ハナサカステップ解釈小説:『夏に咲く花』
本作は、企画「『ハナサカステップ』解釈小説対決」のために書かれたものです。これは、ぼっちぼろまるさんの曲「ハナサカステップ」をVRChatのフレンドさんたちと聴き、歌詞への解釈の違いを小説で表現し合う企画です。
ソーサツ・チエカさんの作品はこちら。
原曲MV(映像は解釈の対象としない):
夏に咲く花
雨の匂いにはもううんざりだ。
今日も一日、朝から雨が降りそうな曇り空が続いている。
じっとり湿った空気。
毎年毎年しつこい奴らだ。ひっきりなしに降り続く雨を窓越しに眺めながら、僕は彼女によく話していた雨の日早退法の改正案を思い出していた。
「雨が降ったら誰もやる気が出ないわけだから、給料無駄じゃないか。日本の生産力が低いのは全部これのせいだよ。これは国家レベルでなんとかするべき問題だ」
「またそれ? 飽きないねえ」
腕を振り上げ力説する僕に、台所に立つ彼女がくすりと笑う。
「法律で雨の日に早退する人に補助金を出すんだよ。無駄な労働は減る。給料は増える。良いこと尽くめだろ。日本も晴れる。これが本当の快晴案。なんつって」
「ふふ、くだらない。頭悪いんじゃないの」
そう言いながら、彼女は口元を抑えて笑っていた。
しゅわと何かを油で揚げる音。後ろからのぞき込むと、野菜やエビが所狭しと並んでいた。今日はてんぷらか。
揚がっているエビを一本摘まんで口の中へ。
「うん。美味い」
「あ、こら、何してんの!」
すかさず、お玉でガツンと殴られる。
「いたっ! 殴らなくてもいいだろ」
「あ、ごめん、つい」
「えぇ……」
なんてことない日常。
あの時の自分は、そんな日常が当たり前のことだと思っていた。
あまり口に出すことはしなかったけれど、僕は彼女のことが本当に好きだった。
部屋の一角にある仏壇。そこには壺と遺影が飾ってある。遺影の中の彼女は常に笑顔だ。
彼女が死んだのは桜の咲く頃だった。元々心臓が弱かったのもあったが、あまりにも急な別れだった。桜のようにあっけなく、彼女は散ってしまった。
なんでだよ。好きだ嫌いだも全然言い足りないってのに、灰だけ残してどこ行ったんだ。
毎日やっているように、今日も彼女の遺灰が入った壺を抱えるように手に取り、庭に出た。
生前、彼女は庭に咲く桜が好きで、毎年楽しみにしていた。彼女の好きな桜の木に散骨しようとずっと思っていた。だというのに、桜が散り、もう夏がくるというのに、僕は未だに何も出来ずにいた。この灰が無くなると、彼女が本当にいなくなってしまう気がして。
もう忘れた方がいい。分かってるのに、忘れることなんてできない。
壺を開け、灰を摘まむ。
えいやっと撒いた。一回、二回と、彼女への思いを振り切るように。
真っ白な灰が空を舞う。
―――その時、不思議なことが起こった。
桜の花びらがポンと咲いた。彼女の好きな桃色が、この6月に。灰を撒くと、そこからポンポンと桜が咲いていく。
何が起こっている?
気付けば、桜の匂いが漂うほどの満開。そういえば彼女のコロンはこんな匂いだったなと思い出して、振り返った先、そこには彼女が立っていた。
僕はしばし呆然としてしまった。夢を見ているのか。頬をつねるが、痛い。夢じゃない。
彼女は自分でも驚いたようにくるりと周って見せた。そして、桜を指さして、嬉しそうに笑う。僕に向かって何かを言っているようだったが、何故か彼女の声は一向に音にならない。ただ、なんと言っているのかははっきり分かった。
『枯れ木に花を咲かせましょう』
歌うような彼女の声が聞こえた気がして、僕は思わず手を伸ばして彼女の手を取った。
その手は冷たく華奢で、確かに彼女の手だった。
桜は10分と経たずに散った。
彼女もそれとともに次第に薄れていき、またすっかりと消えてしまった。
春の気配は幻のように消え、重く薄暗い梅雨空が戻ってきた。
今にも雨が降り出しそうな庭先で呆気にとられたまま立ち尽くし、僕はただ彼女の手の感触を思い出していた。
梅雨が終わり、湿った空気はそのまま暑苦しい空気に変わった。
あの日の事はよく覚えていない。
あの時、本当に手を触れることができるとも思わず、驚いて戸惑っている内に彼女は消えてしまった。
夢か幻かと思ったけれど、あの手の感触は確かに本物だった。
あの日以降、同じことを試せばまた彼女と会えるのだろうか、と幾度となく思ったが、その度、目の前で少しずつ薄れていく彼女を思い出して、胸が潰れそうになった。
何もできない自分。神様がいるとしたらなんて残酷なんだと思う。
彼女が目の前からいなくなるのはこれで二度目だ。あんな思いはもう二度と経験したくない。
怖い。
会いたい気持ちと板挟みで、まるで物が食べられなくなってしまった。ここ数日、暑さも相まって、水を口にするのがやっとだった。日々やつれていくのを感じる。
窓越しに庭の桜の樹を眺める。ふと、去年の夏に縁日で買った風鈴を思い出した。彼女と一緒に買った涼しげなデザインの風鈴。あれを吊るそう。
なんとなく、風鈴があればすぐに夏が終わるって気がしたから。
「そうじゃなくたって、オシャレな気がすんだ」
誰にともなく言い訳をする。いつも理由なんて後付けなのだ。
こんな時、いつも彼女が隣にいて馬鹿にしてきてたな。そんなことが頭に浮かぶ。
ふと、誰もいない隣に目を向ける。彼女がそこで笑っている気がした。
「そこにいるのか?」
なんだか堪らなくなって、気付いたら仏壇に向かい、骨壺を手に取っていた。
庭に出て、桜を前に立ち竦む。
どうして僕はまた同じことをしようとしているんだ。
絶対に後悔する。分かっているのに。
季節外れのおかしな景色が脳裏を過ぎる。
あんなの普通じゃない。でも、頼む、もう少しだけ。
一握り、灰をつかみ、桜に撒いた。
ポン、ポン、ポン。
花が咲いた。季節外れの桜が満開に。
ぐるりと見渡しても庭に彼女の姿はなかった。
きっと家の中にいるんだろう。妙な確信があり、部屋の中を覗けば、やはりそこに彼女はいた。
風鈴を指差して何かを言っているが、やはり声は聴こえない。彼女は一度笑った後、少し悲しそうな顔をした。
思わず駆け寄って、彼女を抱きしめた。懐かしい匂いに涙がにじむ。
「また会えた。頼む、もうどこにも行かないでくれ」
僕の声も彼女には届かないようだ。でもそんなのは関係ない。今は言葉はいらない。力の限り抱きしめた。彼女を二度と離さないと言わんばかりに。
窓の外ではまだ春のまま、桜の花びらが穏やかに舞っている。お願いだ、いつまでもこのままで。
そんな願いとは裏腹に、彼女はまた次第に薄くなっていく。
絶望に染まる僕の顔を見て、彼女が何かつぶやいた。
多分それは『忘れて』だったと思う。
彼女が腕の中から消え去り、僕は空を切った腕を抱えながら膝をついた。
彼女がいない日々に意味はあるんだろうか。
ふらふらとした足取りで灰の入った壺を手に取る。
蓋を開けて中を覗けば、灰の残りはあとわずか。
灰が無くなりゃ、僕も生きていられないかもしれないな。そんなことを思った。
骨壺は仏壇の奥深くに隠すように置いた。
彼女の事を思い出す度、胸が張り裂けそうに苦しく、叫び出しそうになる。起き上がることも億劫で、生きているのがやっとだ。
夜も満足に寝られず、日々が冗長に過ぎていく。
彼女の事を忘れるしかない。分かっているのに、どうしようもない。
彼女は『忘れて』と言った。でも日常の風景一つ一つに散りばめられた彼女の思い出がそれを許してくれない。
玄関の花瓶には彼女がいつも花を一輪、挿していた。今は花を活ける人はもういない。花瓶はもうずっと空のまま、彼女のことなど忘れてしまったようだった。
まどろみを破るように、音が聞こえた。
心臓に響く音。
見上げると、庭木の隙間から空にぱっと光の粒が広がるのが見えた。
花火だ。
湧き上がるように、彼女と最後に行った縁日の記憶が脳内を駆け巡った。
賑やかな人混み。焼きイカや焼きそばの香り。
風鈴の涼やかな音。
いきなりの夕立。
人でぎゅうぎゅうになった神社の軒下。
花火の中止のアナウンス。
「来年また来よう」
濡れた髪を撫でつけながら、残念そうな君の顔。
僕は、飛び起きるようにして、納屋に飛び込み、自転車を引っ張り出した。こんな元気がまだあったのかと自分でも驚いた。
仏壇の奥から骨壺を取り出す。頭が焼けそうに熱い。耳鳴りがする。
これが最後。でも構うものか。
庭先に出ると、壺の中身を全て、ひっくり返すようにして桜に撒いた。
一斉に咲き誇る桜の花。
彼女はすぐそばにいた。
彼女は何も言わず、全て分かっているように頷くと、自転車の後ろに乗って、僕の腰に手をまわした。去年と同じように。
町を抜け、橋を越え、河川敷を越えて、その先へ。
彼女が消えるまでそれほど時間はない。
僕は全力で自転車を漕いだ。
久しぶりの運動で身体が付いてこない。酸欠でぼんやりとした頭の中を、彼女との思い出が走馬灯のように駆け巡っていく。
ふざけ合った思い出。喧嘩した思い出。全部彼女との大切な記憶だ。
ああ、そうだ。忘れなきゃいけないことなんてない。絶対に忘れない。
息が切れ、視界がかすみ、河川敷に差し掛かったところで、ついに自転車ごとひっくり返った。
二人そろって下草の茂みに転がり落ちる。
擦りむいた膝の痛み。立ち込める夏草の匂い。
一際大きな花火が上がる。
夏が、終わっていく。
「……ごめんな」
大の字に倒れながら、僕は呟く。
彼女は僕の手を取り、フルフルと首を振る。
二人で花火を眺める。
花が咲いた。夏の夜空に。花が咲いた。綺麗な色に。
次第に、彼女の色が薄くなってきた。
今度こそ本当に、彼女がいなくなってしまう。
僕は溢れる涙が抑えられず、彼女を抱きしめた。彼女も泣いていた。二人で子供のように泣きじゃくる。
涙で前も見えない中、彼女に最後のお別れを告げる。
「君の事は忘れないけど。気にしないで。僕は大丈夫」
涙を拭って、にかっと笑って見せる。
「怪我に気を付けて。また会おうね」
次なんてないと知りながら、そんな強がりを言って。
彼女も涙を拭い、何かを呟いた。多分『ばか』だったと思う。
そして、にっこりと花が咲くような満面の笑みを浮かべた。
そうだ、僕は彼女のこの朗らかな笑顔が好きだった。そんなことを思う。
ひゅるる、と大きな花火が上がる音。
上っていく花火玉に惹かれるように、二人揃って空を見上げた。
空一面に広がる色鮮やかな閃光。遅れて音。体に響く振動を残して、火花はぱらぱらと散っていった。
余韻のまま視線を落とせば、彼女の姿はもうそこには無かった。
胸の痛み。涙が出そうになる。
でも、彼女のことは決して忘れない。
奥歯を噛みしめ、涙を堪える。
僕は彼女の記憶を胸に、ずっと生きていく。
最後の大輪の花火。
この確かな映像を僕は絶対に忘れない。
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