影響を与えることになりました。丹下健三さんは、やがて日本人として日本国外でも活躍する建築家となりましたが、その丹下さんは、磯崎新さん、黒川紀章さん、槇文彦さんなど、後に世界的に活躍する建築家を育てました。】

 ここでル・コルビュジエがどんな人であったかについて、ル・コルビュジエに身近に接して来たオスカー・ニーマイヤー の手記がありますので抜粋して記載しました。
その前にオスカー・ニーマイヤー(Oscar  Niemeyer :1907年〜2012年  104歳没)について少し触れておきたいと思います。
彼はブラジルのモダニズム建築の巨匠といわれた建築家でした。1952年には、ル・コルビュジエらとニューヨークの国際連合本部ビルの設計をしました。
また1956年〜1960年にかけて、荒涼とした土地であったブラジリアに創造性豊かな都市、新首都ブラジリアの建築計画に参加し、多くの主要建築物(曲線や曲面が美しい鉄筋コンクリートの建築が特徴)を設計しました。ニーマイヤーが設計した建築群は1987年に、近代都市では初の世界遺産に登録されました。
そのニーマイヤーの手記にはこの様に記されていました。
【 私とル・コルビュジエとの初めての出会いは、私が29歳のときでした。そして2度目に会ったのは、私が少し歳をとって設計の仕事も多く経験して来た後でした。前回より少し長い期間、ニューヨークで、ル・コルビュジエと共に過ごした時、仕事を進めている彼の傍らにいられることが出来ました。その時、私は彼への敬い尊ぶ気持ちでいっぱいになりました。.........…  
また最近のジャン・プチの刊行した本をめくって見て、75歳の彼がまだまだ若くて、ロンシャンやチャンディガルの計画に20歳と同様の颯爽とした姿を保っているのに感服しました。
私はパリで、ル・コルビュジエに最後に会った1962年のことも思い出します。
彼の生涯を特徴づけているあのエネルギッシュさとはずみがあって、必要とあればいつでも、たった一人でも戦場に立ち残って、既にいくつもの戦果を持っていた戦士だのに、まだ新鮮なまま、新しい闘いに挑む姿勢を保っているのに全く驚歎したことを思い出します。
それから思い出すことは、ブラジリアの中を私と歩きながら示した優しい態度。それは彼がいつも人々からそう受けとられている硬い姿、そうさせてしまうのは彼の作品に対し無理解な人々がいることによるだけなのだが、それとは違ったものでした。そのことは単に師としていつも尊敬してきた巨匠としてだけでなく、彼を囲む人たちに対して、彼の優しく迎えてくれる人間味を感じました。
ル・コルビュジエについて私の心に浮ぶことはこのようなことでした。…………………
「ブラジリアにて、1963年1月22日     オスカー・ニーマイヤー」 】

ル・コルビュジエの業績の1つは、鉄筋コンクリートを利用し、今までの伝統的な建築の概念を大きく変えたことでした。それは伝統から切り離された装飾のない壁面を基本とする合理的な造形理論に基づいたものでした。その上で新しい建築の概念 (近代建築の5原則 )を提唱し、その概念で自らモダニズム建築をつくり実証して見せてくれました。

また都市計画の分野においても、パリの改造計画案を発表し、近代都市のあるべき姿「アテネ憲章(全95か条からなる)」を提案し、近代の都市計画理論にも大きな影響を与えて来ました。
現在、世界中で眼にする現代建築や現代都市は、ル・コルビュジエが提唱した建築・都市の概念に基づいてつくられたものも多く、世界各地でそれを見ることが出来ます。

そのような ル・コルビュジエですが、晩年になると、 今まで主張してきた近代建築の指標である機能性や合理性の概念を遥かに超えた、まったく新しい空間表現による建築をつくるようになりました。
その代表的な建築が「ロンシャン礼拝堂 Chapell  Notre − Dame − du−Hant  de  Ronchamp (1955年竣工)」や「ラ・トゥーレット修道院  Couvent  de  la  Tourette (1960年竣工)」です。
このロンシャン礼拝堂やラ・トゥーレット修道院は言葉では説明することがとても難しい、精神性を感じる空間となっておりとても素晴らしい建築です。

そのような 建築家 ル・コルビュジエですが、1965年の夏、いつもの様に休暇をとって南フランスのカプ・マルタンで海水浴をしていましたが、その海水浴中に突然、心臓麻痺を起こし溺れて亡くなってしまいました。

夏の休暇前に、新しい建築「ヴェニスの病院計画案」を提示し、また自ら著した「東方旅行記1910」という本の出版準備をしたばかりでした。
次の病院計画案がどんな建築になるのかと、その完成を世界の多くの建築家、建築学者が注目していましたが、ル・コルビュジエが亡くなってしまい、その計画案は実現することはありませんでした。
77年11ヶ月の生涯でしたが、亡くなる直前まで、常に勇気を持って様々なものと闘い続けた世界を代表する建築家でした。

ここにル・コルビュジエが亡くなる1ヶ月前に書いたとされる最後の文章、自伝とも、精神的遺言とも、または独白ともとれるその文章の一部を抜粋して記載しました。

《 私はこのところ、1911年に書いた草稿に手をいれていた。『東方への旅』だ。その時、私を訪ねてくれた2人に東方旅行時代の若者サャルル・エドワール・ジャンヌレの行動は今のコルビュおやじと同じだと言ったことに覚えている。…………だが勇気は内なる力だ。それだけが存在を可能にするか否やかだ。
……………ひとりになって、黙示録の中のすばらしいことばのことを思った。「それから空に半刻の静けさがあって……… 」と。そうだ、…………人の心ほど伝えられないものはない。
1965年7月、バリにて−−−−−−ル・コルビュジエ 》

※ ここに出てくるシャルル・エドワール・ジャンヌレ という名は、ル・コルビュジエの本名です。そしてル・コルビュジエという名は彼の先祖の名前です。

後に、この「ロンシャン礼拝堂  」及び「ラ・トゥーレット修道院 」の2つの建築を含め、世界 7ヵ国にある17 のル・コルビュジエの建築作品が2016年に世界文化遺産に登録されました。

ここで漸く安藤忠雄さんについて書けるときが来ました。
安藤さんは 1941年生まれで、現在82歳です。
建築界のノーベル賞と言われる「プリッカー賞」を始め海外の多くの賞を受賞し、今や日本及び世界から最も評価されている世界的建築家になりました。 

そのような安藤さんですが、30歳近くで自身の事務所を設立しましたが、設立後、2、3年はまったく仕事がなかった様です。コンペに挑戦しても仕事には繋がらない連戦連敗の連続だった様です。
それでも、いつかはきっと道が開かれると、落胆する気持ちを前向きな気持ちに切り替え、不安と緊張感の中、この道は自分で切り開いて行こうと、そう思いを強くし、ル・コルビュジエが切り開いて来たその姿を、自ら身をもって体験し学んでいこうと、諦めずに挑戦し続けて来たそうです。

そうした中で徐々に小さな住宅の依頼が来るようになり少しずつ道が開かれて来た様です。
たとえ小さな住宅であっても、建築が持っている既成概念を打ち破り、新しい建築をつくり出そうと常に挑戦を忘れず自らと闘いながら、立ちはだかる扉を自らの力で開け続け、開高健さんから投げ掛けられた言葉のように、全速力で後ろを振り向かず走り続けて来たそうです。
そうした姿勢で挑戦し突き進む安藤さんに、活躍の舞台が日本だけでなく広く海外へと拡がっていきました。
そして今や世界中に安藤さんの建築 (住宅・教会・美術館・ホテル・博物館・大規模商業施設・図書館・駅施設・海洋博物館など)がつくられ、その都度、話題になり、高い評価を得ています。

安藤忠雄さんと言えば、打放しコンクリートの建築家としてよく知られていますが、その安藤さんの打放しコンクリートの建築について少し触れてみたいと思います。

打放しコンクリートの建築で、安藤さんは独自の空間表現を極め、モダニズム建築の可能性をさらに推し進めてくれました。 
安藤さんの打放しコンクリートの建築は、私たちが普段、いろいろなところで見かける打放しコンクリートの建築とはまったく違うものです。
安藤さんの打放しコンクリートの建築を見るとそれは一目瞭然です。
精度が極めて高く、かつ繊細で、施工難易度も極めて高く、施工中の修正も手直しも一切不可能というそんな建築です。
こうしてつくられた安藤さんの建築は、それ自体が凄い緊張感と存在感があります。

安藤さんはこうした建築をつくることを自らに課し、強く思い、物凄い緊張感で真剣につくり続けて来ました。
ですからその安藤さんの思いや姿勢は、安藤事務所のスタッフはもちろん、施工する建設会社 (一流の施工技術を持っている会社でなければ出来ない)の現場監督、現場に携わる建設会社の社員、その関係業者、そして一流の技術もった職人たちにも伝わり、物凄い緊張感の中で建築工事が進められていきます。その緊張感は建築が完成するまで続きます。
建築の施工技術だけでなく、携わる人達の姿勢や心が、あの緊張感があって存在感がある建築をつくり上げるのだと思います。

建築の設計段階においても、安藤さんは自らもうこれ以外にはないというところまで検討を重ね極め尽くしていきます。   
こうして出来た構想案、図面、模型がそのまま建築の図面になり、その図面や模型と全く同じように現場で建築をつくっていきます。
安藤さんの打放しコンクリートの建築は、補修や修正は一切許されませんから、補修や修正が発生した時点で全て解体しなければならない、そんな宿命を持っています。それほど難しくて厳しく、より高度な施工技術、施工精度が求められる建築です。

次に安藤忠雄さんの建築の形態について触れたいと思います。
紀元前1世紀に著された建築家ウィトルウィウスの著書「建築十書」の中で幾何学的思考(図形や空間を分析し、かたちそのもの生みだしていく原理) について記されていますが、その幾何学的思考に基づいてつくられているのが安藤さんの建築形態の特徴です。
この思考の法則は、中世のゴシック建築やルネッサンス以降の古典建築においても見ることが出来ます。
次に、安藤さんの建築に見られる空間の独自性は、どこから来ているのかについて触れたいと思います。

安藤さんは、日本の現代建築に大きな影響を与えた日本建築、茶室、庭園の研究者で建築家でもあった西澤文隆さん(1915~1986年)と一緒に何度も京都や奈良に足を運び、古建築を実測しながら寸法体系を学び、そしてまた打放しコンクリートの施工精度やその表現方法、そして建築のスケール感、空間、光の扱い、プロポーション、庭園空間を含む自然との関係、そういったことをひとつ1つ、一作一作建築をつくる度にその都度、西澤さんの指導のもと、二人三脚で検証を重ね、建築の可能性を極限まで突き詰め、突き進めて来ました。
この積み重ねが、安藤さん独自の建築空間を生み出すことになりました。
その後、安藤さんは自らさらに研鑽を重ね、今日の建築に到達しましたが、残念ながら西澤さんは安藤さんが世界的建築家になる姿を見ることなく今から37年前にこの世を去ってしまいました。

また安藤忠雄さんは、打放しコンクリートの建築家というそれだけではなく、都市計画、都市設計における広い知識と経験をも持ち合わせています。
若い頃、都市計画では日本の第1人者であった都市計画家の水谷頴介さん(1935~1993年:安藤さんが世界的に活躍する姿を見ることなく今から30年前にこの世を去ってしまいました。)のもとで、水谷さんの助手となり都市の中を走り回りながらフィールドワークを重ね、土地の権利者、商店主や借家人といった人たちと直に接しながら、都市の開発費や収益設定、そして省庁、自治体どの交渉等、身を持って体験し学んで来ました。
こうした経験から学んだ都市経営や都市再開の手法は、後の「近鉄学園前総合開発計画設計競技」での最優秀賞獲得へと繋がっていきました。  

この時期に身につけた都市計画、都市再開発の見識と発想と行動力は、その後の安藤さんの飛躍的展開の礎となりました。

建築の原理、原則を徹底して学び積み重ねて来た安藤さんですが、自らの飛び抜けた才能の上にさらに人間力が加わって今日の安藤忠雄さんがあります。 

安藤さんの建築の特徴は、自身が持っているモダニズムの美学で、建築の持っている存在感の強さを保ちながら、建築と自然との関係を等価に置き、そこに叙情的で詩的な空間を生み出しているところにあります。そしてさらに歴史や文化との空間的対話をどう求めていくかと、そうした試行錯誤の繰り返しの中から、日本建築が持っている空間的な特性を打放しコンクリートという建築で、より豊かに表現できることを示してくれました。

こうしてつくられた安藤さんの建築は、優れた芸術性を備え、一貫した思想性が感じとれることから、世界的な評価を受けるようになりました。

【 余談になりますが、建築の設計に携わる人たちは、安藤忠雄さん (一級建築士  国土交通大臣登録  第79912号 ) を始めとして、私も含めてひとり1人に与えられた一級建築士  国土交通大臣登録の番号を持っています。これは建築の設計に携わる上で、建築技術者として知っていなければならない最低限の建築技術の知識を持っている人と国が認めたものに過ぎません。 
『 列車に譬えますと、一級建築士の資格を持てば駅の改札を通りラチ内に入れます。
けれど各駅停車に乗らない人もいます。各駅停車に乗れても快速に乗らない人もいます。さらに急行があり、特別快速があり、特急があり、新幹線「こだま」があります。そして生前は丹下健三さん、磯崎新さん、黒川紀章さんが、そして今は安藤忠雄さんが、伊東豊雄さんが、槇文彦さんが、隈研吾さんが新幹線「のぞみ」に乗っています。そんな感じかと思います。』
これを持っている人が皆、実際の建築設計が出来るという訳ではあません。多くの人は設計という実務を通して、経験を重ねて技術を身に付けていく必要があります。そして人によっては更に難易度の高い仕事をしていく中で、優れたプロフェッショナルになって行く人もいます。 
そしてこの上にさらに経験と実績を重ね、また歴史、文化、思想、哲学等を学び問い続ける中で、自らが持っている能力、才能を活かし、芸術性、独創性、思想性のある建築をつくり出していく人たちがいます。こうして高いハードルを越えて実績を残して来た人たちこそ、本当の意味で世界から評価される建築家になっていくのだと思います。】

ここに安藤忠雄さんの受賞歴の一部を記載しました。
受賞歴
1995年  プリッカー賞
1997年  RIBA  ゴールドメダル
2002年  AIA  ゴールメダル
2002年  京都賞  (思想・芸術部門)
2005年  国際建築家連合(UIA) ゴールドメダル
2010年  ジョン・F・ケネディセンター芸術金賞
2013年  フランス芸術文化勲 章最高位コマンド
                ォール受賞 
2015年  イタリア共和国功労勲章  グランデ・ウ
              フィチャーレ賞 
その他にも、多数の世界的な賞を獲得しています。

安藤忠雄さんは、今も連戦連勝中で、2000年以降、海外での仕事が急増し、今では売上の80%はイタリア、フランスなどの海外プロジェクトが占めている様です。世界の舞台で注目される建築をつくり続けています。 
そして今や『世界の建築界をリードし、世界で最も評価が高い日本人建築家、安藤忠雄』とまで言われています。

そして次に、どうしても触れておきたい、もう一人の建築家がいます。
その人は近代建築の巨匠(建築文化史上重要な役割を果たした人)の1人として、世界の建築の歴史に名を残し、そして「最も有名な」と言われるくらい個性的で多くの話題が絶えなかった建築家、フランク・ロイド・ライト (Frank Lloyd  Wright :1867年~1959年  91歳没) です。

ライトと言えば「有機的建築」で有名な建築家ですが、その有機的建築こそライトが生涯かけて追求し続けて来たものでした。

ライトが追求した「有機的建築」は、建築と自然との関係を一体として捉え、建築の要素である素材、や家具、食器等も含めて全てが建築空間に繋がっていくというものでした。
そしてその建築が敷地を含む周辺環境に溶け込み、より有機的な空間をつくり出すことにありました。
ですから、ライトは家具、照明、テキスタイル、アクセサリーなども含めて自らデザインをしていました。それは建築を含めた空間全体をデザインするという有機的建築への思考があったからです。

またライトは来日する前から浮世絵の存在を知っており熱心に収集をしていました。その後、数年間にわたり何度か来日し、その滞在中、日本各地を歩き回り、そこで体験した日本の自然や文化から多くを学び、その影響を受けました。その1つが幾何学的な装飾と流れるような空間構成ですが、これが後のライト建築の特徴の1つとなっていきます。

この「 流れるような空間構成や有機的空間 」は、ライトが70歳頃に設計した作品「落水荘」や、91歳で亡くなったその半年後に完成した作品「グッゲンハイム美術館」に見ることが出来ます。

特に「 落水荘 」は、大胆かつ細部まで計算し尽くされた有機的建築とまで言われています。
この建築への挑戦はライトにとって相当の覚悟と決断が必要だったようです。事実、この建築の工事は、ライトにとっても、クライアントにとっても、そして建設業者にとっても極めて難易度が高く、困難続きの連続の上に、漸く完成したものでした。

傾斜が急で険しい敷地でありながら、静かに水が流れ、せせらぎがあり、そのせせらぎの水がやがて滝となって流れ落ちていく、そんな自然環境の中で、ライトはこの滝の上に建築を建てました。

この建築の基礎をまたいで存在している大きな岩の一部が建築の内部にある暖炉の前まで入り込んで来ています。
スチールで出来たガラスの連窓が、建築周辺の自然と空間的な繋がりをつくり、スチールで出来たガラスの扉からは、建築の下にあるせせらぎに降りていけるように設けられた階段が、建築の内部とせせらぎとを空間的に繋げ、より有機的な建築になっています。また滝の上に段状に張り出されたキャンティレバーのバルコニーがつくり出す空間は、この建築を包み込む緑豊かで静かな森や、森の中から聞こえる鳥の鳴き声、静かに流れていく滝の水の音、そして移りゆく微妙な季節の変化を、建築の内部へと空間的に繋げ、ライト建築の特徴である流れるような空間構成になっています。
ここに自然と建築が調和し共生している姿を見ることが出来ます。
現在、この落水荘を見るために世界中から多くの人々が訪れています。その多くの人たちが、自然に包まれ静かに佇んでいるこの落水荘を訪れ、その場に佇むと「あまりの美しさに、涙が溢れてしまう」とそう言われています。

ライトがこの世をさって4年後の、1963年に、この落水荘のオーナーであったカウフマン家より西部ペンシルベニア州保存委員会にこの落水荘が寄贈されました。また国定歴史建造物・国家歴史登録にもなりました。
その後、この落水荘を見学するためのツアーが出来、現在も実施されており、毎年、世界中から約17万人がこのツアーに参加しているそうです。

このような素晴らしい建築を設計して来たフランク・ロイド・ライトですが、彼の生涯は波瀾の連続でした。
スキャンダルが原因で仕事が激減し、経済的にも精神的にも、とても苦しい30年もの長い低迷期間をライトは過ごして来ました。 
身の回りで起きたとも、身から出た錆とも言える、結婚に絡んた事件や、他のさまざまな事件をも含めて、新聞はライトの私生活とその悲しみの悲劇を記事にし、非難や中傷をし続けました。
そしてそれに追い打ちをかけるように、ライトの建築について何一つ知らない多くの人たちはも、ライトの私生活のスキャンダルとその痛手と悲しみを話題にしライトを非難中傷しました。
また、日頃からライトを快く思っていなかった人たちからは、このスキャンダルと悲しみの中で、理不尽な責任をライトは押し付けられ、ライトは最悪の事態まで追い込まれギリギリの状態で生きて来ました。
こうした長きに亘る逆風の中で、ライトは度重なる挫折を味わいながら、また災難に遭いながらもその都度、自らの心と姿勢を立て直し、そして立ち上がって来ました。その強靭な精神力と行動力は、只々感嘆するしかありません。

弱い人間ならこれ程までの苦境に立たされ、完膚なきまでに打ちのめされたら、おそらく立ち上がることは出来ないでしょう。
しかしライトは違いました。不屈にも立ち直り、現実と闘い続けました。 
そうして漸く様々な問題が解決した頃には、ライトはもう既に、たいがいの人が引退する年代になっていました。
しかしライトは、ここからさらに自分の古い殻を脱ぎ捨て、創造力あふれる再生の道を突き進んで行きました。
そしてそんな苦境を漸く乗り越えて来た70歳前後のライトに、一筋の光が差し込んで来ました。
それが「落水荘:Fallingwater」と呼ばれる建築でした。
この建築でライトは脚光を浴び、一躍名声を高めることになりました。そしてこれを機にライトはここから「ジョンソン・ワックス社事務棟:SC  Johnson  Administration  Building 」、「グッゲンハイム美術館」など歴史に残る多くの建築を設計する機会に恵まれました。
殊にグッゲンハイム美術館に至っては、この建築の完成をライトは見届けることなく、完成の半年前の
92歳の誕生日を目前に、壮絶な闘いを続けて来た建築家フランク・ロイド・ライトは生涯を閉じました

ライトの生涯を振り返ってみると、ライトが建築家を志す前から、つまりこの世に生を受けたときから、92年間、ライトの生涯はずっと波瀾万丈で常に逆風に晒されながら、それに立ち向かって生きて来たそんな人生であったように思います。

ライトの70年に及ぶ長い設計活動は、あらゆる既成の枠を打ち破り続けた闘いの日々でした。
そうして出来たライトの建築作品は今も輝きを失わず時代を超越して存在しています。

ライトの研究者で、建築史家のH・アレン・ブルックス ( H . Allen  Brooks )は、ライトについて『 説明するにはあまりにも定義しにくく、あまりにも深い   』と述べています。

また1994年に開催されたニューヨーク近代美術館でのライトの回顧展では、タリアンセンのアーカイブズから8千枚の図面が展示されましたが、そのカタログの中で、35年間、美術館の学芸、そしてニューヨーク近代美術館の館長であった アーサー・ドレクスラー  ( Arthur  Justin  Drexler : 1925~1987年 ) はライトについて『「歴史上、もっとも独創的な建築家の1人 」であり「 詩的な想像力 」をもった改革者でもあった。そしてそのアイディアは「今も新しく、今も重要である」』と語っています。

2019年には、ライトが設計したアメリカ合衆国の8つの建築作品「落水荘   Fallingwater  (1936年竣工) 及び グッゲンハイム美術館  Guggenheim  Museum(1959年竣工)を含む」が『フランク・ロイド・ライトの 20世紀建築作品群』としてユネスコの世界文化遺産に登録されました。

ル・コルビュジエの晩年の建築や安藤忠雄さんの建築からは精神性を感じ、フランク・ロイド・ライトの建築からは品格を感じます。

ル・コルビュジエのあのエネルギッシュさとはずみで、必要とあればいつでも、たった一人でも戦場に立ち残って、新しい闘いに挑む姿勢を保ち続けたこと。開高健さんが、安藤忠雄さんに投げ掛けた『もっと全速力で走れ! 後ろを見るな! 全速力で走ってれば、そのうち、見えんもんが見えてくる。』の言葉。
安藤忠雄さんのコンペに挑戦しても仕事には繋がらない連戦連敗の連続。それでも、いつかはきっと道が開かれると、落胆する気持ちを前向きな気持ちに切り替え、不安と緊張感の中、この道は自分で切り開いて行こうと、そう思いを強くし、諦めずに挑戦し続けて来たこと。
フランク・ロイド・ライトは逆風の中で、度重なる挫折を味わい、苦境に遭いながらも、その都度、自らの心と姿勢を立て直し、立ち上がり、そして闘い続けて来たこと。

ル・コルビュジエもフランク・ロイド・ライトも命尽きるまで闘い続けた建築家でした。そして安藤忠雄さんは現在82歳ですが、今も挑戦し続けています。こうした建築家たちの姿勢を自らの心に深く刻み、人生の指針にしていきたいと思っています。

ここに書いたことは、誰かの啓蒙の為に書いたものでもなければ、建築家論を書いたものでもありません。
ル・コルビュジエや安藤忠雄さん、そしてフランク・ロイド・ライトがどのように生きて来たのか、私にとっては遥か遠く及ばない存在だけれど、そこを見つめることで、自らを客観視し、自分の現在位置を確認し、その上で、自分は今までどう生きて来たのか、そしてこれから自分はどう生きていくのか、そこを見つめ直し、必要なところがあれば立て直し、ル・コルビュジエや安藤忠雄さんやフランク・ロイド・ライトに一歩でも近づくことを願い、自らの行動指針とするために書いたものです。

そしてもう1つは、この文章を読んで下さる方々に、この世界のことをほんの少しでも垣間見て頂ける機会があればと思い、書かせて頂きました。

こうした文章を書いていると、何処からともなく私に、ご先祖様からなのか、神様からなのか『 身体は鍛えているのか!  強い心は持っているのか!  精神力はどうだ!  行動力はどうだ! 』と、そんな声が聞こえてくるような感じがしてまいります。

最後になりましたが、ここに開高健さんの「名言・格言」を8つ 及びドイツの哲学者フリードリッヒ・ニーチェ(Friedrich   Nietzsche)の言葉を記載し、これを自らの羅針盤に加えていきたいと思います。

  1.  成熟するためには遠回りをしなければならない。

  2.  無駄を軽蔑してはいけない。何が無駄で何が無駄でないかわからないんだ。 

  3. 遠い道をゆっくりと けれど休まずに歩いていく人がある。

  4.  朝露の一滴にも天と地が映っている。

  5.  臆病はしはしば性急や軽躁と手を携えるものだが、賢明は耐えること、耐え抜くことを知っている。

  6.  右の眼は冷たくなければならず、左の眼は熱くなければならないのである。いつも心に氷の焔をつけておくことである。

  7.  何かを得れば、何かを失う、そして何ものをも失わずに次のものを手に入れることはできない。

  8.  明日世界が滅ぶとも、今日君は林檎の木を植える。            ……………  開高健                           

『 人生の川を渡る橋を架けられるのは、自分しかいない。確かに、私たちをこの川の対岸まで運んでくれる道や橋や神々は無数にある。だが、そこを渡ってしまえば、自分を失う。私たちは自力でこの川を渡らなければならない。世界には、他の誰でもない、あなたにしか行けない道がある。それがどこへ続いているのかと尋ねることなく、ただ行くがいい。』       ………………  Friedrich   Nietzsche
 

四百字詰原稿用紙に換算すると40枚近くになる長い文章になりました。

ここまで読んで頂けたことを、深く感謝致します。 ありがとうございました。


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